【おはなし】 おじさんのセカイ旅行
職安で求職の手続きを済ませた私が近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、女子大生らしき2人組の席から話し声が聞こえてきた。
「もうすぐ新学期になるじゃない。3回生にもなると就活が本格化するから、その前に旅行に行こうと思ってるのよね」
「あんた、また海外に行こうと思ってるんじゃないわよね?」
「もちろん、海外に決まってるじゃない」
「こないだ行ったのはインドだっけ?」
「インドは去年よ」
「ドバイに行ったのは?」
「おととし」
「マカオは?」
「覚えてないかも」
ふたりの声はとても大きく、店内で流れている演歌がまったく聞こえてこない。おばちゃんの病院話に比べると新鮮だから私は黙って聞き耳を立てている。
「結局、あんた何カ国いってきたわけ?」
「10カ国」
「10代でそんなにまわってきたの?」
「まだ足りないわよ」
「ふーん、サッカーでもはじめるつもりなのかしら・・・」
聞き役の女の子は、自分も海外旅行に行きたいけれど、資金が足りないとか勇気が足りないとか、そういったネガティブな感情に支配されているように私には見える。それでも友達付き合いを大切にしているのか、はたまた上から見下しているのか私には分からない理由で友人に気持ちよくしゃべらそうと努力をしている姿勢は私も見習うべきだろう。
私はカバンを開けて書類を取り出す。職安で印刷してきた求職票である。全部で8枚ある。残念ながら3枚足りない。
私は今までにお付き合いをしてきた女性を数えてみる。全員で6人である。5人も足りない。
最後に私は今までに勤めてきた会社を数えてみることにした。テーブルに備え付けられている紙ナプキンを広げて筆記具を探した。チビたえんぴつが見つかった。毎日持ち歩いているから目をつぶっていても簡単に取り外せる。
私は思い出せる範囲で順番に書き出していく。
・ビール工場
・パン工場
・新聞配達
・トラックの運転手
全部で4つ書き出せた。どれも会社名は覚えていない。仕事内容になっているが、まぁよしとしよう。
・献血の受付
・エロ本屋
・冷蔵庫の修理
少しずつ具体的になってきたぞ。
一番楽しかった職場はどこだろう。私はスポーツ新聞を広げて頭を無にしながら眺めていく。指が新聞紙に触れる感覚。ページをめくる音が私の記憶を呼び覚ましていく。
あれは高校生のときにはじめて体験したアルバイトだった。大きな神社にやってくる初詣のお客を相手にした水商売だ。
時代劇に出てくるお茶屋みたいな空間で私はイカの姿焼きを作っていた。横に長い鉄板の上にイカを乗せて焼くだけの簡単な仕事。
「ええか、坊主」
親方は私のことを坊主と呼んでいた。
「鉄板の上だけを見とったらあかんぞ。お客の流れを読むんや。今は参拝客が少ないけどな、もうじき増えだしよる。これはな、ワシの長年の経験からわかるこっちゃ。ワシが合図したらな、坊主おまえはアツアツの鉄板の上にソースを広げるんやぞ」
私は意味がわからないまま親方の言いつけを守ることにした。
12時が過ぎてお参りを終えた人々が店の近くにやってきた瞬間に親方が合図を送ってきた。私はそのタイミングでソースを鉄板の上に乗せた。
ジューーーーッ
勢いよく広がっていくソースは鉄板に焦がされて水蒸気に変化すると空気中に漂い始めた。
「ねえねえ、いい香りがしない?」
「ほんまやな。あの屋台からとちゃうか」
「ちょっと寄っていきましょうよ」
「そやな」
たぶんそんな会話があちこちで交わされていたのだろう。香ばしいにおいを嗅いだお客たちが店に入ってくると私は急に忙しくなった。
イカの片面を焼いてひっくり返す。最初は皮のある面を焼く。ある程度の焼き色が付いたらひっくり返す。ときどきソースを鉄板にあぶせながら。
はじめて体験した仕事が一番楽しい思い出として記憶にあるのはいいことだ。私は紙ナプキンに「イカ焼き」と書いてから、左耳からチビた赤えんぴつを取り出してまるで囲った。
