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【読書エッセイ】”生きる”の意味を理解した一冊

暮らしを色鮮やかにし、いまも傍らに寄り添う特別な一冊を紹介いただく本エッセイ。
①森優子さん(旅行エッセイスト)⇒②山口花さん(作家)⇒③上田聡子さん(作家)⇒④柳本あかねさん(グラフィックデザイナー)⇒⑤松原惇子さん(エッセイスト)の豪華リレー形式でお届けいたします。
今回は、森優子さんに、旅先での衝撃的な体験と結びついた一冊について綴っていただきます。

【今回の一冊】『カレーライスを一から作る』

著:前田亜紀
発売:ポプラ社/定価:1,320円(本体:1,200円)
探検家・関野吉晴氏が武蔵野美術大学で行なった課外授業を追ったノンフィクション映画を書籍化した一冊。カレーライスの具材となる野菜や鳥のヒナを育てる過程で、学生たちが葛藤しながら成長していく姿を描く。

生きるとは何かを「一から」考える

 大学時代、東アフリカのタンザニアの沖合に浮かぶザンジバルという島を訪れたことがあった。クローブや黒胡椒の世界的な産地、あるいはあのクイーンのフレディ・マーキュリーの出身地としてご存じの方も多いかもしれない。

 しかし恥ずかしながら、当時の私にはそういった知識はほとんどなかった。目指したきっかけが、かなりいいかげんだったからである。

 そもそもはアメリカ旅行を目標にバイトに励んでいた友人と私は、たまたま話した民俗学の教授から言われたのだ。

「アメリカなんていつでも行ける。アフリカへ行けよ。どうせ一文字しか違わんのだし」

 そのさい「海が綺麗な島がある」と見せられたのがザンジバルの写真だったのだが、それがあまりに画質の悪いモノクロ写真だったため、現地へ確かめに向かったのである(インターネットはまだまだ普及前)。アメリカとアフリカの神様にはとても聞かせられない話だ。

 とはいえ、辿どり着いたそこには実際とんでもない輝きを放つブルーの海が在り、そして能天気な学生は一生ものの衝撃を経験することにもなったのだった。

 ボート屋のアリという青年の「日帰りで天国へ行かない?」という営業トークに乗り、本島の沖の無人島へ渡った時のこと。

「丘の上に一軒だけレストランがあるよ。また夕方に迎えに来るからね。じゃっ」

 アリのボートが岸を離れると、遠浅の白いビーチが続く天国はほぼ貸し切り状態。ひとしきり遊んだ我々は、アリから聞いた丘のレストランを目指した。

 ところが見渡せど、丘には粗末な小屋が一軒あるばかり。恐る恐る中に入ると三畳ほどの土間の真ん中で焚た き火がパチパチ燃えており、眼光の鋭い男が一人ひざを抱えて座っていた。ナタと鉄鍋以外、水道も冷蔵庫も見当たらない。

「あ、あの。ここ、レストラン?」

「そうだ」

「じゃあ、えーと、ランチを二つ……」

 すると男はやおら立ち上がり、Tシャツを脱ぎ捨てて外へ出たかと思うと、目にもとまらぬ速さですぐそこの崖から海へざぱーんと飛び込んだのである。

 二分ほどで浮かんできた男の腕の中では大きな銀色の魚がびちびち跳ねていたが、あれよと言う間にさばかれ焼かれ、日本人らの前にトンと差し出されたのだった。

 一仕事終えた男がやがてむちゃむちゃ食べ始めたのは、カラフルでフレッシュな芋虫である。さっき自生のライムをもぎに出たついでに捕まえたらしい。

 そして目が合うと、男は言ったのだ。

「プロテイーン」

 己の無知と無力を思い知った瞬間である。理屈ではない。アリのボートが迎えに来なければ我々はくたばり、男は何年だって生き続けるに違いないのだ。

 さて、今回挙げた本『カレーライスを一から作る』は、医師で探検家の関野吉晴氏による大学での課外授業、学生たちが九か月かけてスパイス・野菜・米・肉・塩・食器を作り育てて一杯のカレーライスを口にするまでを追った実録だ。

 関野氏と言えば、アフリカ~南米の人類拡散ルート約五万三千キロを人力だけで十年かけて遡さかのぼった旅で知られる人物。アマゾンの原住民と暮らし、海を渡る船は木をくりぬく道具を砂鉄で作るところから始めてしまった、要するに「経験値の塊かたまり」なのだ。

 しかしと言うか、だからこそと言うべきか、関野氏は学生たちの行動に、ほとんど口を出さないのだった。

 何日たってもスーパーの市販品のようには育たない野菜、すっかり懐いた鳥を殺して食べることの葛藤、山のような疑問・発見・やり直し。ではさて、美味しいカレーライスはできたのか?

 参加の動機がたとえ面白半分だったとしても、ともかく、彼らは体と頭をひいひい使って道を拓ひ らき進んだのだ。そしてそれは遠いアマゾンやヒマラヤではない、住み慣れた日本の家や学校や町の中だった。「一から」という、たったひとつのワードから。

 そう言えばあの日の夕方、迎えに来たアリのボートから見た景色は行きとは違ったように思う。彼が操るロープやオールの動き、波を切る舳へ先さき、自分の靴のゴム底の模様さえも。

 いや。違って見えたのではないな。

 おそらく、初めて、見えたのだ。

【執筆者プロフィール】
森優子(もり・ゆうこ)◆大阪生まれ。ガイドブック『地球の歩き方』などの編集ライターを経て1993年独立、イラストも含めた執筆活動をスタート。モットーは「私の旅をしくじってたまるか」。『旅ぢから』(幻冬舎)など著書多数。

初出:『PHPくらしラク~る♪』2021年5月号
※表記はすべて掲載時のものです

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