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甘い誘惑と幻の幸福感

毎日遅くまで残業、上司や仕事や待遇への不満、そろそろ会社を辞めたいと思いながらも、これといってやりたいこともなし、次の仕事を探すのも面倒、惰性で働く日々を過ごしていた。
今日は待望の給料日だ。

「お給料日だから帰りに美味しいもの食べに行こうよ」同僚のみゆきに誘われるまま向かったのは高級スイーツ店。甘いものに目がないみゆきのお目当てはその店の名物フルーツパフェ。なんと2000円以上もする。内心「この値段なら食事ができるわ」と思いながらもそこはおつきあい。その高級フルーツパフェを注文した。

目の前に運ばれてきたフルーツパフェは一瞬芸術品かと思うくらい美しかった。いろんな種類のフルーツがそれぞれ違うカットが施され、アートのように盛り付けられている。崩すのがもったいないように思いながら、ひとつフルーツを口に運んだ。みずみずしい、甘い、とろける。スーパーで買ってきて家で食べるフルーツとは別格だ。ひと口味わうごとに感動する。なるほどお値段が張るのもうなづける。それだけの価値がある。見て、食べて、食べている間も、食べ終わってからも、笑顔になり幸せを感じるパフェ。

私の中で何かがはじけた。一品でこんなにも人を幸せにできるなんて。そうだ、私はこんな感動を呼ぶフルーツパフェを作れるようになろう。

一か月後、会社を退職し、迷うことなくあのフルーツパフェのある店で働き始めた。感動を呼ぶフルーツパフェを作りたい一心で。

その高級店は歴史と伝統を重んじる社風があり、厨房でスイーツを作る人々は職人気質だった。初日はひたすら食器洗い。次から次へと汚れた食器が運ばれてくる。スプーンやフォークも大量だ。洗浄機で洗ったあと、すぐにふきあげないとピカピカにならないというんで、洗っては拭いてを繰り返した。蒸気で汗がふきだす。ほんのわずかでも水滴やくすみが残っていようものなら、きついお叱りを受ける。思いのほかきつい仕事なので、入って1日で辞めていく人も多いらしい。

1週間がたった。職人の親分が「そこの新入りに皿洗い以外のこともさせろ」と言ったおかげで、1日の半分は皿洗い以外のことをやることができた。フルーツサンドにつかうフルーツの状態をみて少しでも傷んでいたらよけて、1食分ずつ小分けにする仕事だ。捨てるくらいなら食べたいと思いながら捨てていく。少し傷んだだけのフルーツでごみ箱はいっぱいになる。これが高級店のプライドっていうことか。どの程度までなら使えるのかの見極めが難しくもたもたしていると、きついお叱りを受ける「いつまでやってるんだ」

その1週間後、ホイップクリームを泡立てる仕事が増えた。大きなボールに大きま泡だて器。すぐに腕が痛くなる「もっと手早く回せ」「こんなにゆるゆるじゃつかえないぞ」
腕がつりそうだと思った瞬間「もたもたするな」ときついお叱りを受ける。

その1週間後、ホイップクリームをフルーツサンド用のパンに塗る仕事が増えた。長いへらをつかって、厚さを均一に、波打たないように塗るのは難しい。うまくできずに塗り直していると「早くしないとクリームがだれちゃうだろ」「もっときれいに手早くぬれ」きついお叱りを受ける。

1か月がたったころ、ランチタイムに出すパスタ3種類の調理を任された。茹で上がったパスタにフライパンで具やソースを絡めるだけなので、他の仕事よりも楽にこなせた。サラリーマン時代、仕事帰りにイタリアンのシェフの料理教室に通っていたことがあるのでパスタ料理を作るのは得意だった。すると職人の一人が「おっ新入り。パスタメニューはやれるじゃねえか」
そのうちランチで出すパスタメニューはすべて任されるようになった。
パスタを作っている間は、きついお叱りを受けることもなかった。

半年が過ぎた頃、やっと名前で呼ばれるようになった。
「キーウィのカット、やってみるか」
初めてフルーツのカットができる。あの感動のフルーツパフェを彩っていたフルーツは繊細で美しいカットがされていた。やっとその技術を教わることができるのだ。喜びもつかの間だった「おいおい、そんなナイフの使い方じゃだめだ」「ナイフもまともに使えないのか」「断面がギザギザしてるじゃねえか。売り物にならねえよ」きついお叱りの連発。すぐに元のポジションに戻された。

店が混んでいない時、そして職人のご機嫌がよい時に、キーウィのカットをやらせてもらえることがあったが、うまくできないまま、そのうちカットをするチャンスはなくなっていった。親方の職人が言った「フルーツがまともにカットできるようになるには1年はかかるからな。パフェになると2~3年は修行がいるからな」

あの日と同じように、私の中で何かがはじけた。というより目が覚めたよううだった。3年、修行、きついお叱り、忍耐、時給1000円。感動のフルーツパフェをつくりたい思いは遠い昔の気の迷い。疲れている時の魅惑の甘さで脳が麻痺したのではないか。
仕事上のストレスをため込んでいた時に甘いものを食べたとたん、ドーパミンが分泌されて幸せを感じ、フルーツパフェを作ることこそ自分の幸せと錯覚していたのではないだろうか。
この店ではいつもつらかった。幸せだと一度も感じられなかった。もう3年も耐えられない。

私はその店を辞めた。私が得たものはパスタ料理は上手ということだけ。

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