見出し画像

プライベートとパブリック。オンラインとオフライン。現代と近代──「境」を攪拌する #断片をつむぐ

 


記録でなく、記憶に訴えかける作品をつくりたいとは、以前から想っているのですが、最近はますます強く、そのようなことを考えています。



できあがった作品は自立したひとつの人格を具えている。

作品ができあがると、予想だにしなかった感想がつぶやかれることがあるのですが、僕はそんなとき、驚いて、学んで、つぶやいてくれた方へいっぱいの感謝を贈りたくなります。



先日、note記事にてお知らせした「劇評の文通」。多くの方から応募を賜りました。ほんとうにありがとうございます。

鑑賞者が創作者へ眼差しを送るように、創作者も鑑賞者を眼差す。ともに驚き、学びあい、感謝する関係を築けることをこころより愉しみにしております。

そのためにも、僕はよい作品をつくります。



池袋シアターグリーンでの演劇展「おばけばかり」のための作品づくりと並行して、先月から走りだしたプロジェクト「断片をつむぐ」もまた進行中です。

先日はやすたにありささんが提供してくださった作品から着想を得て、屋外撮影をしました。

 “写真見てて思ったんですけど、屋外で突然演劇始まった~ってかんじで、ゲリラライブ感あってよかったです”

撮影を終えて、出演者の熊野美幸さんがこのような感想を述べてくださりました。

僕はこの感想をきっかけに「境の攪拌」ということを考えた。



演劇の境はどこにあったのでしょうか。

一般的にいえば、劇場なのだと思います。

もし劇場の外で発狂している人がいたら通報されてしまうかもしれません。でも劇場の中だったとしたら観客は通報しません。それが演技であることを認めているからです。



 おそらく「ゲリラライブ感」とは、その境が攪拌される違和感のことなのだと思います。

明らかに非日常的な所作をする人間の存在が気がかりになるけれど、近くにカメラマンがいることを認めて、それがパフォーマンスであることをやっと悟る。



では、もうすこし引いたところから境を観察してみることにします。


画像1

『断片をつむぐ』より 


現代と近代の境はどこにあるか?

これは厳密に定義されているわけではありません。

歴史的にいえば、第二次世界大戦の終戦もしくは冷戦終結と言われることが多いようです。

また、演劇でいえば、近代と現代の境は平田オリザ氏ということになりますでしょうか。「僕までが近代演劇、僕からが現代演劇」、平田氏は述べます。



ところで、2020年は境となるでしょうか。

なる、と僕は答えます。

コロナ以前と以後で、世界が一変すると言いたいわけではありません。変わらないこともあるし、変わることもある。

けれど、2020年は確実に境となるでしょう。事実として、2020年はなおも僕たちの感性を揺さぶりつづけています。

自宅が仕事場になることがある、猛暑でのマスク、アルコール消毒、検温……。



人々の精神構造を一変させる出来事は過去にもありました。

たとえば、世界恐慌。

1929年を境にして、1920年代の文化はすっかり過去のものになってしまいました。

アメリカ文学でいえば、スコット・フィッツジェラルドからアーネスト・ヘミングウェイへ。



感染症下では、オンライン演劇の上演が圧倒的に増加しました。

次なる展開はオンラインとオフラインの境の攪拌にある。

オンライン鑑賞はオフライン鑑賞の下位互換ではなくって、オンラインだからこその味わいがあるものを、遠くないいつか、つくってみたい。



最後に、オンラインとオフラインを言い換えてみます。

──私的空間と公的空間。



 2004年からサービス開始した「前略プロフィール」。

僕の中学校でも流行し、プロフィール欄に恋人の名前を書いたり、イケているプリクラを載せたりすることがある種のステータスになっていました。

僕はこれを──家でいえば──玄関と客間の公開であると考えます。



2010年インスタグラムがiOSで配信開始されると、僕たちはその日食べたものや着ている服を投稿するようになりました。

これは、ダイニングとクローゼットの公開。



2020年以降の未来。次に公開されるのは、バスルーム、トイレ、ベッドルーム。

多くの人がスマートウォッチを身につけるようになって、健康状態や睡眠の質を他者に共有することが当たり前となる世の中がやってくるはず。


私的空間と公的空間は絶え間なく攪拌されつづける。



 「断片をつむぐ」の詳細です。
 (※断片の募集は終了しました。たくさんのご協力をありがとうございました。)


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。