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語学する意義について | 論理性及び主語のたて方に関する一考察

[1]  脳内モードチェンジ

 最近はあまり語学に時間をかけて学んでいないが、noteを始める前には、独学で英語・ドイツ語・ロシア語を学んでいた。
 英語さえ、日本国内に住み仕事でも使う機会がなければ、生きるか死ぬかという意味において、切実に学ぶ必要性を感じない。そういう状況下において、語学することは、無駄と言えば無駄だと思うが、たまに外国語に触れることは楽しい。

 非英語圏のどこの国でも、「外国語を学ぶこと=英語を学ぶこと」だと思う。世界の共通語としての役割が英語にはあるからだ。実用面から考えると、外国語を1つだけ学ぶならば英語を選択するということは必然的なのだろう。

 (私にも当てはまるが)「一番大切な英語」さえ、自由に使いこなすことができないのに、英語以外の言語を学んだって仕方ないではないか。アレコレいろいろな外国語に手を出すよりも、とにかく英語に集中したほうがいい。そう考える人も多いだろう。

 不幸なことに、英語という科目は、理系文系を問わず、受験科目になっていることが多いし、TOEICのスコアが就職に関連づけて考えられることが多い。
 無味乾燥な試験の問題集を「○○周しました」的な勉強垢も見かける。どんな言語であれ、単語やフレーズを覚えたり、基本的な文法を理解することは避けられないのだが、「試験のため」あるいは「就職のため」に英語を学ぶということには違和感をもつ。

 端的に言えば、英語に限らず、私が語学に親しむのは楽しいから、というのが理由だが、直接英語を使う機会がなくても脳内を「モードチェンジ」できるのがいい。

 母語である日本語で読んだり書いたりすることが私にとって一番楽だが、英語で文章を書くことにも理由がある。

 基本的にnoteの記事は、ほとんど日本語で投稿しているが、賛否両論がある内容のときは、あえて英語にしてみたりする。別に読まれて不都合があることを書いているわけではないが、ちゃんと読まれることなく「あーだこーだ」と自説を述べられることを好まない。「英語で書いた記事なのだから、英語でコメント💬してね」的な雰囲気にすると、安直な軽い気持ちではコメントを書けなくなる。

[2]  英語の発想・日本語の発想

 それはともかく、日本語で文章を綴るときと、英語で文章を綴るときには、少し文章の書き方そのものが変わることが多い。
 日本語だと詳しく説明できることでも、英語で書くときには、細かいところまで正確に書き尽くすということは、私には難しい。それゆえに、同じ意味内容のことであっても、英語で文章を綴るときには、日本語で書くときには比べて、文章がかなり簡略化される。物足りなささえ感じてしまうほどに。

 もちろん「国語力」と「英語力」のギャップがその主な原因ではあるが、日本語と英語の発想がそもそも違うということも大きいだろう。

 簡単に言えば、次のようなことが、日本語で書くときと英語に書くときとでは異なる。

①主語を何を立てるかということ。

日本語では、人間の動作・行為を表現する文の主語には「ヒト」を立てることが多いが、英語では「モノ・コト」を主語に立てることも多い。

His pride didn't allow him to do such a thing. 
彼には誇りがあるから、そんなことは出来なかった。
A few minutes' walk will lead you to the station. 
数分歩けば、駅に着きますよ。

ここに挙げた例文は、英文法の用語では「物主構文」(あるいは「無生物主語」)と言うが、とっさに出てこない言い回しである。

②情緒が変わる。あるいは変わらざるを得ない。

これは「語学力の貧困」による部分が大きいが、英語で表現するときには、「状況説明的」になることがある。
どこかに足の小指をぶつければ、とっさに「痛い!!」と叫ぶが、「Ouch !!」という言葉は私からはきっと出てこない。
英語を使わざるを得ない状況の中で、本当に痛かったら「Help me !!」と叫ぶのが関の山だと思う。

③文の組み立て方が異なる。

日本語には、英語の関係代名詞に当たる文法はないから、後ろから「訳しあげる」ことが必要になる場合がある。また、そもそも日本語が基本的に「S+O+V」(~が~を~する)という語順であるのに対して、英語では「S+V+O」(~が、~する、~を)という語順である。
こういった並べ方の問題は、一つ一つの文章に限ったことではない。
場合によっては、パラグラフ(段落)ごと入れ換えたほうが流れがスムーズになるように感じることがある。

ものにもよるが、日本語で書くときには「起承転結」で書いたものを、日本語に対して非ネイティブの話者に用件を伝えるための分かりやすい文章に書き換えるならば、

「起→承→結」のように、文章や話のねじれやすい「転」に当たる部分を「カット」してしまうとか、

「結→起→承→(転)」のように、一番大切な「結論」を先に言うとか、「パラグラフ」そのものの並び方をかえるといったことも考えられる。

[3] 英語は論理的な言語なのか?

