現実大さじ1、フィクション大さじ1 | ショートストーリー
知り合いが使ってもいいと言ってくれた吉祥寺のアパートの一室を、二週間ほど使わせてもらうことにした。借りた部屋は、外階段を一番上までのぼった通路の一番奥にあり、この建物には明らかに人が住んでいる形跡があるものの、その気配も音も臭いもしない。スチールのがっちゃんと音を立てそうなドアを目の前に、自信のない手つきで鍵をまわす。
そこは四畳一間くらいの凹凸のない部屋で、小さなキッチンとバスルーム、コンセントのささっていない電子レンジと冷蔵庫が、ここしか居場所はないと言わんばかりにシンクの横で低いタワーをつくっていた。部屋の片隅には小さなテレビと掃除機もあり、床には布団が二組、壁の方に寄せてあった。洗濯機は見当たらないが、東京では珍しくないことなのだろうか。キッチン台の下についている戸棚を開けると、前に使われたものの残りと思われる、市の専用ゴミ袋やフルーツ柄のピクニックシート、コンビニの割り箸やプラスチックのスプーン、紙皿などがまとめて収納されていた。
静かに閉じられたレースのカーテンの先にはバルコニーがあり、私は足元に寄せられた待ちぼうけのスリッパに足を滑らせ、レールに両肘をもたれかけて外を眺めた。写真を撮られる人が必ずするようなポーズで。自転車が車道ではなく歩道を縫って走る姿には、日本に戻っていつもとはっとさせられる。冬なのに自転車に乗っているというのも、雪国出身の私にとっては見慣れない光景だからかもしれない。
この部屋は片道一車線の道路に面していて、中型のトラックが定期的に行きかい、少し待てば必ず誰か彼かが通っていく。イギリスのいつものあの家で、夜明け前の暗闇に起きては窓辺に向かい、左から六軒目のあの家の、屋根裏部屋に灯りがつくまで祈るように待っていた時とは全然違う気持ちでここに立っていた。この街では、夜中に窓の外を見ようという考えが存在したことすら忘れられる気がした。
このアパートは相変わらず沈黙を保っているが、街の方は働く人によってもたらされる音と風と、日没まで続く惜しみない陽の光に溢れている。直線に伸びるこの道を通り過ぎる一人ひとりの動きを見ているだけで、この街のきちんとした性格が伝わってくる。向かいの、そしてその奥の、もっともっと遠くの家々の中までも、背筋の伸びた人々が数冊の本をトントンと机の上で揃えるように、指先まで整った生活を営む姿が透明な壁をすり抜けて見えるようだった。
東京で暮らしてみたいという夢を、この二週間とこの部屋が請け負ってくれた。私はそう思っている。イギリスへ移住した当初は、限られた二年を十年のように生きようと思った。それなら私は一時帰国のこの二週間を十ヶ月のような気持ちで過ごしたい。いや、「過ごしたい」ではなく「過ごす」のだ。この文尾の違いは、テストでは一点減点されるだけかもしれないが、実は天と地の差がある。本当にここに住んでいる人たちのように生活を営む。毎日のように観光地や人気のお店に行って、その地を消費するように過ごすのではない。むしろ時計の針に両腕でぶら下がって速度を緩めるかのように、何気ない景色にも遅いシャッターを切って、じっくり見つめて、感じて、そういう日々を過ごすのだ。
到着したばかりの高鳴る胸は一人でも勝手に外へ出て行ってしまいそうで、まるで目の離せない小さな子どもが別に一人いるようだった。できるだけ少ない荷物にと、上着になりそうなものはコンパクトに畳めるダウンジャケットしか持ってきていなかった。羽田空港に着いた時、迎えの人なんていないはずだったのに、私の名前が書かれたカードを持って探しまわっているスタッフがいて、スーツケースは訳あってロンドンに取り残されてしまったと言う。悲しむというよりは、ロンドンで適当に扱われたスーツケースの始末を、羽田空港のスタッフが負っていることに同情してしまった。
