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【信仰は山をも動かす】(新釈ことわざ辞典)記事版その2

教祖・教主が横車を押せば、洗脳下にある信徒一斉に追従してこれに倣い、押された車はひっくり返り、背教者は選挙に敗れて地獄に落ち、信徒潤う税金バラマキが始まり、感謝された教祖・教主の地位はますます盤石、ついに山どころか国全体が、崩れ……。

信仰が山を動かしている[つぶやき(6/1)⇧]と[関連記事(6/13)⇧]を上げたのは先月のことでした。
参議院選挙が終わって以後、某カルト教団の実態や保守政党との結びつきが報道されています。重大事件が起こり、一部メディアが先行してから、ようやく大手新聞・TVが腰を上げる、というパターンに、

こんなことでも起こらないと報道しないのか?

という《不思議》を想い、この《謎》には何かからくりがあるのかもしれない、と思いました。そう感じた人は多いのでしょう。

いい機会なので、《個人的体験》を書いておきます。

某カルト教団の日本での布教活動が活発になったのは、私の学生時代と重なります。

大学に入学、そして留年した1年間をベースにした小説は商業誌に発表しましたが、その中にも宗教ネタはエピソードとして顔を出します。
キャンパスではまだ半年に1度ぐらいの頻度で内ゲバ殺人事件が起こりましたが、左翼過激派は次第に目立たなくなり、入れ替わりのように勢力を伸ばしてきたのがカルト教団でした。

といっても、カルトであることは完全に隠し、《芋煮会》のような「ほのぼの企画」で学生を集め、まずは住所名前データを集めているようでした。

同じ高校からその大学に進んだ同期の友人は、さらに次の段階へと誘われ、夜、どこかホールに集められて精神講話を聴いたそうです。
「話の流れでその場の空気はだんだん盛り上がっていってね、そのまま会員になろうか、という気分になってきた」
けれど彼は、勉強との両立は難しいかな、と思い、
「ぎりぎりのところで考え直した」
と無事《帰還》しました。

しかし、戻らなかった級友もいました。
H君は大学に入学した時は丸刈りで純朴な感じの高校球児で、そのまま体育会系硬式野球部に入りました。
留年した私はH君の1学年下になりましたが、4年生で配属されたのは、偶然、H君が卒論研究を行った研究室でした。
ある日、OBから来た連絡を貼る掲示板に、教授がつぶやきながら1枚のハガキを加えました。
「H君、大丈夫かなあ……」
彼はどの企業にも就職することなく、《カルト教団》に職を得た、と聞いていました。
葉書には、型通りの挨拶文に続いて、

『今、山陰地方を布教しています』

と書かれていました。
その後、どのような経緯でそうなったのかはわかりませんが、彼は韓国の大学に入り、韓国に帰化したということです。

私はこのカルトとは無縁でしたが、ある晩、もうあたりは暗くなった頃、女性二人組が下宿に来たことがあります。
ふたりとも20代らしく、夜目にも清楚な美女に見えました。
そして、私の名前と学校名を確認し、話があるので部屋に上げてもらえないか、と言います。
ひょっとしたら、住所情報はH君から漏れたクラス名簿からかもしれません。
断ると、《開運》のご利益りやくがある壺(だったか、別の置き物だったか)を紹介したい、と言うのです。
「親父(実はまだピンピンしていましたが)の遺言で、そういうものに頼るな、と言われている」
と断って帰ってもらいました。
けれどこの頃、もし付き合っている女の子がいなかったならば、フラフラと部屋に上げていたかもしれません。

その頃、キャンパスでは(たぶん別カルトの)奇妙な一団も頻繁に見かけました。
机を並べて通りがかった学生を対面に坐らせ、眼を閉じたひたいの上に掌をかざし、
《気》を注ぐ
とか、
《魂》を浄化する
など、スピリチュアル系?パフォーマンスをするのです。
男子学生の多いキャンパスで、同じくらいか少し年上の女性が誘ってくるのです。
はっきり憶えていませんが、断るのが面倒で、1度くらいはその席に座ったかもしれません。
あれも、アブナイ世界への入り口だったのでしょう。

私は《宗教》一般には関心があり、入学した年に《宗教問題研究会》というような名のサークルに顔を出したことがありました。
しかし、行ってみるとそれは、大きな宗教団体の大学支部のような組織でした。
(だったら、そういう名前を付けろよ!)
話を聞いているうちに、怒りが湧いてきました。
(でも、これはいい機会かもしれない)
そう思い直し、教団に勧誘しようと部室で私を取り囲む10数人の学生ひとりひとりに、なぜその教団に入ったのかを尋ねてみました。
教義の素晴らしさばかりを理由に挙げる彼らに、質問を変えました。
「ご両親は信者なのですか?」

驚いたことに ── あるいは驚くことではないのかもしれませんが ── そこにいる全員が、親の代からの信者でした。
なんだか手品のタネを見てしまったような、白けた気分になりました。
(つまり、この人たちは、生まれた時から洗脳されてる。自分のアタマで考えてはいないんだ)

《信心》というのは、大なり小なり《洗脳》の産物であり、この《洗脳》を解くのはなかなか難しい。
例えばイスラム教徒の多くは、豚肉を食べてはいけない、ということが、もはや《教義》というより《生理》に近い物になっており、想像するだけでも気持ちが悪くなる人がいる(我々がゴキブリを食べることを想像するのに近い)。

だから、今《問題》として取り上げられているような、多額の《献金》や《お布施》を、やめさせることなど不可能です。
洗脳されている人を、無理やり引きはがすこともできないでしょうね。

できることはただひとつ、全てを
《透明化する》
ことだと思います。

そのためには、宗教活動への「非課税」をやめ、低い税率でもいいから課税することではないか、と思います。
おそらく普通に《営業》している宗教法人に、影響はほとんどないでしょう。

かつての「オウム真理教」も、ほんとうにギリギリまで、「宗教の自由」に守られてきました。

いや、守られるのはいいのですけど、
《衆人環視のもとに》
自由が守られる仕組みが必要なのだと思います。

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