父が遺した1冊の本と死と遺書と
私はその日、商談中で高額な物が決まりそうで、目の前の夫婦しか見えず、上司に声掛けられても全く聞こえず、
「あなたのお父さんが危篤ですと連絡ありました!」
耳元で大声を出した上司に気付き、
そのまま、クロージングへ持っていこうとまた商談を始めた時、
「バカヤロウ!行けよ!今すぐ」
しぶしぶ立ち上がり、ローダウンしていたセルシオで、病院へ向かった。
私がやはり憎しみすぎていたからか、呪いのように、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を定年退職して、進学校の高校教師を嘱託でし始めた頃から急に症状が出てあっという間に寝たきりになり、2年経っていた。
大人になってから殆ど父と話さなくなっていた私はちょうど前厄で、介護用のベッドに横たわる、筆談しか出来ない父を、弱っていく父を、それでも記憶や、脳だけ生きている残酷な病気が進行して行く様子を見ていて、
「本当に憎むと呪いになる、あの父とは思えない。」
発症した時は元気で、1番下の放ったらかしにしていた現在銀行に勤める可愛がっていた弟とキャッチボールや、
ボーリング、ウォーキング、そしてまだ勉強を突きつめてしていた父が、突然食事の時、箸を落とした。
そこからどんどん悪化していきその病気の概要と全く同じ経過をたどっていく父が、死を感じたのか、本を執筆した。
県の引退した故教育長より書いて頂いた前書きの、彼は秀才であり、から始まる父の本には、好きな野球のイチローのWBCでの活躍から感銘を受けた、から書き留めた遺書であると私は思っていた。
それには、自分の生まれた頃からのエピソード、
そして、ゆとり撤廃の功績や沢山の賞、そして優秀な息子たち、父にとって大切な妻、すなわち母のことが書いてあり、私の事は一切、名前すら書かれて居なかったが文章が上手かったので最後まで3回くらい読んだ感想として、
私の事はいつまでも隠したいのね、
まあそうでしょうね。この人は本当に、私が社会的抹殺しても、福島県の本当に端っ子の田舎に追い込まれても、這い上がってきたその努力等、自己満足の出来事が主で、でもそれがアスペルガー障害※後に判明した
を自覚なく持ちながらも頑張った自分の承認欲求を満たす内容であり、そこには、彼のやりたい夢等は全く感じられず、高校教育とはこうあるべき、と最後に締めくくっていた。
葬儀の時、その故教育長は、父ではなく私に微笑みながら
「良く頑張りましたね、あなたは、あの大きな式場で、溢れかえる人が見ている中、眠り続けていました。それは皆みていたけれど、良く最後まで頑張りましたね。
私はあの本には共感できませんでした。彼の感情描写が全くなかったのです。しかし私から彼への敬意で書かせて頂きました。
彼は確かに秀才であり、素晴らしい功績を残したと思います。あなたはキチンと眠るという事で最後まで父親の虚飾を見守っていましたよ。それが彼の一生の全てです。」
「ありがとうございます」
その意味を当時理解できなかった。
ALSとは呼吸器を入れると生きていくことは可能だが、父は死を選ぶため自分の意志で、呼吸器を拒んだ。
それについて家族全員、懐いていた弟でさえ署名印鑑を担当医師に提出するほど、拷問のような地獄の様な病を見て居られなかったからだと思う。
私も当然押印した。
危篤と聞き何の感情もなく病院へ向かった。
そこには意識がもうない状態で、でも座った方がラクだという、様々な管を鼻や、腕に通された、磔にされた様な父が居た。
意識が戻ることもうなく、このまま亡くなると聞いていた皆は私が
「お父さん?本当にお父さんですか」
思わず出した声に、
目を開き、
「優か?」
話す筋力もない弱々しい声とともに意識が戻った。
私はただただ、立ちすくみ、これが私の望んだ事だったのだろうか?
生き地獄だ。意識ありながら体だけ弱って行く悪魔が取り憑いたような病気の死に際なのか?
しかし当時の私には残念ながら感情がない。
看護師の方が、母と一番下の弟、東京から駆けつけた弟、母、担当ナースまでもが泣いていた。医師がきて、瞳孔や心電図など確認し、
「まだだな、明日いっぱいというところです。」
私の声で意識を取り戻したのが、奇跡だと聞き、
そして母から、父が執筆した本よりも分厚い、
「あなただけに、優にだけ書いた遺書です」
それを手に取り、また父を見た。
哀れとは思うが全く感情が湧かない。
お父さん…。
症状落ち着き一旦皆返された。
「私は仕事に戻ります。なにかあればまた呼んでください。今代わりに上司が商談に入ってくれて居るので、クロージングしてきます。」
その私の言葉を聞いても誰も何も言わなかった。
名古屋巻きと呼ばれる巻き髪をしてかなり派手に見えた当時の私は、タバコを吸いながら職場へ戻る途中、少し混む中、2本目に火をつけるタイミングで、車の窓を全開にして、吸い終わったタバコと共にその分厚い遺書を吸殻と共に捨てた。
その時、不思議なことに離別した最初の私を愛してくれた、でも私から別れた元旦那とすれ違った。
相変わらず優しい顔をしていて、1番下の弟と仲良く、たまたま弟も帰りすれ違うという奇跡で、
弟が彼に電話連絡した事で、父の死に際に彼も会いに来てくれて
「お父さん、僕が大卒だったら認めてくださったのでしょうか?