 ここで、話の流れをかえる。
 英語をかじって、少し英語に堪能になると、「英語は (日本語と異なり) 論理的な言語だ!」みたいなことを言う人がいる。
 昨日できたばかりの言語ならいさしらず、日本語だろうと、英語だろうと、ドイツ語だろうと、どんな言語にも「論理性」がある。
 どの言語で書いたほうがより多くの人に読まれやすいか?、という問題は当然あるが、どの言語にせよ、同等のことを書く「器」はある。
 英語で書かれた科学論文でも、日本語に訳せないということはない。細かなニュアンスや言葉遊びまで全く同じというわけにはいかないが、同じ意味内容のことは、どんな言語でも言える。


ここからは、余談。
「論理的」「非論理」で言うなら、英語のほうが日本語より「非論理的」と思えることはある。

「a, an」「the」などの冠詞の使い方。あるいは、「単数形」「複数形」を分けること。
考えてみれば「一個」と「二個」の時では 「a pen 」が「two pens」になり形を変えるのに、100本になっても「pens」の形は変わらない。
どう考えても、「1から2」の変化より「2から100」への変化のほうが大きいではないか?

数の数えかたも変と言えば変。
いわゆるティーンエイジャーに相当する「13 ~ 19」。
例えば、21から29までだったら、
twenty one , ……, twenty nineのように10の位から1の位を読み上げるのに、「13~19」は1の位から10の位を読み上げるような形になっている。
ドイツ語は、その点では、「20」以降も
zweiundzwanzig(22, zwei/und/zwanzig)のように1の位から読み上げるので「論理的?」(一貫性がある)だ。

 言葉を説明するには「共時的」(その時代の枠内で文法的な説明)な視点と「通時的」(言語の変化・変遷による文法的な説明)な視点がある。
 「共時的に」非合理でも、「通時的に」合理的ということもある。だから、1つの言葉を取り上げて、「合理的」だの「非合理」だの、「論理的」だの「非論理的」だのと本来いうことはおかしい。

 どの言語にも「論理性」というものはある。もちろん「例外」もあるのだが。

 「英語と日本語のどちらが論理的か?」という問いは不毛である。それぞれの言語に、それぞれの「論理性」がある。
 また、「どちらが情緒的か?」という問いも不毛である。それぞれの言語に、それぞれの「情緒」がある。

 「どちらが優れた言語か?」という問いはは超絶不毛な議論である。
 1つの言語でなく、2つ以上の言語を学ぶことは、それだけで、1つの世界観から複数の世界観をもつことへの架け橋となる。


言語を学ぶ間接的な効用

 誰でも義務教育で学んだ英語を例に考えてみよう。さきほどの少し触れたが、日本語で作文する(例えばnoteを書く)ときに行き詰まったら、英語の発想で書こうとすると、書きやすくなることがある。
 人を主語に立てると書きにくいことも、あえて別な主語を立てると書きやすくなることがある。
 さきほども挙げた例だが、「私はプライドが高くて彼を許せなかった」と書くと角がたちそうなところを「私のプライドが彼を許すことが出来なかった」と書くと少し自分自身を突き放したような表現になる。
 あるいは「私」という主語を全部「あなた」に置き換えると、少し「一般論」を言っているような感じになる。
 「私」を「彼女」とか「彼」に置き換えると、実際は「私」のことなのに、伝聞したことを客観的に言っているような感じになる。

 「私」を主語にすると、エッセイのようだが、「彼」を主語にすると、小説っぽくなる。「私」を「モノ」に置き換えれば、ファンタジーっぽくなる。
 エッセイだと少し恥ずかしい想いも、小説という器に物語を注ぐと、俄然書きやすくなるなんてこともあるかもしれない。
 母語以外の言語を習得することは、もう一人の自分を獲得することであるとも言える。
 「私自身」が自分語りをすることに疲れたら、自分の内にいる「彼」や「彼女」に憑依して気持ちを吐き出すことも可能だろう。
 語学の実用性のテリトリーは、一般に考えられているよりも、もっと広いのではないだろうか?


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