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寄り添った影 その1

以前に書いた短編小説です。続編を期待されていましたがまだ書いていません😅恋愛パートもっと書いてみたらと言われたりしましたのでいいね👍やコメントなど頂けたら、そのあたりをまた重厚に書いた続編を作ってみても良いかと思います😌本作ではそこがテーマではないと言う視点で書いたものでした。

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壁に掛けられた時計は、19:30を指している。テーブルを挟んで、僕と少年が座布団の上に向かい合って座り、テーブルの上には、コップに入ったウーロン茶が二つと、国語、数学、英語問題集と表紙に書かれた冊子が無造作に置かれている。僕は、数学と書かれた一冊の冊子を手に取って、ぱらぱらとページをめくり、一つのページをおもむろに少年の前に広げた。
「いいかい。今日の単元はポイントだからさ、覚えて理解しておくんだ。解いてみてごらん。」
広げられた問題集には、連立方程式の文章題問題が左右に二問ずつ書かれている。正座した僕の真向かいには、がらの入った白いTシャツを着た眼のくりっとした髪の短い少年がテーブルを隔てて、同じく正座して座り、右手に握ったシャープペンシルを問題集に押し当てたまま、首をかしげたり、頭を振ったりする。だが、押し当てられたシャープペンシルは最初の場所からは一向に動かなかった。
「分かんないかい。うーん、どこが分かんないかな。」
僕も目を細めて首をかしげて、困ったように声を上げる。
「えーと、まずは問題を良く読んでみて。この先に走っている人の速度をXと置くんだ。そして、この後から走ってくる人の速度をYと置く。先に走ってる人は、後に走ってる人より5分早くスタートしたんだよね…。」
少年は、目をまるまるとさせながら僕の話に耳を傾けているのだが、視線は下を向いて身を固めていた。
「そうだなあ。どうしようか。もうちょっと前の方からやってみるかい。」
少年はこくりと頷く。
「どこから、復習するかな。」
そして僕はテーブルに置かれた数学の問題集のページをめくり始めた。

僕が電車の中にいたのは、それから1時間半後の21:00だった。今の時間、電車の中に人影はまばらで、仕事帰りなのだろう鞄を持ったスーツ姿の男性や女性が多い。窓から見える街の明かりは煌々としていたが、街に人影を見る事は出来なかった。僕が家庭教師のアルバイトをしている中学生の家は、僕のアパートのある街から8駅隔てた所にあり、移動には電車は使っている。帰り際、中学生の母親から子供の勉強の具合はどうでしょうかと聞かれ、分からないままでつまづいた部分があると思いますが、それを補うようにしっかりと復習をやりましょうと答えた。
家庭教師のアルバイトの時給は2000円で、比較的割高なアルバイトだ。地方から東京に上京して大学に入学して以来、足りない生活費をアルバイトで補っている。親はわざわざ東京の大学に行かなくても、地方の大学でもいいんじゃないかと勧めたが、高校生だった僕は東京の大学に行きたいと言い張った。しまいに僕の頑とした態度に両親も折れ、東京の大学に行ってもいいが、東京は物価が高いから、仕送りで足りない分はしっかりアルバイトをするという条件で東京に行くことにOKを出した。大学に入学してそれから、家庭教師を含めて二つのアルバイトを掛け持ちしながら大学に通うという生活を送っていた。
この大学に進むことを決めたのは、インターネットで調べた大学の案内が面白そうだったこと、それなりの知名度のある大学だったから卒業後の進路も融通が利くだろうという現実的な理由からだった。高校では理系の進学コースで、大学では工学部を進路に選んだ。専門課程は電気・電子専攻にしようか、化学専攻にしようかと迷った末に化学専攻に進んだ。二年生となった今は、毎週の火曜日、水曜日、木曜日の午後の授業の時間は、化学実験に当てられている。
今日の家庭教師のアルバイトの終わった後は、有機化学実験のレポートを書こうかと考えてバックにレポート用紙と実験に使ったテキストを入れてきていた。部屋にあるパソコンは、デスクトップのパソコンを使っているから、一度、紙にざっと下書きした後にパソコンに入力しようと思う。大学ではインターネットで調べたホームページの文章をそのままにコピー、ペーストして貼り付ける所謂、コピペに厳しく、もしもそうやってレポートを作成した事がばれたら赤点は免れない。そういうこともあって、自分の考えをパソコンに入力する前に一旦、紙に書いてみる事にしていた。それに知識を身につける為には紙に書いた方が覚えがいいだろう。
