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「赦し」とは

"赦し”を三次元的にイメージしたい

と思ったときに

頭の中で方程式のように考えることをやめて

屋久島の木とともにあったときの五感で感じることにフォーカスしてみたら
瞬時に感覚が教えてくれて

赦すことは
共生すること
と出てきた

共生するとき
そこには隙間が存在している

隙間とは、「有」と「無」の境い目

私の弱さも醜さも
さらけ出せる安心感のある木
さらけ出して受容された時に涙が溢れた。
ありのままでいられることに安心した。
ありのままでいられることは
誰にも自分の正当性を証明する必要も言い訳をする必要もないということ。
ただそう感じる自分がいることを
その場からも受容されること
受容されるというより
介入されないこと。
それぞれが、それぞれにただ存在しているだけ
それぞれが介入し合わない。
けれど認め合ってる。

“認め合う”というバイブレーションがその空間の空気や温度を変化させる

それは
一体となることであり
“生き合う”ということ。
その中には、朽ちることも再生も誕生も
すべてが循環として存在している。

だから「隙間」「空洞」には、あたたかさが宿り
そのあたたかさに安心することで
生命が生まれる。

“赦し”
から人生は始まり
絶えず生まれ続ける。



先日、1年ぶりの屋久島に行ってきました。


「隙間」「空洞」という「有」と「無」の境い目に生命は宿る
ということを、今回の屋久島で教えてもらいました。


「ゆるし」というものが最近の私のテーマで

なんとなく、「ゆるし」も「生まれる」ということに通じるものがあると思いました。
だから、それはなぜだろう?と考えた時に、
共通する"あたたかさ"を感じる気がした。

「ゆるし」にあたたかさを感じるのは、
「ゆるし」を与えられた瞬間に、私の人生が救われた、という安堵の感覚があったからです。
存在していいとゆるされた感覚、この地球上に居場所を与えられた感覚。

身体は、時間が経っても、五感で感じた感覚を、ずっと記憶し続けています。



きっと「ゆるし」=「生まれる」となる構図があるはず、と思って
考え続けていても、全く浮かんでこない。

と、ここで、屋久島の森にいた時の自分の五感で瞑想してみることに。


そうしたらビビッと、一瞬で、降りてきました。





椎名林檎さんの『本能』という曲の中に

どうして 歴史の上に 言葉が生まれたのか

とありますね。


1年ぶりにお会いした屋久島の方と話したことは

人間が誕生した頃、言葉も何もなくても、私たちは通じ合うことができた。
それは、互いに見つめ合うこと、その場の空気を共有すること、バイブレーションを相手や空間に伝えることによって。
その伝えたい想いを形にしたのが、言葉や芸術であったのだろうということ。


私たちは、誰一人として同じ個体はなく、同じ歴史も同じ経験も有しない。

人間であるという括りを信じて、私たち、と称しているだけであって、
私たちは本来全く別物なのである。

だからこそ、それぞれの思いやニュアンスをできる限り伝え合いたくて、
言葉や芸術が生まれたのだと思う。

言葉一つとっても、
自分と他者の解釈の仕方は面白いぐらい異なり、
伝わったと思っていても伝わっていないことはよくある。

だから絵やイメージで伝えようとする。

もっと感情を伝えたくて、歌や音楽にする。

そうやって、私たち人間の文化や芸術は
豊かなものになっていったのだと思います。

それでも、
豊かな手段を持ちながらも私たちは尚、
お互いを完璧に理解することはできない。

それもまた美しいこと、と感じます。


私たちは、他者を求める。
一体になろうとする。

けれどもその一方で、
一人一人に唯一無二の美学があり
そこには誰も介入できないこと。


相反するようでなんとか共生しているそのあり方が、
そのバランスが、
なんて美しいのだろう、と思います。



『かなしみは、美しい。』

ということのように。


This is not a logic but what I felt.

All emotions are beautiful.




xoxo,
Reina

2023.11.13@New Moon

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