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高尾山ノスタルジア No.18:奥之院から高尾山山頂へ

御本社の脇を進み、石の階段を上がると小高いところにささやかな平地があり、そこには奥之院ならびに浅間社が鎮座します。現在の御本堂が建立される前にその場所にあった三棟のお堂のひとつである護摩堂が明治19年(1886)の台風による境内の被災後に移設され奥之院となったとのことですが、戦前の写真を見ると、その姿は現在の姿とだいぶ違います。そのあと、さらなる移設か建て替えがあったものと思われます。

薬王院御本社
御本社からさらにきざはしをあがると奥之院が鎮座する。この裏に浅間社がある。
大正7年(1918)から昭和7年(1932)の間に発行されたと推定される絵葉書に残る奥之院の写真。明治19年(1886)の台風により境内に崖崩れが発生し、かつての薬師堂ならびに現在書院がある場所にあった本堂が被災し倒壊。その後薬師堂は建て替えられて明治34年(1901)御本堂が落成します。この工事に伴い、薬師堂の左に建っていた護摩堂は高い位置に移設され奥之院不動堂になりました。この写真の建物でしょうか。現在の建物はあきらかにもっと大きいので、それからさらにお堂の移設や建て替えがあったものと思われます。(注1)
奥之院のすぐ裏に鎮座する浅間社。ここにも鳥居があります。
ひとつ前の写真にある奥之院と建物の意匠が大変似ています。これは、かつての奥之院(すなわちいにしえの護摩堂)がさらに移築されて浅間社となったのか、それともひとつ前の写真の建物はそもそも浅間社で「奥ノ院」とあるのは誤植なのか。
現在の浅間社と奥之院を観察すると、現在浅間社とされている建物がかつての奥之院(護摩堂)であり、そのすぐ前に現在の奥之院が建てられたことで浅間社に衣替えされたように思えますが、確証はありません。

奥之院の裏に建つのが浅間社。奥之院は不動明王を祀る不動堂ですので仏教寺院ですが、浅間社の前にある鳥居はここが神域であることを示すもの。ここでも薬王院の最大の特徴である神仏習合のならわしが際立ちます。

浅間社は、その名が示すとおり富士山を祀るおやしろです。高尾山の歴史は富士講との密接な関係なしに語ることはできません。さまざまな逸話や文献が残されていますが、ここでは「八王子名勝志」の一節を引きます(資料①)。表示できない文字は現代文字に置き換え。

(資料①)「八王子名勝志」より。富士講に関する一説部分。(注2)

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浅間丸せんげんのまる異本いほん小田原記をだわらき(…)三ノ巻云く駿河国冨士山ハ甲州駿州豆州三ヶ國のさかひにありてなかばハ甲州なかばハ駿州すこしく伊豆國にかかりしなかに駿河大宮の浅間をおもてとし甲州吉田の浅間をうらとし諸國の参詣さんけいこの二口ふたくちだい一とししかるに此五十餘年甲州武州乱國らんごくとなり國境くにさかひせきをすゑ彼山かのやま参詣さんけい宿路しゅくろふさぎけれバ甲州吉田の御師おしども参詣さんけいみちなけれバ渡世とせいすべきやうなくて色々いろいろ工夫くふうめぐらし武蔵國八王子に高尾山とてある行基菩薩開山の地藥師如来本尊ほんぞん也これへ冨士浅間大菩薩勧請かんぢゃうし奉り吉田の禰宜ねぎどもことごとく八王子へうつりて富士浅間の高尾山へ飛び給ふ由を披露す於茲ここにおいて奥州常陸出羽上野上総下総安房とうより多年関所にさゝえられて参詣ならざり道者どうしゃどもこれきくことごと参詣さんけいなし八王子高尾山忽ちに繁昌す。
あんずるに北口登山の冨士導者どうしゃかならず當山に参詣さんけいなしそれよりして懸越うけごし小佛峠こぼとげとうげいづるものはさる由緒ゆいしょあればなるべし又此書に八王子といへる散田さんた新地の西北にして吉田川原の地これなり
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浅間丸せんげんのまる」は表参道一本杉(タコすぎ)から薬王院の伽藍の入口までの間、右の方に見えたと言われる小山で、安政2年(1855)の髙松勘四郎による「武州髙尾山畧繪圖」に「せんげん」が描かれています(資料②)。現在の神変山じんぺんやまのことと思われます。西丹沢の檜洞丸や畦ヶ丸のように、丸っこい頂上を持つ山は「丸」で呼ばれることがあります。当時はそこに浅間明神を祀った石の祠があったとのことで、先述の一節はそのいわれを説明したものです。