スーツケースの中身はこの部屋を借りたお礼にとあらかじめ買ってきたいくつかの贈り物と、数冊の本が入っているだけだった。その他はあまり覚えていなくて、それなら詰めてくる必要すらあったかわからない。私の代わりに一人取り残されたスーツケースは後日配送されるらしく、この部屋宛てに誰かから荷物が届くというのも、本物の住人みたいで悪くないと思った。中身を知っていても、あたかも誰かが私のためにわざわざ送ってくれたかのように受け取ろうと思った。
ところでこの部屋は、得体の知れぬ私が住人になろうとしていることをどう思っているだろうか。部屋の貸し主である尾田さんは「部屋は誰かが使ってくれた方が喜ぶ」と言ってくれたけれど、それでよかっただろうか。「使う」なんて借りる側の私が偉そうな言い方をして、この部屋の気に障るのではないかと思って、私はその言葉を口に出さないことにした。
コーヒーを淹れたところで、この部屋が語りかけてくれるわけもなく、結局のところ都合のいい解釈なのだろうけど、バルコニーの窓をいっぱいに開けて、冬の凛とした空気が流れ込むと、この部屋が生き生きとした呼吸の循環を取り戻して少しだけ口角を緩めた気がした。儚く見えて実は一番部屋を守っている端のカーテンが「とりあえずここに居なさい」と許してくれるよう私は願った。
この隙にドアから片足を出し、今にも逃げ出しそうなイタズラ顔の胸の高まりを思い出し、私は脱いだばかりのダウンジャケットに再び腕をとおす。鍵には大きなハートのキーホルダーがついていて、借り物の責任感かちょっと強く握りしめた。真面目に鍵を閉めるその手の動きはまだまだ住人らしくないけれど、幸い誰も見ていなかった。
次に帰ってくる時は、このドアの先に何が待っているか知っている。帰るということはそういうことだと思った。待ってくれているものがあるからこそ、帰るという関係性が成り立つ。待っているのが例え人ではなかったとしても。帰る家の明かりをつけるのがいつも自分だったとしても。乾かしたお皿も小さな紙屑も、私が動かさない限りずっとそこにあるとしても。今日からここが私の帰る場所で、もし誰かに尋ねられれば私はこの辺りに住んでいると答えることだろう。少しの間でもいい。いつもの自分を遠くに置いて、別の姿に袖を通したかった。ドアは東京一人暮らしに期待していたとおりの音を立てて閉まった。
通りに出ると、そこは人の意思で埋め尽くされていた。皆が目的を持って歩いている、そんな風に見えた。赤信号ではピタリと人々が止まり、また一斉に動き出す。そんな一定のリズムが数日もいればすぐに体に戻りそうであった。どちらが後天的に備わったのかわからないが、自由を求める一方で、規律にも安全を感じるという矛盾したこの体の針は、右に左に思い切り振れながら、時にまっすぐ走り続けることが難しくなり、アクセルを踏む足が弱くなったその道半ばの「ないものねだり」と書かれた赤字の標識に黙るしかなかった。走るのに疲弊したこの体が最初に求めたのは動物の本能なのか安全だった。
そしてここは正しく安全だとポスターのキャラクターが言っている。本屋に行っても、薬局に行っても、どこに行ってもそう感じる。その見えない安全網は時に強すぎて、不安なものや不快のものを一切寄せつけず、異質なものが入ってくると必要以上に反応してしまう免疫細胞のような、何か弱みになるものも抱えているような気もしていた。でもそんなこと今の私にはどうでもよかった。ただ無条件に安全だと感じられればよかった。楽しく気楽なことだけ見ていたかった。イギリスでよく聞いていたメランコリーな音楽は、ここにはとても不相応に思えて私はヘッドフォンで流れ始めたプレイリストをすぐに消した。
少し落ち着いた通りへ抜けると、花屋に八百屋、カフェや文房具店と小さい店舗がいくつも並んでいる。眺めているだけで癒され、長旅の疲れも忘れてしまいそうだった。ふと見上げると、均等に干された洗濯物が風になびき、傾きかけた陽の光が家の外壁に斜線の影をくっきり落としていく。どの風景も水面に落ちる一滴の雨が波紋をつくるように響いてくる。懐かしいといえるほど、日本を離れて年数が経っているわけではない。それでもそう感じるのは、これからも長く離れることになるかもしれないという何か覚悟のようなものを含んだ郷愁なのかもしれない。
