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ボロボロの靴から子供に伝わる「父親の頑張る姿」。

「パパが頑張ってる証拠だね!」

その言葉を言われ、僕は人生をかけて子供を守ることを改めて強く心に誓った。

パパが頑張っている姿は子供には見えない

普段、自営業や自宅で仕事をしていない父親なら、子供に働いている姿を見せる機会など、そうあまりない。

上司に怒られたり、部下に小さな気配りをしたり、仕事で成果を出したり、仕事で失敗したり、日々の仕事を家族のために頑張っている父親は、子供にあまり感謝されることが少ないし、「子供に父親が頑張っている」なんてあまり思われることもない。

僕はその一人だと言える。

僕は職業柄(デザイナー)、パソコンで作業することが多いので、自宅で仕事をしていても、”パソコン=YouTubeを観ている”というレッテルを子供から軽率にも貼られてしまうことが多い。

「パパ、またYouTube観てる」とか。

「いやいや、パパは仕事をしているんだよ」なんて、今ではもう言い返さなくなった。
それはすでに何十回もそんなことを繰り返した結果、「はいは〜い。パパはいいな、好きな時にYouTube観れて」という子供側の受け取り方が、全く変わらなかったからだ。

平日は職場で仕事、休日に少しだけ自宅で仕事をしていても、”パパは家族のために仕事を頑張っている”なんてこと、子供には全く通用しない。

パパが頑張っている姿は、子供には見えない。

そう思っていた。

でも、子供はちゃんと見ていたんだと思える出来事があった。

ボロボロになった靴から”頑張っている”が伝わる

僕は基本的には仕事が好きだけど、それと同じくらいスケートボードが好きだ。それはある種の趣味とも言えるし、かけがえのないライフワークとも言えるほど。

ある休日に、子供たちとスケートボードの練習をしに公園へ。いつものようにスケートボードを練習しながら、子供と他愛もない会話しつつ、刹那のように過ぎるであろう時間を楽しんでいた。

その練習の帰りに、ふと自分が使っていたスケートボードのシューズ(靴)がボロボロになっていたことに気づいた。

スケートボードをしていると、案外すぐにシューズはボロボロになってしまう。「また買い換えなきゃな〜」と思いながら、となりにいた小学2年生の長女に何気なく、こうこぼした。

「ほら、パパの靴、またボロボロになってるよ。(笑)新しいの買うの、またお金かかるね。」

俺「パパの靴、スケボーですぐボロボロになる」

小2の長女「スケボー頑張った証拠だね」

俺「あっ、そうだね…(泣)」

僕がこぼした言葉に対して、長女の返答に何かを期待していたつもりは全くなかった。もちろん長女も、僕が発した言葉に対して、期待をさせるような気持ちで答えたつもりなく、ごく自然にそれは交わされた。

そんな会話は、僕にとって本当に胸が熱くなるくらい、すごく嬉しい会話になった。

僕の履いていたボロボロの靴に、”頑張った証拠”という名前をつけてれくた長女。

ボロボロの靴=頑張った証拠

それは紛れもなく、ボロボロの靴から、”パパの頑張っている姿”が、子供に伝わっていた証拠。

子供はちゃんと父親のことも見ている

普段、父親のありがたみなんて子供には伝わらないことの方が多い。特に、低学年の子供にはほとんどと言っていいほど、父親の存在は母親の存在には遠く及ばない。

子供が何気なく書いている絵に、ママが描かれているのにパパである僕が描かれていない時は、断崖絶壁から飛び降りたくなる。

でも、パパの絵がちゃんと描かれている時は、雲の上まで大ジャンプしたような気持ちになる。

子供はちゃんと見てくれている。

やっぱり見返りを望んでしまうけれど、たまにパパの頑張りに気づいてくれれば、それでいい。

それでいいというか、それが僕のやるべきこと。

仕事を頑張っているとか、好きなことを頑張っているとか、どんな些細なことであっても、子供から頑張っていると認められたことが、僕としてはすごく嬉しかった。

そしてそれは、自分自身が自分以外の誰かにも(子供にも友人にも同僚にも)、そう思えるようになりたい。

子供に「パパは頑張っている」と思われることは、すごくすごく生きている意味を感じさせてくれる。

生きている上で、かけがえのない存在に、かけがえのないと思ってもらうことが、何よりも生きていることの意味を見出してくれる。

真っ暗な闇の中で、そっと小さな火を灯すロウソクのように、子供にとっての道しるべになりたい。

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「パパが頑張ってる証拠だね!」

その後に続く返事を、こう変えていきたい。




「うん、君のためにね。」




これを読んでくれたあなたへ。

僕のように、子育てで色々な葛藤がある父親として、陰ながら頑張るしかないけれど、子供はちゃんと見ていると思います。でもそれは、父親として、日々の子供とのひとつひとつの関わりに非常に大きく比例することだと思います。

あなたが死ぬ時に、「ありがとう」って誰に言われたいですか?

僕は、友達でもない、母親でも父親でもない、自分にとってのかけがえのない家族に、そう言われて死にたいです。

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