僕が住む街の駅のビル構内には、コーヒーショップがあって僕はたまにそこで休んで本を読んだり、レポートを書いたりしていた。このコーヒーショップは、普段から下校途中または、塾や予備校の帰りであろうか高校生が教科書やテキストを広げて勉強していたり、仕事帰りであろう会社員やOLがパソコンを広げてなにやら作業をやっていたりするから、店全体が本のない図書館にも似た雰囲気を醸していた。今から行けば、閉店までまだ1時間以上はあるからゆっくりとレポートに取り組めるはずだ。
僕は電車の窓から外の暗がりを眺めながら、この前の有機化学実験でやった一連の有機合成反応の事を思い出した。亀の甲羅の形の分子構造を持った出発のベンゼン環を段階を追って変化させて、別の化合物を作りだしていく。ガラスの実験器具に金属と液体を加えて温めたり、混ざった液体を分離したりと言った一連の操作が、中世のヨーロッパで行われていた錬金術を連想させるなと思った。そうしているうちに電車が僕の街についた。
コーヒーショップの中に、客は7人ほどだった。窓に沿って造られた長テーブルに腰掛けて、本とノートを広げている高校生らしい客が男女一人ずつ、丸テーブルに腰を掛けてノートパソコンを広げている女性客が一人、四角いテーブルに向かい合って腰掛けて話込んでいる男女の客が二人いた。カウンターのレジ前には、注文をしようとメニューを眺めている客が男女一人ずついて、天井から下がった暖かいランプの照明が店内を照らし、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。カウンターの後ろの台の上ではコーヒーメーカーが、ぐつぐつと音を立てながら動いて、店全体をコーヒーの独特な香りで満たし、カウンターの中には、白いシャツに、黒いスカートはき、紺色のエプロンをつけて髪をポニーテールにまとめた若い女性の店員二人が、客の注文を受けている。僕はカウンターの中を一望して、カウンター奥のドアに目を向けた。
(今日は、バイトのはずだったんだけどな。奥にいるのかな。)この店では、同じ大学に通う学年が一つ下の、真鍋里香が店員のアルバイトをしている。今日は、夕方から夜までのシフトだったはずだ。
彼女と出会ったのは、数か月前に同じ化学課の友人に誘われ、フェアトレードのイベントに参加した時だった。フェアアトレードとは、途上国の生産者の商品をその労働力に見合った価格で輸入、販売をする、対等な取引関係の事を言う。先物取引による市場価格の決定、価格交渉力のない生産者の弱さによって、生産者が労働対価として十分なお金をもらえてないことがあるが、それを是正しようとする運動のことだ。数か月前、フェアトレードを知ってもらおうと学生が主体となってイベントが開かれたが、その時、フェアトレードのサークルに入っている友人に手伝ってくれないかと言われて参加したイベントに彼女がいた。彼女はフェアトレードのサークルには入っていなかったが、SNSでイベントの事を知ったらしく、経済学部で経営学専攻の彼女が、そんなイベントに参加していたのは、後から思ってみれば自然な事だったのかも知れない。イベントでは僕と彼女が同じ班になって色々とやることになり、話をしてみると同じ大学に通っていると言う事が分かった。その時、LINEで連絡先を交換したがイベントが終わった夜、家に帰って彼女にLINEを送ってみると返事が返ってきた。それ以来、彼女とはLINEでやりとりしたり、大学の学食で一緒に食事をしたり、休みの時には一緒に出かけたりするようになっている。まだ、付き合って欲しいと告白はしていないのだが、それもしなくてはいけないなと思っていた。
僕は、前の客の後ろに並び、注文が終わるのを待った。ここではほぼ毎回のようにカフェオレを注文するが、今日もそれにしようかとなんとは為しに考えていると、店の奥へと続くカウンター奥のドアが開いて、中から黒い髪をやや高めの位置にポニーテールにまとめた女性の店員が出てきた。目鼻立ちはくっきりしていてやや面長だが、全体的に丸みをおびた顔立ちは、まだ幼さを残している。背丈はそれほど高くはないが、すらりとした体型は実際の背丈よりも見た目に高く見せていた。シャツをひじの手前までまくった手でドアを閉めると、カウンター越しのこちらを見て僕と目が合った。目が合った彼女はぱっと眼を見開き、顔をほころばせる。里香だ。里香は僕の方を見た後、コーヒーメーカーの前に移動して、カップを台の下から取り出したりし始めた。そうして僕の順番が来た。