左方に木目のきれいな扉が目に入り、私は少し振り返るようにして横長の窓から中を覗いた。そこは服を売っているお店のようで、髪の長い女性がカウンターの奥に見える。中に入ってみたかったけれど、いつも聴いていた音楽がここの風景には合わないみたいに、今の私はまだこのお店にふさわしくないように感じて、あの女性がこちらへ目を向ける前にできるだけここから離れようと思った。
まっすぐ歩いているうちに、ぽつりぽつりとお店がなくなっていて、気がつけば夕食の支度をする音が今にも聞こえてきそうな時間帯の住宅街へと入っていた。暗がりに電気をつけ始めた家々は、不思議と昼時とは違った顔を見せる。それはまるで大切なものをしっかりと守るように、内側の人間に惜しみない温かさを与えると同時に、外側の人間を寄せ付けない冷たさを放つようだった。私にはもうここを歩く理由がない気がして、両足を揃えてぱたりと止まった。
どこへ行っても動く月のように心はついてくる。足りないものを一時的に埋めようと光のあるところに立っても、ふと仰げば厚い雲が月を覆い隠し、元にいた場所と同じ暗さでしかないことに気づかされる。それでも、場所を変え続けても意味をなさないことをどこかでわかっていてもやめられない。私は明日からも東京一人暮らしのフリを続けるが、まやかしの衣は夜になればわかると、去リゆく私に振り返る素振りもない家々が、さよならの代わりに言い残していった。
探しているものが何なのかなんて、自分でもよくわからない。ただあるのは、蛇口をひねり続けても水がどこからか漏れてしまう穴の開いた容れ物のような感覚だけだった。ようやく穴を塞いでくれる完璧なカタチをした温もりの破片を見つけたと思っても、ある日突然別れが来て、その鋭い破片の残した抜け跡に、穴は以前よりも大きくなってしまう。
そんなことを繰り返しているうちに、いつからか。愛しいと強く思うようになるほど、この手を離れてしまう瞬間を意識しておかなければ心がついていかないようになった。失ったときの自分をなぐさめる言葉も、小説や音楽から拾い集めるようになった。そうしていると、この世界は失ったものへの自分の答えを探す詩に溢れていると気がついた。
属しているという言葉は別に好まないし、居場所という言葉も何だか違うけれど、ここにいていいと思える何かが欲しいのだと思う。他人に与えられるものはいつかなくなるし、自分でつくるしかないのだと。賢そうな本のどこかのページが言っていた。でも例えばこの指先の、大さじ1のスプーンで、何をすくえばそんな場所がつくれるのだろうか。寂しさの味を噛みしめた後に、私は忘れられるのだろうか。
街灯の下、来た道を戻り、開いたドアの隙間から中を覗くようにしてあの部屋へと入る。電気とテレビをつけると、先ほど見ていたあの通りの家々と同じように、ようやく自分も内側の人間になれた気がした。部屋に入る前、隣の家のドアの前に、ダンボールの荷物が届いているのを見かけたが、相変わらず人の気配がなかった。明日の朝、もしあのダンボールがなくなっていたら私はどう感じるのだろうか。なぜか不安な気持ちになる気がして、できればダンボールのことは早く忘れてしまいたかった。私はカーテンを閉めて、朝の光が入るまで開けないと決めた。
あとがき
このストーリーは、現実にあったことにフィクションを織りまぜるようにして書いてみました。
人は本当を見るのが怖いからはっきりとは見ないようにしていたり、あらゆる必要性から本心を誤魔化すといったことがあるように思います。
出逢いと別れ、好きや嫌いなど、真逆と思われるものほど、時に信じられない強度で近づき入れ替わることがあるように。そして、自分にない、反対側の誰かや何かにこそ心を引きつけられるように。一見、相反するもの同士はとても近い存在のようにも思います。現実とフィクションも実はそう遠くないものなのではないでしょうか。
ここまで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。