【おはなし】 5月12日
かの有名なシェバンス博士の報告書によると、母の日は今日ではなく昨日ということになる。では昨日は当日が母の日だったのかというとそうでもなく、昨日もまたその前日が母の日であったという。ではその前日には・・・・以下、永遠と前日が続くという。
花屋では過ぎ去った母の日のフラワーギフトをせっせと作り、ケーキ屋でも、ワイン屋でも、はたまた肉屋でも過ぎ去りし日の感謝を伝えるための商材が運搬されていく。
6の月にやってくる父の日も同様であると博士は言う。海の日、山の日、その他の祝日も、海辺に放り投げる捕獲網のごとくいっしょくたにされてしまう。
例外は、ハロウィン、クリスマス、ホワイトデー。そのあいだにひとつ抜け落ちている記念日こそが博士の一番の関心ごとである。
雑貨商の翡翠は博士のねじ曲がった精神を反対方向に転換させるために雇われた。自宅の物置き場で異国からの手紙を開封し、依頼主の要望に添いそうな置き物や敷き物をトランクの中に詰め込むと、倉庫の明かりを消してその日のうちに船に乗った。
月が姿を現わし太陽が地球の反対側に押しやられるのを10ないしは20ほど数え終えたころ、船はようやく入港した。
船着場で翡翠を出迎えたのは博士の助手2号である。2号は翡翠が両手で抱えているトランクを受け取ると、ヒョイと自らの頭の上に固定してから翡翠を馬車に誘導した。
「長旅ごくろうさまでございました」2号は言った。
「月と20回ほどお見合いする機会がありましたが、私には興味がないご様子でした」と翡翠は答えた。
「さようでございましたか。では此度の依頼が達成された暁には、舞踏会へお連れすることをお約束いたします」
「おお、それは誠に恐れいる所存ですぞ」
翡翠は長く伸ばした口髭を右の手でねじりながら、毛先をハリネズミのように尖らせた。
「・・・それで?」
「だからですね、母の日は前日ということにして、今日はハロウィンをしましょうよ」
「すっとぼけたことを言い出したよ、この子は」
「いいじゃないですか、てんちょ」
「ダメに決まってるだろ、バカスイ」
「バカって言うな。せめてクレイジーにしてください」
「バカ、バカ、バーカ」
そのやりとりを見ていた志穂は、ふたりにそれぞれガラスのコップを手渡すと、裏口の階段に座らせた。
「これで乾杯しましょう」
志穂は瓶詰めされた飲み物をふたりのコップに注いでいく。
「おや、これは透明だからワインじゃないねえ」と店長が残念な声を出すと、「しゅわしゅわしているから温泉水じゃないですかね」とスイが合いの手を入れた。
ふたりのコップに液体を注ぎ終えると、志穂は背筋を伸ばして言った。
「じゃあ、ふたりとも、これ飲んで仲良くしてくださいね」
「仕方ないねえ」と店長。
「志穂さんがそういうなら、べつにいいですけど・・・」とスイ。
ふたりはコップのふちをカチリと合わせることなく液体にくちをつけた。
「おや、これは不思議な味がするねえ」
「むむっ、味というより、香りじゃないですか?」
「どっちでもいいさ」
「そうですね」
親子ほど歳の離れているふたりの仲を取り持った志穂は、「ふふっ」と小さく笑みを浮かべた。
「ところで、さっきの変な言い訳はなんだい?」
店長がスイにたずねた。
「へっ、なんのことですか?」
「シェバンス博士がどうとか」
「ああ、あれはですね、今朝の夢に出てきたワンシーンなんですよ」
「ワンシーンにしては随分と長かったねえ」
「わたしが男になってたの、分かりました?」
「だからハロウィンがしたいのかい」
「半分正解ですね」
「ふうん。残りの半分は聞かないことにしといてやるから、さっさと荷物の整理を終えて店頭に立ちな」
「えっ、今日はわたしも接客していいんですか?」
「あたりまえだろ。あんたが作った母の日ギフト、責任持って売り払いな」
「やっほーい」
階段から飛び上がったスイは、持っていたグラスを店長に手渡すと急いで荷物整理の続きをはじめた。
今日は5月12日。
スイが隠した残り半分の本音は、遠く離れて暮らしているお母さんに会えない寂しい気持ち。
もちろん、店長も志穂も気づいていた。
おしまい