注文が終わると、僕はカウンターの受け取りの前に移動する。注文の時に、里香とは別の女性の店員にいらっしゃいと挨拶された。僕はあまり話した事がないのだが、里香の話によると彼女は僕とは違う大学の4年生で、今年は就職活動で忙しいらしかった。確か、マスコミ志望だったはずだ。彼女から指示を受けた里香は、今僕のカフェオレを作っている。
「はい、カフェオレ。」
出来上がったカフェオレのカップをカウンターに置いた里香は、カウンター越しの僕に声をかける。
「家庭教師の帰りなの?」
里香はにこやかに聞いてきた。
「そうだよ。21:00前に終わったんだけど、レポート書こうと思ったのと君がいるから寄ったんだ。」僕も微笑んで答えた。
「レポート?」
「そう、有機化学の実験レポート。」
「へえ、そうなんだ。難しそうだね。ここで、レポート書いていく?」
「ああ、そのつもりだよ。ここって落ち着くから。」
そう答えて、僕はカフェオレの入ったカップを手に取った。
「レポート頑張ってね。また後でね。」
里香はそう返事をして僕に後ろを向けた。忙しそうに注文のレジの方に向かう。見ると、新しい客がレジの前に並んでいた。
僕は店の隅の方にある丸テーブルに座って、バックからレポート用紙と有機化学実験のテキスト、筆記用具を取り出して書きだした。時々、カフェオレを飲みながら店の中を見回したが、僕の座っている隣の長テーブルでは本を開いてノートに何かを書き込んでいる高校生の男女が一人ずつ離れて座っていて、ここからでは壁が陰になって店のカウンターは見えない。ここじゃあ里香が見えないなと思いながら、カフェオレを啜っていると、カウンターから里香が出てきて、カウンターの受け取りの前に置かれたごみ箱の整理を始めた。僕は、里香は向かって手を振る。里香もそれに気付いてこちらを向き、まとめ終えたごみ袋を抱えながら、丸テーブルの方にやってきた。
「はかどってる?」里香が聞いてきた。
「まあね。一度、ここで下書きしてようかと思ってさ。帰ったら、パソコンに入力する。」
「理系は、実験とかあって大変だね。私たちはその代わりにゼミがあるけど。」
「まだ、教養部だし、それも来年からだよな。」
「うん、そうだね。」
里香は少し微笑みながら、一度閉じたごみ袋の口を締めなおすために、下を向いた。まとめ上げた黒い髪の下からほっそりとした白い首のうなじが見えた。普段の里香は髪をおろしており、ポニーテールの里香を見るのはここのアルバイトの時だけだ。ここのバイトをやる時は、髪をまとめて上げておくことが店の決まりらしい。
「実験ってどんな事やったの?」
作業を終えた里香が聞いてくる。僕はそれに答える。
「今は、新しい化合物の合成だね。幾つかの化合物を組み合わせて、新しい化合物を作る…。」「理系の人ってすごいな。慎一、ほんとに化学者みたい。それってどんな事に役に立つの?」
「例えば、有用な化学物質を作ったり、薬の合成なんかに役に立ったりするよね。」
「変なものも作れたりもするんでしょう?」
「変なもの?」
「爆弾とか、毒ガスとか。」
里香は冗談でも話しているような口ぶりで聞きながら、目線は下から僕を見上げた。
「そりゃあ理論上は出来ると思うけど、実際にやるのは難しいし、普通はそんな事はしないよ。」
「そうだよね、普通しないよね。それに、慎一がやるなんて思わないけど。」
「そんな風に思われてたら、ちょっとむかつくかなあ。」
僕は少し、口を尖らせて答えた。そしてふと里香はなんでそんな事を聞いたのだろうかと思った。
「あははは。」里香は、手を口に当てながら少し笑っている。
「今日は、先に帰ってて。終わったあと、シフトの事で話があるみたいだから。帰ったら連絡するね。」
「そうなのか。じゃあ、今日は先に帰るよ。バイト頑張ってね。」
「うん。」
里香はまとめたごみ袋を抱えて、カウンターの方に向かっていった。 22:00近くになって、僕はコーヒーショップを出た。出る時、カウンター越しの里香に手を振ると、里香もじゃあねと僕に手を振り返した。僕の家は駅から歩いて15分ほどのところにあり、大学に登校するのに電車を使って30分ほどかかる。学生向けの一人暮らし用途ではあるが、都内にアパートを借りているため、家賃は6万円とやや割高だ。里香は実家暮らしで、僕の街から5駅離れたところに住んでいた。
