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出願書類と個性

みなさん、こんにちは。
またまた、大変ご無沙汰しております状態になっています…

9月も半ばになりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

9月といえば、何があるでしょう?
そうです、僕の誕生月です!

が、もうお誕生日をお祝いするような年齢でもないので、そんなことはどうでもいいですね。

9月は帰国子女入試に向けて出願書類の準備に追われている方も多いのではないでしょうか?

中学校はあまりないかもしれませんが、高校入試・大学入試では出願書類が重要になってくるので神経質になってしまいますよね。

僕は出願書類のサポートをすることがあるので、僕にとっても結構重大なことです。

自分の出願書類は正直言ってあまり深く考えなかったのですが(落ちても誰にも迷惑がかからないので…)、人の出願書類をサポートするのは結構大変です。

今回は最近感じた出願書類の難しさの話をしようと思います。


書類は個性を出せ、とよく言われます。が、個性とはなんでしょうか?

このアドバイスは個性が大事というより、「周りの出願者と同じことばかり書くな」ということだと僕は解釈しています。

帰国子女入試の出願書類は
・多様性の大切さを学んだ
・英語を習得することは大変だったが、英語が世界を広げてくれた
と書いてあるものが多いです。

これは割と面白いですね。The Japanese!って感じです。

アメリカの大学に出願する際に、多様性はまだしも英語が武器ですと書く人はあまりいないように個人的には思っています。

多様性について言及するにも、なんと言うか、もうちょっと社会制度に絡めた話の展開をしているように思います。

それに対し、日本の帰国入試の書類はもっと身近に「多様性のおかけで自分もコミュニティの一員になれたと思う」とか「自分とは文化がちがう人の意見を聞いて視野が広がった」などといった内容が多くて、本来、人の率直な意見とか、正直な認識はこんな感じなのかななんて思ったりもします。

書類はよくも悪くも、ある程度、学校や学部の傾向を研究して狙い撃ちのような仕上げ方をすることが多いですが、その中でもこのような正直な気持ちを記述した方が本当はいいのでしょうか?…

いきなり話が逸れてしまいましたが、個性の話でした。

僕が戸惑う書類のひとつは「感想文になっている書類」です。

「〇〇して▲▲と感じました。」というものが典型で、これ自体は本人の実際の経験なので、否定のしようがありません。

そして、本人はそれを伝えたいと思ったのだから間違っているとも言えません。

でも、出願書類は感想文ではないので、通常はこのようなものをそのまま提出すると、最悪の場合、文書の最後まで読まれることもなく不合格リストに入れられてしまいます。

本人が正直に書いたものをいかに出願書類として「ふさわしいとされる」形にしていくかが僕のサポートの役割なわけですが、結局これは個性の否定なのかなとも思い、なかなか悩ましいものです。

そのほかにも、あまりにも文学的な記述も通常は直すことが多いです。

出願書類は小説ではないので、おしゃれな表現やあまりに不要な比喩、感情が全面に出ているような文章は好まれないことが多いと思われます。

しかし、本人が最初にそのような書き方をしたのであれば、それこそが本人の言葉なのだから直してはいけないのかなと思わなくもありません。

どこまで介入するかは本当に悩ましい問題です。


これは面接でも同じことです。

僕は割と、ある話をしている途中で他のことに話が飛んでしまう癖があるのですが、こういう話は聞いている方からすると何を言っているかわかりにくく、特に結論が捉えづらいので好まれません。

日常会話ならまだしも、時間の限られている面接では特に避けるべきとされています。

面接では聞かれたことに端的に答える。

ですが、やはり会話である以上は途中で話がずれてしまうことはあり得ることで、これはいろんなものを関連づけていることでもあるので、これが完全に悪いことであるとも言い切れないと思います。

話が途中であっちこっち行ってしまう引き出しの多さはそれはそれで長所だと思いますので、それを抑えこんんで、聞かれたことだけに答えろ! と指導するのはなんだか複雑な気持ちです。

おそらく自分もそういう話し方をしてしまうので、余計に勝手な同情を抱くのでしょうね…

制限のある環境で求められたことに対応するというのも能力のひとつなのかもしれませんね。

なにはともあれ、本人が自己否定をしない範囲において出願をサポートして、よい結果を受け取ってくれることを祈るばかりです!


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