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「小説 名娼明月」 第4話:深き宿怨

 十中八九はわが君監物の物と思い込んでいたお秋に、結納の段までこぎつけた男があろうとは、さすがの才之進も目繰返すように驚いてしまった。あまりのことに夢かと疑ってみたけれども夢ではない。しかも人もあろうに、かの伏岡金吾とは何事ぞと、しばしがほどは言葉も出なかった。
 才之進の主人矢倉監物と、この伏岡金吾との間には、じつに面白からぬ感情がある。二人の間の面白からぬ感情というよりも、むしろ監物の方より金吾に対して忘るべからざる深き宿怨がある。というのは、去んぬる年の秋八月、賀夜郡吉備津宮(かやのごおりきびつのみや)の祭礼の日、金吾は若徒の三郎を従えて参詣をした。この主従二人が押し合う人混みの中を辛くも通りぬけて神前に達し、武運長久を祈って広馬場に出でんとするとき、鳥居の蔭から一人の泥酔武士(よりどれざむらい)がよろよろと出てきて、三郎にはたと突き当たった。どこの泥酔(よいどれ)かと思って、さほど腹にも立てず行き過ぎようとすると、泥酔が呼び止め、

 「この慌(うろた)え者、待てッ!」

というから、見ると真っ赤な顔の目には血が漲(みなぎ)っている。これを見たる三郎、むっとはしたけれど、相手は酔っ払いである。事を荒ぐるも大人気ないと思って軽く黙礼して行き過ぎかかったのを、酔っぱらいはツカツカと追いきたり、いきなり三郎の襟首掴んで後ろから地上に引据え、

 「人に突き当たって一言の挨拶もなく行き過ぐる無礼者!」

と罵ったから、今度は三郎が承知せぬ。ムクリと起き上がるが早いか、

 「泥酔と思って容赦をしておれば増長する大馬鹿者! 元を糺(ただ)せば貴様こそ突き当たったではないか!」

と拳を石のように固めて敲(たた)きかからんずる一刹那、傍らから見ていた金吾が屹(き)っと寄って三郎を制し、泥酔の前に現れた。

 「これお武家、ただいまは家来の者が言語に絶したる粗忽、家来に成り代わり、手前より平に謝りまする」

と詫び入るを、泥酔武士は、ますます威丈高となって一歩も退かぬ。

 「人に突き当たっておいて一言の挨拶もせぬばかりか、この身を指して大馬鹿者とは何事だ! その弁蔬(いいわけ)立派に立たば、とにかく、さもなき時は主人家来の差別はない! 桶狭間以来鍛え込んだる刀の切れ味、お目にかけよう!」

と刀の柄(つか)に手を掛け、ジリジリと詰めて寄る。
 迷惑なのは金吾である。しかし、どうかして穏便に済まそうと、なお言葉を尽くして謝れども諾(き)かばこそ、

 「さほどに謝らば、住所氏名を明らかにして土下坐せよ!」

と云って諾(き)かぬ。

 それ士(さむらい)の喧嘩だというので、参詣の群衆がたちまち、このごたごたを真っ黒く取巻いた。群衆は、泥酔(よっぱらい)の態度が面憎くてたまらぬ。

 「そやつは帯江の痩せ浪人、矢倉監物という悪徒(あくたれ)だ!」
 「殴れ!」
 「敲(たた)け!」
 「殺せ!」

と罵り騒いで動揺(どよ)めきたったから、監物が火の付くように怒ったのも無理はない。

 「何を! 無礼者めッ!」

と一喝すると同時に、腰の物をスラリ抜いて群衆の中に飛び込む一刹那、

 「しばらく待った、お武家!」

 と呼んで、袂(たもと)捉ゆる金吾を、監物は、

 「ええッ! 邪魔くさい!」

と一突きに突き飛ばし、玉散る剣を縦横に振り翳して群衆の中に斬って入る。雪崩を打って逃げ惑う群衆の阿鼻叫喚、あわれ衆命、監物の刀の錆と消えんと思われし瞬間、はや見るに堪えかねし金吾、白刃の下をひらっと潜って、監物の利き腕を発矢(はっし)と打てば、刀は音に応じてがらっと落つる。

 「おのれ! 重なる不届き!」

と眦(まなじり)を決して掴みかかる監物を、若徒三郎は、すばやく後ろより襟首むんずと掴んで、礑(とう)と地上に投げ倒し、もんどり打って小石のごとく三四間彼方に転びゆく監物の無念そうな姿を快(こころよ)げに見遣って、金吾主従は引き上げた。
 



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