家に帰りついた僕は、机の上のデスクトップパソコンの電源を入れると、ネットサーフィンをやりながら直ぐに風呂を沸かして入浴した。風呂から上がって涼みながらスマートフォンを見ると、LINEに里香からのメッセージが入っていた。
『お疲れ様。さっき家についた。電話するから出て。22:45』時計を見ると、今は23:00前だ。僕は、LINEに入力する。
『了解。風呂入ってた。22:55』
しばらくして、僕の送ったメッセージの下に既読の文字が入った後、スマートフォンのコールが鳴り始めた。ディスプレイに真鍋里香の文字が浮かぶ。
「もしもし。」
僕は、電話にでた。
「もしもし、慎一?」
スマートフォン越しに里香の声がする。
「あのね。さっき、バイト中じゃ話せなかった事があって。お風呂に入ってたの?」
里香は、言葉を繋げて聞いてきた。
「ああ、さっき上がったところ。何、話せなかった事って?」
「えーと…、ちょっと私の友達の事なんだけど…。」里香は、少し言いづらそうに話す。
「えっ、俺も知ってる人の事かな?」僕は、ちょっと驚いたように答えた。
「ううん、違うよ。他の大学の人の事。慎一が知らない人だね。」里香は話を続けた。
里香の話によると、ボランティアのイベントで知り合った他の大学の女友達が、ヨガのイベントに参加したらしい。その女友達はそのイベントの事を、SNSで知ったのだが、少し興味を持って女友達と一緒に二人で参加してみた。イベントの主催者に連絡をとって、友人と一緒に、ファミリーレストランでその主催者と思しき男女と会うことになったが、二十代半ばぐらいの男女で、話をしてみるとヨガや仏教の勉強を通じて奥深い神秘的な体験ができると言い、しきりにイベントサークルへの参加を求めたり、連絡先を聞きたがった。連絡先を教える事を躊躇していたら、今からそのヨガが開催されている教室へ行かないかと誘われた。二人はせっかく来たのだからとそこに行く事にした。教室は、ビル内にあり外目にはおかしいとは思わなかったそうだが、中に入ってみると案内された部屋の中には、祭壇が築かれていて、大きな密教の曼陀羅の掛け軸が壁から下がっていた。中には、他に水色の服を着た数名の男女がいたが、座禅をして頭を上下左右に振ったり、床に座ったまま手や足を動かして何かしらのポーズをとったりしている。ヨガと言うよりも何か違う別のものではないかと感じたらしい。そのあと体験してみないかと言われて座禅を組んだりしてみたが、何かおかしいと思った彼女は気付かれないように友人にそれを話し、用事があるから友人と一緒にもう帰りますと言ってそこを出ようとした。出る時に、ここに来たら連絡先を書く決まりになっているからと連絡先を書くように言われた。連絡先を書かないと帰れないと思った彼女は、うその連絡先を書いた。後から聞いてみたら、一緒に来た友人もうその連絡先を書いたらしかった。そのあとはなにもないが、怖くなってSNSを退会した。そして、そういう事があったのだと里香に話をした。
「慎一はどう思う?」
話が終わって里香が僕に聞いてきた。
「そうだなあ。たぶん宗教絡みの怪しいサークルじゃないかと思う。」
「うん、何かの宗教団体なのはたぶんそう。由紀子は、怪しいサークルと関わっちゃったんだよね。」里香は僕の返事に相槌を打つ。
「その後に、何か変なことに巻き込まれたりとかしていないか?」僕は気になって尋ねた。
「今のところは何にもないらしいけど、ひょっとしたら大学構内であの二人に会うんじゃないかって心配してる。大学構内でも勧誘とかやってるかもしれないから。」「大学の中だと噂が広まるのも早いし勧誘は難しくないかな。学生自治会や、大学側も何か対処するかもしれない。」
「そうだと良いんだけど、そういう団体って、学生の勧誘を狙った活動を積極的にやってるみたいだし。」里香は心配そうに答える。
「大学側には、そういう団体が構内にもいるかも知れないって事を連絡した方がいいんじゃないか。」
「そうだね。私もそうした方がいいと思う。由紀子にも話しとく。」里香は電話越しにうなずく。
「身近な人にそんな体験する人がいてびっくりした。由紀子、一人暮らしだから、私、心配してるの。」
「そういう団体って多分、昔からそうなんだろうけど、俺たちの近くにいるんだよな。」
