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Escape①

ちょっとサヨナラ

 「少しだけ海外で暮らしたい」
夫に提案してみた。一緒に行きたいって言ったら考えてもいいと思っていたし、別に頑なに一人で行きたいとも思っていなかったけれど。
 「どのくらいの間?」
意外と冷静な反応だったので、思わず口から出まかせで「一ヶ月」と言ってみた。
若い頃バックパッカーとして世界を旅した経験がある私と、家と職場の行ったり来たりを彼此30年近く続けている夫。「海外で暮らす」という言葉の重みは違うかな、と思っていたけれど。どうやら彼にとって自分ではなく「私が」一ヶ月海外に住むことは、自然に受け入れられた様だ。
 ふんわりと夫との間に不思議な空気が流れて私もちょっぴり淋しい気分にもなったけれど。これがそれぞれの人生に帰っていくということなんだと思った。
 
 末っ子がアメリカの大学を卒業したことで、3人の子育てもいよいよ終了だと思った。若い頃バックパッカーをして世界をひとり旅していた私。よくぞ20年間、同じ場所で仕事をしながら子育てをしてきたものだと思う。家族の時間は概ねキラキラ光る思い出だが、その途中にテレビのCMみたいに一人で車の中で泣いている私、「もうダメかも」って空を見上げる私、グッと自分を押さえ込んだ笑顔が途中途中に浮かんでくる。よく頑張ったよ、私。
 夫も頑張った。夫と私はそれぞれ違う人生を歩んできて、それぞれの夢もしたいことも違う。だから子育てが終わった今、私は夫と二人の生活を大切にしたい。それ故の、ご褒美時間。ちょこちょこ「詰んだ」様に思える時間に、私はかつて1年程住んだ国での生活を思い描いた。マッチ売りの少女みたいにそれを頭に浮かべては、現実逃避。いや、リアルに描くことで「これが終わったら、行こうね」と自分に約束して耐えることが出来た。だから、これを実現せずに再び夫と二人の生活を始めることは、自分を裏切る様な気がしている。
「約束したじゃない」とあの時とあの時の私がきっと拗ねる。

スーッと消える

 準備万端。私が育ててきた店は、若いスタッフに任せた。一ヶ月の逃避行。
「行ってきます」
敢えて近所のスーパーに買い物に行く様な挨拶で家を出た。空港まで送ると言ってくれた夫の申し出も嬉しかったが、出来るだけ後ろ髪は引かれたくなかった。だってこれはご褒美なんだもの。でも空港に向かうタクシーの中で早速私は涙ぐんでいた。さすがに淋しそうな表情に見えた夫。彼との新しい生活のための、私のリセット時間。きっとこのまま子育てを終えて夫と二人の生活に突入したら、私は私を見失ったままになってしまう。
 仕事も子育ても夫との日常も忘れた、24時間全てを自分のために使う一ヶ月間は、私にとって最高のバカンスで次のステージに移る大切な儀式なのだ。

 LINEのノートに二人の約束を残した。夫との会話の中からつまんだ言葉をお互いいつでも確認できる様にしているのだ。

「目の前にいないだけ。私たちは夫婦」


→②へ続く
 

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