9.何のために生まれて、何をして生きるのか
2.あなたは悟りを開いているか?|ぽん (note.com)に関連する内容です。
『何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ』
これ、真剣に考えたことはありますか?
この答えがきちんと定まると、富や名誉や成功が全てではないことに気づき、大抵のことは上手くいきます。
問題は、どうやって、その答えを得るか? です。
子供の頃に得意なものを見つけられ、その道を真っすぐに進めたのなら、それほど幸せな人生はないと思います。
ですが、けっこうな確率で、
いつのまにか蹴落とされ、いつのまにか夢を忘れ、いつのまにか社会の為の機械のような存在になってしまい、
「あれ? 何のために生きてるんだっけ?」
と、???な状態に陥りやすいのではないでしょうか。
私は、いまだ、他の方が「簡単に答えを得る方法」を、上手く思いつきません。
「答えを得やすい環境」という外堀りだけは、なんとか埋められそうですが、
最後の最後にある、ちゃんとした「答え」を見つけられるかどうかは、
その人の、「なりたい自分」の、難易度の高さが関わってくるからです。
その夢を追うことが現実的に可能かどうか、
追う場合、どこまでの高みを目指すのか、
自分の生活や、守りたいものは守れるのか、
理想と現実、直感と論理、自身の能力、様々なものが絡み合い、そう簡単には、「答え」は得られないかもしれません。
そんな悩みを抱える方に、私がかけられる言葉は、たったひとつ、
「答え」なんて「無」いです。
はい。確かめました。
答えなんて探さずに、運命に身を任せ、その時々で、やりたいようにやればいいだけなんです。(社会のルールは守る。)
真偽のほどは、ご自身でお確かめください。
「答えに近いもの」なら、いっぱいあるんですけどね。
※以下は、あくまで、私個人が過去に考え、行動していた内容です。他の方とはまったく意見が合わない可能性が高いと思いますが、参考までに書き記しておきます。
私が一番最初に思いついたのは、「子孫を残す」です。
人間という種としての本能ですし、自分の遺伝子とパートナーの遺伝子を混ぜ合わせ、新たな生命を生み出すというのは、
たとえ他人と同じ目標であっても、自分だけのオリジナリティを世界に残せる、素晴らしい目標だと思います。
私の住んでいる日本という国の方針にも合致していますし、共感できる同志もいっぱいいることでしょう。
もちろん、子孫は「残す」だけでは済まされず、育てて更に繋いでいかなくてはならないという責任もついてきます。
これは難題ですが、自分が死後に持っていけない財を子に譲るなど、死後の楽しみも生まれますし、やりがいの塊でしょう。
すべてが上手くいくとは限りません。「育てる」が上手くいかない場合もあると思います。
それでも、「残す」ことが上手くいっていれば、人間という種族に生まれた者として、何かしらは世界に自分の存在意義を刻めたという満足感はあるのではないでしょうか。
では、
なんらかの要因があって、「子孫を残す」という目標が果たせなかった場合、または、諦めざるを得ない場合、かわりにどういった目標を持てばよいのでしょうか。
私には、よくわかりませんでした。
簡単に答えを出せる人は、本当にうらやましい。
どれだけお金を稼ごうが、結局死後の世界には持ち越せない。一時の快楽の為に頑張る? 本当に一時しのぎにしかならないのに?
何のために生きているのか、何のために生かされているのか、さっぱりわからない。かといって、実際に死ぬのは怖い。
自分はいったい、生きて何をしたいのか?
私は、その答えを得る為、「自分の死の瞬間」に、何度もダイブしてみることにしました。
自分が死ぬ時に、いったい何に後悔するのかを知るために。
もちろん、自殺を試みるわけではありません。実際に死んでしまったら、そこで終わり。答えを得ることが出来ません。
あくまで、自分の脳内の中だけで、空想の世界の中だけで、何度も何度も自分の死の瞬間を想像し、体験してみる。
イメージとしては、鬼滅の刃の無限列車編で、炭治郎が夢の中で何度も自決をするシーンです。あれを本当にやってみる。
あらゆる方向性、あらゆるシチュエーション、あらゆる観点、俯瞰(ふかん)から見たり、他人から観たり、
自分の死の瞬間にいったい何を思うのか、何を考えるのか、何が起こるのか、何も起きないのか、視界には何が映るのか、五感は何を感じ取るのか、、、
無限にシミュレートし続ける。
「自分の死」への、無限チキンレースです。
いや違うか。「死ぬ一瞬前」ではダメだ。その後に後悔してしまう可能性が残る。
「死ぬ瞬間」でなくては。
口で「死にたい」と言ってみた程度の、「なんちゃって自殺」では、何も得られない。
イメージを脳内で極限まで膨らませ、本物の死を体験する。
最初は、他の方々と同じように、仕事をし、生活をしながら、無意識化で、
最終的には、仕事や生活すら放り投げて引きこもり、
本当に頭がおかしくなるぐらいまで、何年も何年もかけて、ずっと、ずっと、考え続けました。
そして、
「自分の死の瞬間」が、少しずつ、少しずつ、だんだんと形になってくる。
突然ぱッと閃くわけではない。
一歩ずつ、一歩ずつ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ある日、異変が起きました。一歩間違えば帰る事が出来なくなるほどの快楽を伴う、危険な異変でした。
その中で、私は、やっと、「答え」を見つけることが出来ました。
そして、運よく、現実に帰ってくることが出来た。
ただ、、、
そこに至るまでの道のりがあまりにも苦痛すぎて、危険すぎて、とてもじゃないですが、この方法は他の人には勧められない。
また、この方法で答えを得ても、実社会において失うものが大きすぎる。
といいますか、私はその「答え」以外の、ほとんどのものを失ったに近い。
だから、もっと簡単に、もっと苦しまず、もっと安全に、他の人が「答え」を得られるよう、手を差し伸べたい。
私が得た「答え」とは、そういうものです。
次回の予定は未定です。気長にお待ちください。↓
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