せっかくだから一番苦しかった仕事も書いておこう。
・医薬品の製造
・新聞配達
・データ入力
・スーツの販売
どれも苦手だった。
屋外で働く仕事は雨の日がつらかった。座り仕事は単純作業の繰り返しで頭がおかしくなりそうだった。スーツの販売はいろんなお客と話せて楽しかったのだが、ネクタイを結ぶのが苦痛だった。たぶん前世の私は絞首刑をくらったのだ。
「クスリ、かな・・・」
ぽつりとこぼれ落ちた私の独りごと。
敏感にキャッチしたのは海外トラベラーの女の子だった。彼女は友達の会話を中断させると、怪しいお客があそこにいるわよ、とふたりだけが理解できる合図を送りさりげなく私を観察しはじめた。
どうして私にそんなことが理解できたのかというと、単純に静かになったからだ。さっきまでぺちゃくちゃおしゃべりをしていた若い女性が静かになるときには、たいてい私の行動が絡んでいる。時代に沿わない生き方をしている私が物めずらしく彼女たちの目に映るのだろう。
若い女性に注目されるのは結構なことだ。ありがたいし、なんだか自分が大きくなった気分にもなれる。だが今の私は忙しい。このリストを完成させることに意識が向いている。もう少し私にサービス精神があれば、ぽつりぽつりと独りごとをこぼしながら過ごすのだが、今の私にはそんな余裕はない。
医薬品の製造の嫌だったところは、マニュアルが整い過ぎていたから。手順通りに作業をしないとエラーになって大問題になる。しかも大問題になってドヤされるのならまだ精神的に立ち直れるスピードが早く済むのだが、コンプライアンスだとかハラスメントだとかで面と向かってドヤしてくれない。
そのかわり、やんわりと違うポジションに配置転換されていくのだ。優しさの形をした遠回しの暴力。私はそんなことを考えながら過ごしていたのだ。
徐々に記憶が鮮明になり始めてきた。開けてはいけないバルブを回して製品をオジャンにしたこと。2月の夜空の下で水を使って機器を洗浄していたこと。いつのまにか私は両手で頭を抱えてテーブルの上に肘を乗せた状態で固まってしまった。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。たぶん、演歌一曲分くらいだろうか。
誰かが私に話しかけてきた。
「おっちゃん、あたま痛いんか?」
私が視線を向けるとトラベラーの女の子、ではなく、聞き役の女の子が目の前に立っていた。
「あたま痛いんやったらな、これ飲んだらええよ」
彼女は私のテーブルに白い錠剤を一粒置いた。
「そうじゃない苦しみやったらな、これ、ちょっとやけど使って」
彼女は私のテーブルに1,000円札を一枚置いた。
「あんまり思い詰めたらあかんよ」
優しい言葉を残したまま彼女は店を出て行った。トラベラーの女の子はどうしたらいいのか分からず、私にペコリと頭を下げて店を出て行った。
彼女たちの目に私はどのように写っていたのだろうか。私は悲しくなってきた。こんなはずじゃなかったのに。私にも夢と希望があったのだ。彼女たちと同じくらいの若さが溢れていた時期があったのだ。
私は女の子が置いて行った1,000円札を胸ポケットにつっこみ、白い錠剤(たぶん痛み止めだろう)を水の入ったコップに溶かして指でかきまわしてから飲み干した。
しばらくじっとしていると気分が楽になってきた。たぶん演歌3曲分くらいの時間が過ぎて薬が効いてきたのだろう。
私は紙ナプキンに書き出した仕事を数えてみる。全部で11ある。多いのか少ないのか分からないが、私もサッカーができそうだ。
ゴマスリ上手な課長、手当たり次第に女性を口説く事務員、ネコみたいに気分屋の経理担当者、クマみたいに巨漢のドライバー。個性的なメンバーが集まりそうだ。
彼らと過ごした時間は私の貴重な財産になるだろう。
私は派遣のおじさん。残念ながら海外旅行の経験はないが、旅行好きの彼女に匹敵するくらい多くの会社を渡り歩いてきた。
いつの日か彼女たちの職場におじゃますることがあるかもしれない。そのときに、ちゃんとお礼を伝えたい。
おしまい