セリフが「流れる」「流れてしまう」ことに直面していた. ある日のクリエーションの現場についてのドキュメンタリー的文章. #またまたたまたま #稽古場note
1月8日のクリエーションでは、セリフが「流れる」「流れてしまう」という表現が、稽古場で多用されていました。
演出家である僕もつかっていたし、俳優同士のフィードバックのなかでも用いられていました。
けれども、この日のクリエーションは、結局、セリフが「流れる」「流れてしまう」状態のまま終わってしまいました。
全員が「流れる」「流れてしまう」ことを問題視しながらも、解決のための方法をうまく導きだせないまま終わってしまったのです。
翌日(1月9日)のクリエーションの冒頭では、フィードバックをおこないました。
フィードバックでは、
わたしたちはセリフが「流れてしまう」ことを問題視しながらも、それに対する解決方法を見つけられないでいること
効果的な解決方法を見つけるために、いち度「流れる」「流れてしまう」という表現が、どのような状況を表しているのか、全員で共通の認識を持ったほうがいいだろう
というような提案がなされました。
「僕の見解では」と宮澤は喋り始めました。
「『流れる』『流れてしまう』というのは、メリハリなく、初めから終わりまで、井戸端でするお喋りのように、とりとめもなく始まり終わってしまう、という印象のことを指しています。
メリハリをつけるために《転調ポイント》をつくっていくようにしているが、
あまりそれが機能しているようには(外からは)見えません。
プレイヤーには変化している/変化させているという実感があるのか/ないのかを訊きたいです。
実感がない場合、《ポイント》で転調させるにあたって、何が弊害になっているのかを教えてほしいです」
* * *
《転調ポイント》とは、
それ以前の in Kyoto の稽古で、わたしたちが目標としていた完成形のための一種のアプローチです。
簡単に言えば、セリフの言いかた(抑揚・緩急・強弱)を操作し、その前後で観客が受け得る印象をガラリと変えるための点=ポイントということです。
in Kyoto の戯曲は、その他3篇の戯曲に較べて、シーンで割りづらい構成になっています。
シーン割りがおこなっているその他の戯曲では、
シーンの分割点が《転調ポイント》になっているのですが、
in Kyoto はあえてシーンを割らないで
(戯曲全編を通してを1つのシーンと捉えて)
創作をしてみようという方針を策定していたのでした。
大きな転調がないかわりに、
小さな転調をたくさんつくっていくことが目標でした。
ですから、ここでいう《転調ポイント》とは、小さな転調のことを指しています。
【注釈】
・ いずれの戯曲も、戯曲中でシーン分割はおこなわれていないため、演出・演技の過程で独自にシーン分割をおこなっています
・「シーン分割のしやすさ」という観点から測れば、〈1. 滋賀,2. 榛名湖,3. 東京,4. 京都〉の順になるでしょう
僕のフィードバックに応答してくれた俳優のフィードバックを聞いてみると、
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。