【読書エッセイ】人生に輝きを与えてくれた一冊
【今回の一冊】『檸檬』
著:梶井基次郎
発売:新潮文庫/定価:473円(本体:430円)
31歳という若さで夭折した著者・梶井基次郎の自伝的短篇小説。「買い求めたレモンを書店の棚に残して立ち去る」という行為をへて、鬱屈とした心情が一変するさまを描いている。
暗がりに小さき檸檬輝きて
夕方間近のその午後、十五歳の私たちは、教室で公立高校の合否が発表されるのを待っていた。
当時、少なくとも周辺の地区では、中学校に各高校からまとめて結果が伝えられ、それをクラスの担任が本人に伝えるのが慣例となっていた。
学校数の多い大都市とは違い、私の育った地方都市では、私立高校をいわゆる「滑り止め」として公立高校と併願するのがたいていで、つまりその時はクラスの誰もが第一志望校の発表を待っているところだった。
「落ちた人だけ、教室の外に呼ばれるんだって」
担任はもう何時間も前から職員室に行ったきり戻らず、生徒だけの教室には、そわそわとした空気が充満していた。
「俺は梶井基次郎の『檸檬』」
どういう文脈でそんな会話になったのかはわからない。私の前の席に座っていた男子がそんなことを言った。
その年の受験では、筆記試験のあとに面接が行なわれていたから、面接官の質問、例えば「好きな小説は何か」への返答、などといったことだったろう。実を言えば、その発言をした生徒の名前や顔も思い出せない。『檸檬』も未読だった。
いずれにせよ、私はただ
「ふーん」
とだけ思ったことは覚えている。
期待をさせないように先に述べておくが、これは青春時代の淡い恋心といった類いのものではない。繰り返しになるが、その男子生徒の顔も名前もあやふやなのだから。
『檸檬』は、病弱だった梶井が、日常の中で出会った一瞬の出来事が綴られた自伝的短編小説だ。手に入れた一個の檸檬を、書店の丸善の暗がりに積まれた書籍の上に置き去りにする。その衝撃的な色彩は、人生のともしびになぞらえられ、輝くような光を放つさまが、「生」への憧れや美しさの象徴として鮮やかに描かれている。
やがてして、ドアをガラリと音をさせながら担任が教室に戻ってきた。すると、それまで何も気にしないかのように装っていた明るいざわめきが瞬時に止やみ、重苦しい緊張感に包まれた。
担任はぐるりと教室内を見回してからゆっくりと歩みを進め、そして私の席の脇でぴたりと止まった。まるで鬼ごっこだ、と他人事のように思いながら、鬼を避けるように体をくねらせた。
「荷物をまとめて廊下に出るように」
グレーのベスト姿の担任は、静かに、しかしはっきりとそう言った。
私たちの学区には五校ほどの代表的な公立高校があり、成績順に明確な順位があった。私は上位から二番目のN高を志望していた。自分の成績からすると、明らかに高望みだったのだ。だから結果はわかっていた。さほどショックも受けなかった。でも、クラスの誰もが私から目を逸らせていた。その一方で背後から、自らの合格を確信した喜びの波動がにわかに伝わってくるのを感じた。ただ、前の席の「梶井」だけは、ちらりとこちらを振り向き、軽く頷いた。
廊下に出ると、即座の下校を促された。
表向きは、「滑り止め」の私立校への手続きを急がせるための気遣いだが、時間を争うほどに余裕がないわけもない。おそらくは、「不合格者」を帰してから、クラス内で合格祝いでもするのだろう。
日の暮れた通学路は浅い春で、まだとても寒かった。風が吹き抜け、足にまとわりついた制服の裾を引っ張った。学校指定の濃紺のマフラーをぐるぐる巻きにして、そこに顔を埋めた。
『檸檬』を読んだのは、それからずっと後のことだ。
勝ち負けでいえば負けだ。でもその日
「俺は梶井基次郎の『檸檬』」
という文学的で大人びた響きに、救われていた。今頃、教室内で大騒ぎしているであろう生徒たちよりも、勝ち誇れるような気さえしていた。入学した高校では唯一無二の親友に出会えた。勝敗とは別の自分なりの生き方も見つけた。
それでも今でもどこかでN高の名前を目にすると、心の奥がチクリと痛む。そして同時にあの寒かった帰り道を鮮明に思い出す。それはまるで丸善の暗がりで輝く小さな檸檬のように。
【執筆者プロフィール】
柳本あかね(やなぎもと・あかね)◆静岡県出身。東京・飯田橋のカフェバー「茜夜」店主。日本茶インストラクターの資格を生かし、講座やワークショップも開催。『小さな家の暮らし』(エクスナレッジ)など著書多数。標野凪名義で小説家としても活動している。著書に『占い日本茶カフェ「迷い猫」』(PHP文芸文庫)、『今宵も喫茶ドードーのキッチンで。』 (双葉文庫)などがある。
初出:『PHPくらしラク~る♪』2021年10月号