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反省する馬鹿者

信じられるものがない人間は弱いと思う。ある宗教を信仰する人は、その教えに沿った行動規範を自身に敷く。

そこでの行動規範(例えば、豚肉は食べない)は、その行動規範を敷かない(豚肉を容赦なく食べる)人々からすれば不自由であるかのように看做されるかもしれない。けれど、彼らは行動規範を敷く(豚肉を食べない)ことによって、ある種の自由を獲得している。

あらゆる自由は制限によって生成される。ちまたですでに使い古された例えだけれど、ツイッターなんかはそのさいたる例である。

140字以内、という制限が現代人を絶えず魅惑している(僕はちっとも魅惑されないが)。

このように字数によって制限を設けて、自由な表現を喚起する形式は短歌や俳句、漢詩にまでさかのぼることができる。

なんでもあり、ではそのジャンルは廃れていくばかりである。まさに僕がんでいる演劇の分野なんて、その格好の例だ。

積極的にルールを設けるべきだ。そうすることによって、人はほんとうの意味で自由を獲得することできる。

この主張に対して反論を唱えるのがこの書籍だ。

僕はこの本の内容をよく知らないし、ネットフリックスのこともよく知らない。

けれど、書店を歩いているときに、何度もこの本を目にした。そして、なんだかよくわからないけれど、このタイトルが僕の記憶に深く刻まれた。ルールと自由の関係性について、当時から関心があった。だからだと思う。

2020年に出版されたこの本はamazon.co.jpを介して中古本が200円で売られている。僕はそれを送料込みで400円で購入した。明日には家に届くだろう。

ほんとうにおそろしい時代を生きているな、と実感する。そして、ChatGPTを初めAIが一般化する時代、おそろしさは増してもはや理解不能な時代に到達する。理解不能だけれども便利で楽しい。そんな時代では物事を深く考えて、くよくよと反省することが馬鹿みたいに感じられることになるだろう(実際、そんな人間は「馬鹿だ」と隣人からひそひそと陰口を叩かれ、誰からも相手にされないようになる)。

だから僕はこれからの時代、「結果論」っていう諦念にも似た言葉が効力を増すことになるだろう、と書いたんだけれど。

悔いてもしかたのないことを悔いて、悔いて、精神を病んでいくんだったら、「結果論」に甘んじる人生。そのほうがよっぽど幸せを感じられるんじゃないか。

『すべては結果論でしかない ——「賭け」の選挙論』

信じられるものがない人間は弱いと思う。それならば僕はなにを信じる。

僕は神も幽霊も信じない。それから宝くじのことも、信じていない。宝くじ、神、幽霊、この3つを信じられないようになったのは同時期だった。この3つはつながっている。僕が「運」というものをまったくあてにしないようになった時期。

僕が「運」を「偶然性」という言葉で言い換えるようになった時期。

すべての事物は偶発的に発生し、発生した事物には良い面と悪い面がある。ただし、「一方の面が良くて、もう一方の面は悪い」と決めつけるのはいつも人間で、面そのものに良し悪しがあるわけではない。

ゆえに、事物を解釈する人間によって、事物の良し悪しの解釈はさまざまである。

このような物言いもまた使い古された文句だが、人間はそんな当たり前のことを、いとも簡単に忘れる。事物の一面しか、見えないようになる。これは良く、あれは悪いものだと決めつけるようになる。

そして、そんなふうに考えもなしにおこなわれる価値判断というのはだいたいが、自分以外の誰かの「価値」によるものであることがほとんどだ。

ほんとうに、あらゆる物事には、ポジティブな面とネガティブな面があり、ポジティブに捉えられるかどうかが、幸せを感じられるかどうかの議論に直結するのだということを最近はよく考えている。

時間はかかるかもしれない。時間がかかったとしても、物事の良い面と悪い面を吟味し、自分なりの「価値」で行動していくことがたいせつなんじゃないかな。と、僕は今日も反省している。つまり馬鹿者だ。ひそひそと陰口を叩かれて、そのうち誰からも相手にされないようになる、無用の存在。


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