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小説 名娼明月

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粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

 むかし、博多柳町薩摩屋に、明月という女郎があった。
 この女郎、一旦世を諸行無常と悟るや、萬行寺に足繁く詣で、時の住職正海師に就き、浄土真宗弥陀本願の尊き教えを聞き、歓喜感謝の念、小さき胸に湧き溢れ、師恩に報ずる微意として、自分がかねて最も秘蔵愛護し、夢寐の間も忘れ得ざりし仏縁深き錦の帯を正海師に送った。
 そうして、廓(くるわ)の勤めの暇の朝な朝な萬行寺に参詣するのを唯一の慰めとし、もし未明の

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「小説 名娼明月」 第2話:恋の擒児(とりこ)

「小説 名娼明月」 第2話:恋の擒児(とりこ)

 今から約三百五十余年前、将軍足利家の勢威衰えて、諸国の大名を制するの力がない。御代は正親町天皇(おおぎまちてんのう)の永禄天正のころである。尾張の織田信長、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、中国の毛利元就、四国の長宗我部、肥前の龍造寺隆信、豊後の大友宗麟、その他幾十百となき大小の豪傑が全国各地に崛起(くっき)し、互いに兵戟(へいげき)を交えて領国の奪い合いをしたから、その時分のわが日本は、まるで鼎

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「小説 名娼明月」 第3話:喜びは水の泡

「小説 名娼明月」 第3話:喜びは水の泡

 矢倉監物の家来、柳島才之進は、主人監物の命を畏み、忠義顔に女の居所を捜し始めた。三輪山の紅葉見学に来るほどならば、遠くても二里か三里の間であろうと呑み込み、東西に駆け廻り、年頃の娘のいる家毎に訪ね歩いた末、とうとう女の居所を突き留めた。
 すなわち、その女が、西河内なる郷士、窪屋与次郎一秋の愛娘、お秋であることから、窪屋家の祖先が藤原家の家臣であったこと、かつ西暦元年、時の関白太政大臣兼家卿から

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「小説 名娼明月」 第4話:深き宿怨

「小説 名娼明月」 第4話:深き宿怨

 十中八九はわが君監物の物と思い込んでいたお秋に、結納の段までこぎつけた男があろうとは、さすがの才之進も目繰返すように驚いてしまった。あまりのことに夢かと疑ってみたけれども夢ではない。しかも人もあろうに、かの伏岡金吾とは何事ぞと、しばしがほどは言葉も出なかった。
 才之進の主人矢倉監物と、この伏岡金吾との間には、じつに面白からぬ感情がある。二人の間の面白からぬ感情というよりも、むしろ監物の方より金

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「小説 名娼明月」 第5話:復讐の決心

「小説 名娼明月」 第5話:復讐の決心

 酔いどれて我から喧嘩吹っ掛けし為とはいえ、人出の中で手玉のごとく抛(な)げられ、赤恥かいたる矢倉監物、歯を食いしばって、よろよろと立ち上がれば、もう伏岡金吾主従の姿は見えぬ。打ち落とされし地上の刀を拾い上げ、恥と恨みのために酔いも一時に醒めはてし思いして裏道伝いに帯江に帰った。
 思えば憎き二人である。この恥晴らさでどうしておこう。それにしても、あの二人は、いったいどこの何者だろう、と家来の柳島

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「小説 名娼明月」 第6話:時節ついに到来

「小説 名娼明月」 第6話:時節ついに到来

 そのうちに伏岡金吾とお秋との縁談は立派に整うて、結納の取交しも滞りなく済んだ。けれども、女十六歳と男二十一歳の婚姻は、伏岡家にいささか忌所(いみどころ)あればとて、結婚の式は、来る元亀3年の正月ということに極まった。たとえいまだお秋の輿入れはなくとも、もう伏岡家と窪屋家とは立派な親族である。両家の間は、日に増し親密の度を加えてくる。
 それと同時に、この吉事は両家出入の者の口から自然と洩れて、村

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「小説 名娼明月」 第7話:人ちがい

 いまや二人が行き過ぎんとするを、監物は足音忍びやかに窺(うかが)い寄り、二尺八寸の太刀抜く手も見せず、上段に振り翳し、金吾の傘(からかさ)傾けし後方(うしろ)より、全身の力を罩(こ)めて斬付くれば、血煙立ててドッカと倒れる。斬られし躯(からだ)は斜めに掛けて両断(ふたつ)となり四辺の雪を紅(あけ)に染めて花よりも紅い。驚いたのは伴の下僕である。夢中になって逃げかかりしを、監物は、おのれも讐敵(か

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「小説 名娼明月」 第8話:意外の珍客

「小説 名娼明月」 第8話:意外の珍客

 伏岡金吾主従は、提灯うち落とされて、さては曲者ござんと、隙なく身を固めて警戒したが、そのうえに自分たちを襲うでもない、雪明りに透かして油断なく見ていると、二人の男がしばらく争っていると見る間に、逃げ出す一人を、一人の大男が追っかけて、やがて二人とも見えなくなった。賊でもないらしい。とすれば、武士同志の果し合いか。イヤそれとも違う。合点ゆかぬと眉を顰(ひそ)めて、金吾主従が話していると、雪はやや小

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「小説 名娼明月」 第37話:旅に病む

 月日は矢のように流れる。馴れぬ旅とはいえど、一日の五里は積もって、十日の五十里である。
 母娘は、筑紫(つくし)の空に一日一日と近づいてゆくを楽しみに、今は人家軒先の袖までも、以前ほどは恥ずかしくもない。鈴振るごとき声に称うるは「巡礼にご報謝」の称語。巡礼姿に隠せし顔は、見目美しきお秋と、品格高き阿津満。路々家々の人が恵みくれる報謝は、母娘を西へ西へと送った。
 露は霜とと変わって、晨(あした)

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「小説 名娼明月」 第38話:厭な商人

 阿津満の病気は、軽くはなったが、まだ床を離れぬ。合力の蓄えも、もう費(つか)い果たした。ただ貯えを費い果たしたばかりではない。少なからぬ宿料の滞りと、宿から立て替えてもらったる薬代がある。こから先の母の薬代をどうしよう? 宿屋の払いはどうなるであろうか? それかといって、自分が今外に出て袖乞いをしていては、母の看病をしてくれる者がない…

 とお秋はいろいろと考えを巡らしてはみたが、全く見知らぬ

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「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(前)

「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(前)

 商人は醉いの廻るにつれて、だんだん言葉使いや様子が無遠慮になり、相間相間に変なめつきをして、底気味悪く笑ってみせた。

 「当家の主婦(おかみ)よりの話は、委細承知したれば安心せよ」

と云いながら、お秋の手を握って、ぐいと引き寄せ熟柿(じゅくし)のような息を吐いた。この瞬間、お秋は、

 「何をなさるの?!」

 と言って、飛び退いた。思うさま商人を恥ずかしめてやろうとは思ったが、主人(ある

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「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(後)

「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(後)

 お秋にとりて、このくらい苦しいことはない。早呑込みの罪は主婦(おかみ)にありとはいえ、最初はこちらから頼みしこと。かつ主人(あるじ)夫婦と商人との金の関係、自分の返事一つで、いずれともなる次第。
 かくと知りて、なお反(そむ)くは、主人夫妻にに対し、何とも済まぬ次第ではあれど、操(みさお)は女の生命(いのち)である。我ら母娘が飢ゆればとて、主人夫婦の顔が立たざればとて、主婦の言葉に従うことはでき

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「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙

 急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。

 「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」

 と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は

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