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理解する必要がないこともある

今日は清々しく仕事が出来た。と言っても事態が好転したわけじゃない。

ご利用者様の命だの生活だの、治療の線引きだの・・・要するにその方々に合った幸せを考える日々なので、もう未だに難しすぎて。どこまで入り込んで良いのやら。

では、何故に今日普通に仕事が出来たのか?楽だったのか?
それは、普通の人々と一緒に仕事が出来たからだ。

その昔、私は、「普通」なんてものは存在しないと思っていた。色んな人がいて色んな生活がある。皆違うのに普通なんて概念が存在するものかと。

ところが、あるんですわ。時にはうっすら、ある時はクッキリと普通のラインというものが確かに存在する。

普通の人は、ご利用者様を元気にする。元気にすると言っても、元々エンドステージだから、いつかはお看取りせねばならないギリギリの状態の人が多いのだけど、その人なりに元気でいられるようにする。

今日のナースさんたちや介護士の、普通のポジティブな声掛けや援助を観ていて「やっぱりなあ。」と確信した。
ある人が居ないだけで皆生き生きとしているのだ。

私は、何か異常なものを観たり感じたりする時、それを観なかったことにする癖がある。相手を悪く思っちゃいけないという思いが強かった。いや、今でもある。

けれども、弱っている人に近づいて行って『元気ないね。』を何度も繰り返し言う人や、執拗に何度も血圧を測る人は間違いなく異常者だ。

ふと見ると、私のロッカーを開けて、しげしげ眺めていたり、いつの間にか誰も使っていない公共スペースを自分の荷物置き場にしたり。それがエスカレートして行って私の場所を使っていたり。

最初は「あれ?」と思う。

その「あれ?」が鳥肌に代わって行く。ずっと人のことばかり見ているし、人のファイルを開いたり、人が書いている手書きのメモにその人の筆跡が書き加えられていたりするとゾッとするようになった。

その人は、一生懸命人の欠点を探し、そこから人間関係を作ろうとする人だった。
誰かが途中までやっていることに飛びついては自分でやりたがる。しかし、一人では何も出来ない。何かを任されると空白になるかパニックになるかのどちらか。

気にしないようにしようとしても追って来る。

可哀そうなのかな?と、時々気が緩む。「止めて下さい。」と言うのを止めそうになる。
そして誰かと笑っていてはならないのか?とさえ思うことがある。鋭い視線と必死で聞き耳を立てている気配がありありと分かり気持ちが悪いから。

関心を持った人の欠点を探し続けると書いたが、もしも見つからないと、無理やり入って来ようとする。
それしか関わる方法がないと思っているのだろうし、関わらなければいられない何かがある。

立ち止まると自分が見えるのだろう。そこから逃げるには、一心不乱に他人を観て他人にこだわるしかないのかも知れない。

そういった変な気持ち悪さが無かった日、普通に仕事が出来た。それを心にしまっておこうとしていたというのに、同じことを言う人たちがいた。

私は何かを確信して来月の勤務表の内容を書き換えた。残念なことに正社やパートとか肩書き云々の前に、絶対任せてはならない人というのが存在する。
それは多分、私たちとは仕事の目的が微塵も一致しない人なのかも知れない。

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