(資料②)「武州髙尾山畧繪圖」(注3)
薬王院の山門から右斜め上方向、一本杉の先に「せんげん」が描かれている。ここは、現在の神変山じんぺんやまの位置に相当する。

それによれば、富士山(浅間社)へのお参りは駿河国大宮から上がるルートと甲斐国吉田から上がるルートのふたつを繋ぐ道がメインだったが、戦国時代、甲州武田氏と武州北条氏の間で争いが勃発した際に関所が建てられ参拝ルートが塞がれてしまったため、甲州吉田の御師(信徒のために参拝や宿泊の世話をする神職)がこれではおまんまの食い上げだということで、武蔵の国にある高尾山とかいうところにに富士浅間大菩薩を祀ることを請願し、甲州吉田の神主さんたちがこぞってそっちに行っちゃった結果長年参拝が叶わなかった信徒もみんなそろっておしかけてしまい、高尾山はたちまち大繁盛となったとさ、ということのよし。

この富士吉田の神主さんたちの請願話は信徒にしてみればありえないぐらいの遠回りになるのでその真偽はあやしい。ですが重要なポイントは、江戸期、彼らの末裔であり、高尾山をとおり富士山を目指す富士講の一行を案内する導者が高尾山の尾根を経由して小仏峠まで案内することを許されていたのは、この逸話に基づく正当性がその根拠であったということです。なぜならば、高尾山山頂を経由し小仏峠に至る道は小仏の関所破りのルートになるため、薬王院はこのルートを通過する者の取り締まりを幕府から厳命されていたからです。にもかかわらずこのルートの利用を許されていたのはその「由緒ゆいしょあればなるべし」というわけですね。

ちなみに、「八王子名勝志」の一節にある「さゝえられ」ということばですが、いま我々はこれを通常力添えや応援の意味で用います。一方、「敵の猛攻をなんとか支える」など、もちこたえる、ないしは、くいとめるの意味で使うこともあります。ですが、このことばに語義が複数あるわけではありません。力添えをするのも、もちこたえるのも、状態を維持するというひとつの語義にもとづく用法にすぎません。ですので、「多年関所にさゝえられて参詣ならざり」はもちろん「長年関所にくいとめられて(邪魔されて)参詣叶わぬ」という意味であり、「長年関所に応援されて参詣叶わぬ」ということではありません。

「支える」の文語体が「支ふ」。口語体か文語体かの違いだけで、意味はもちろん同じです。

鳥居まこと作詞、瀧廉太郎作曲「箱根八里」第一章の前半の歌詞を引きます。

箱根はこねやまは 天下てんかけん
函谷關かんこくくわんも ものならず
萬丈ばんぢやうやま 千仭せんじんたに
まへそびえ しりへにさゝふ

昔のひとたちは「ささふ」に「障ふ」や「支ふ」などの漢字をあてたのですが、無論意味は全部同じです。さまたげるということ。現状維持は片方においては守るべきものですが、もう片方にとっては障害にほかならないですからね。そこにこのことばの語義があります。

念のためですが、スペリングはなんであれ発音は「サソー」です。ただし「箱根八里」をうたうときは、「サソー」と長音ではなく「サソオ」と「オ」をきちんと発音するようお願いします。これが理解できない人は日本語がわからない人なので、この歌をうたう資格はありません。YouTubeなどで検索すると「サソウ」とうたっている動画に出逢いますが、これは聴く者をして赤面の極み。絶え難い恥ずかしさです。

ここのところ「のたまった」などという、見た目にも醜悪な表現が文藝の分野でも散見されますが、これも「のたまふ」を「ノタマウ」と発音するものだと字面じづらだけで勘違いして、その過去形を「のたまった」などと勝手に造語しているのでしょう。スペルは「のたまふ」ですが、発音は「ノタモー」です。戦後かなづかいにするならば、「のたもう」。その過去形は当然「のたもうた」です。

閑話休題。「まへそびえ しりへにさゝふ」を「高い山が前にそびえ、その山を後ろから谷が支えている」という噴飯ものの珍説を開陳する諸兄がおられますが、これは「まえは高い山、うしろは深い谷にあゆみをさまたげられ、進退ここにきわまれり」という険山深谷の情景を詠んだものです。「谷が山を支える」などという解釈では、「萬丈ばんぢゃうやま」から読めば文章として根本的にチンプンカンプンになってしまうことは、普通に日本語を読解できる方であればおわかりいただけますよね。山登りしたことないので想像力が足りず、この詩の情景が浮かばないのでしょう。


(注1)
《写真ならびに絵図に関する著作権について》
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掲載している写真絵葉書は、全て著者が個人で所有しているものです。
本稿掲載の著作物の使用ならびに転用の一切を禁じます。
参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A

(注2)
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(注3)
《東京都立中央図書館「画像の使用について」に基づく表示》

東京都立図書館蔵 髙松勘四郎 武州髙尾山畧繪圖 安政二年(1855)


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