僕は、テレビで20年前に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教についての特集があったこと、今もオウム真理教に惹かれる現代の若者が、その後継団体に入信していると言った事を話した。
「そのテレビ、私も見た。怖いね。すぐ近くにそんな団体がいて、私たちと同じぐらいの人が入信しているって。きっと心の弱い部分や辛い部分に忍び込んでくるのね。」
「俺たちと同じ普通の大学生が、何かのきっかけで入っちゃうんだろうな。」
「慎一も一人暮らしだから気をつけてね。」
「そうだな。そうなりそうな時は、里香に相談するよ。」「絶対、相談してね。あっ、今、23:30回ったよね。私、明日は一限からなんだけど慎一は?」里香が一呼吸置いて聞いてきた
「俺は二限から。」
「そっか。じゃあ、もうお風呂入って寝るね。今日はありがと。おやすみ。」
「ああ、お休み。」
里香はそう言って、電話を切った。僕は充電器にスマートフォンをはめた後、机の上のデスクトップパソコンの前に座った。時計は、23:35を指していた。レポートの締め切りは、まだ先だったので慌てる必要はない。僕はさっきの里香との話を思い出して、考えていた。
オウム真理教、20年前の地下鉄サリン事件。里香の友達が接触した団体が、オウム真理教と関係がある団体かどうかは分からない。でも、そういった世界は僕たちの日常を延長したところに確かに存在している。それは、もし日常から足を踏み外してしまえば、そこに転がり落ちてしまう危険のある日常に寄り添った影だ。テレビで見た地下鉄サリン事件の実行犯の一人、土谷正美は、筑波大学の大学院を出て化学を専攻していた。奇しくも僕も化学を専攻している。もしも僕もサリンを作ろうと思えば作れるかもしれない。しかし、サリン合成の反応機構を考え、作り方を考える事と、それを実際に作りそれを使うことの間には、越えてはならない大きな距離がある。土谷正美はオウムに帰依し、その距離を越えてしまった。土谷はどうしてオウムに帰依したのだろう。里香が言うように、オウムが心の弱い部分や辛い部分に忍び込んでしまったのだろうか。人間はそんなに強い生き物じゃないから、どんな聖人君主でもそんな部分をきっと抱えている。だとしたら、誰でも自分の弱さをコントロールできないならば、いつでもその危険に落ち込んでしまう可能性がある。オウムの後継団体に入信してしまった大学生も、やっぱり不安や悩みを抱えていたと思う。僕も東京に一人で暮らしているけれど、日常に寄り添った危険はいつでも僕の傍にあって、僕が自ら落ちてくるのを待っているのだろう。
僕はそんな事を漠然と考えていた。明日は、実験はなく授業も二時限目からだから、もう少し起きていてもかまわない。僕は、読みかけの本を手に取とってベッドの上に寝っ転がり、挟んでおいた栞のページを開いた。
翌日は7:30に目が覚めた。起きて顔を洗って、窓から外を見るとパラパラと雨が降っていた。僕は朝食を作るために、冷蔵庫からパン一枚と買っておいたサラダ、牛乳を取りだしテレビをつける。ニュースの天気予報では雨は昼を回ったほどで止む見込みというアナウンスが流れていた。講義は二限目で10:40の授業開始だから、時間はまだ十分である。早めに大学に行ってもいいが、家で昨日のレポートの続きをやってもいい。
(里香は1限目からだって言っていたから、講義は9:00からだな。今日は授業が終わって18:00からファミレスでバイトだから、今日、里香に会うのは難しいかもしれない。)僕は、少し里香の事を考えた後、軽めの朝食を取ってレポートの続きにとりかかった。
レポートの続きを終えて、9:30に家を出た。電車を乗り継ぎ大学から最寄りの駅を降りると、雨は朝よりも強めに降っていた。駅から大学に続く公道を大学の方角に傘をさしながら歩くと、道沿いには、大学生と思われる若者がぱらぱらと、大学の方向に向かって、傘をさして歩いて行くのが見えた。時々、僕の傍を通る車が車道にたまった水たまりを曳いて歩道に水しぶきを上げる。僕はそれを避けるため車道とは反対側による。
(この雨は、ほんとに昼過ぎには止むのかな?)
そう考えながら僕はどんよりとした空を見上げて、雨を避けるために早く大学に着こうと足早に歩きだした。

(了)


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