それでも、優さんは本当は心優しく、僕をこれ以上傷つけたくないがために、離別を彼女自身で決めました。
彼女は本当は心優しい方でしたよ、安心してお眠り下さい」
彼はそして、父の手を握り、父は涙を流したという。
病室に花や、沢山のお見舞い品が窓から漏れる陽の光に照らされた情景は、地獄ではなく、天に召される様な美しい、あの世と繋がる道へ導いて居るように見えた。
会社に戻ったら上司に「バカヤロウ、帰れ」
と言われ帰って、もう一度髪を巻き直し、何処に行くでもなく鏡を見て、自分の顔は何故こんなにも美しいのだろう。その生まれながらに何もしなくても褒められた顔面は、祖母の不倫相手の家系の顔であり私だけ誰にも似ていなかったが、
あれ?私は父にとても似てる、初めてそう思った。しばし父を重ね鏡と向き合っていた。
2度目の危篤で死を意識して皆父の前に集う。
汗がかなり出ていて、母や皆が拭きながら、父は目を見開きながら天井を見続け意識がなかった。
母が父に泣きながら話しかけ、「優、あなたも。
」渡された布でペンだこが出来ている、萎みきった手を拭き始めた。
何度も私を殴った手から、拭いても拭いても汗が滲み出る。
病室のTVが勝手に着いたり消えたり、電波異常が起きる。
看護師さんは
「良くある事なんです。なくなる時こんなふうになる方いらっしゃいます。」
また心電図の機械を直ししばらくして苦しむ感じが無くなってきた。
その時意識が戻った。
医師が呼ばれ、
「皆、声をかけてあげてください。それとご親戚に連絡してください」
私は知らないうちに父の汗がひいても拭き続け泣いていた。皆、最後の言葉を伝え始めた。涙が勝手に出る、止まらない。
私は何を伝えたらいいか本当に分からなかった。
泣いている私を見て父が、
「優?なぜ泣く?」私に手を差し伸べたので思わず握りしめた。
見たことの無い笑顔で、
私にだけ声をかける。
家族皆が肩震わせて見ている中、
泣く私を笑顔で見つめる父。
でもなんて言っていいか本当に分からなくて、何を伝えたら父は喜ぶだろうか、咄嗟に、本当に無意識に出た言葉。
私はぬるい涙止まらないない中
「…お父さん、わたし、勉強をしてきて良かったよ…」
父が笑顔を見せた。手の力が僅かに強くなる。
最後の力をふりしぼり口にペンを咥え
小さなメモ用紙に
「優、がんばれ」
それを、しっかりと書いた。
そしてそれを確かに受け取った。
手が震え、涙がそれに落ちない様にスーツの胸ポケットにしまった。
また意識が無くなり、苦しくなって行く様子をもう見てられなかったのか、泣くのを止め1番下の弟がすっと立ち上がり、
「お父さん、お疲れ様です。ねーちゃんの言葉嬉しかったよな、お父さん。
俺は東京で、メガバンクで働きたかったけど、あなたを介護し、見守るため地方銀行を選び、就職しました。
それは俺の意志であり、俺はあなたを尊敬し続け生きていきます。
あとは俺に任せてください。
安心してお眠りください。
お疲れ様でした。」
その瞬間、
本当にその瞬間心電図が止まり、壁になにか、稲妻が走るような衝撃を皆感じ、息を引き取った。
病室に沢山の看護師や医師が入ってきてザワつく中。
私が望んでいたのは、こんな事じゃないよ…
ふらつきながら病室を後にした。
弟は後に自分の言葉で父が亡くなったと暫く罪悪感を払拭できないでいたが、
今でも私は
「違うよ、お父さんは安心したんだよ」
と声をかける。
定年してすぐの父にはもう未来が見えなかったのだと思う。
金木犀が香る頃毎年思い出す。
私はそのメモをお守りの中に入れ続け、今でもそれを大切に持っている。私の言霊でこうなったのなら言葉を大切にしよう、心に決めた。
父はきっとどのように子育てしたら良いか分からなかったんだと思う。
愛情も受けず、勉強だけに打ち込み、東京教育大学、現、筑波大学にて学び、それが成功体験であり、日本の教育、全ての高校生の学力向上に全身全霊をかける事が、自分の母親に見捨てられないと、
そう信じて生きたやはり毒親育ちであった。
私は父を赦せた今、未だに父の遺書の内容は知らない。
でもそれで良かったと思っている。
最後までお読み下さり大変ありがとうございます。
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