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【読書エッセイ】猫のためにある一冊

暮らしを色鮮やかにし、いまも傍らに寄り添う特別な一冊を紹介いただく本エッセイ。
①森優子さん(旅行エッセイスト)⇒②山口花さん(作家)⇒③上田聡子さん(作家)⇒④柳本あかねさん(グラフィックデザイナー)⇒⑤松原惇子さん(エッセイスト)の豪華リレー形式でお届けいたします。
今回は、柳本あかねさんに、愛猫との思い出を交えながら、猫が執筆した小説(!?)を紹介していただきます。

【今回の一冊】『猫語の教科書』

著:ポール・ギャリコ著 訳:灰島かり
ちくま文庫/定価:638円(本体:580円)
ある編集者に届いた記号交じりの原稿を、米国人作家のポール・ギャリコが解読したところ、執筆したのは猫だった……という体裁で書かれた小説。愛猫家のあいだで「猫に仕える人間の必読書」とされる一冊。

私たちの猫の話

 「桜」という名は花見の席で付けられたと聞いた。ピンと立った耳が小顔を際立たせ、澄んだ瞳はビー玉のよう。艶やかで真っ黒な毛並みには品があり、お腹のあたりに僅かに白い毛が紛れ込んでいるのも愛らしい。自慢の長い尻尾を眺めながら心底思う。日本の春を彩る花の名が、これ以上似合うものがこの宇宙に存在するだろうか、と。否。即座にそう断言する。少なくとも私は。

 もうおわかりだろう。わが家の飼い猫のことだ。黒猫のメス。特技は耳や尻尾の先までくるりとさせ、真円のごとく丸くなること。夫が独身時代、赴任先から戻る際の餞別として仕事仲間一同から贈られたという。くだんの宴の前日のことだそうだ。やがて私たちは出会い、彼は桜とともに新居に越してきた。彼の猫、が私たちの猫になった。

『猫語の教科書』という本がある。いかにたくみに人間に取り入るかを先輩猫が子猫に教え聞かす、という体裁で書かれた物語だ。そこから垣間見える人間の単純さや愚かさが、おかしみとともに描き出されている。その教科書を、おそらく桜はちゃんと読んでいない。気まぐれで孤高、容易には人に懐かない、という「先輩」が指南する猫のあるべき姿が全く見受けられないからだ。

 桜は夫と私を対等に扱う。夫がリビングにいて、私がキッチンにいたならば、その距離をきっちり測り、そのちょうど真ん中に佇む。もちろん寝る時はふたりの間で丸くなる。夫が撫でたら、私の脇でお腹の白い毛を見せる。甘えん坊で平和主義、と来たものだから、間違って犬のための指南書を読んでしまったのではないか、と勘繰ってしまう。

 極めつけは「声に出さないニャーオ」だ。口を開けて声を出さない。そのはかなげな表情が人間を虜にする、として本書にいくどとなく登場する。にもかかわらず、桜はここぞ、という時に「口を開けないニャーオ」、つまり口を閉じたまま声を出す、という技をドヤ顔で披露するのだ。何か違う。教科書を斜め読みしたのがバレバレだ。やれやれ。やっぱり宇宙一かわいい……(以下自粛)。

 そして私たちの十二回めの結婚記念日の数日後、桜は静かに天寿を全うした。

 前夜は夫と私の傍らを交互に行き来した。翌朝、夫の手から水を飲み、私の膝の上で丸くなってそっと目を閉じた。最後まで甘えん坊で平和主義だった。

 それから二年の歳月がたった。友人宅でオスの子猫が拾われたという。うちで引き取る? と言う夫に、私は首を横に振った。もう二度と猫は飼わない、と決めていた。桜と過ごした思い出だけでこの先も暮らしていきたかったからだ。

 しかし数週間たっても引き取り手が見つからない。夫がいたたまれない表情を見せた。私たち夫婦には子どもがいない。ふたりの「間」を取り持ってくれていた桜がいなくなって、夫は少しだけ無口になり、私は少しだけ笑顔が減っていた。私はそっと桜に声をかけてみる。

「ねえ、子猫ちゃん飼ってもいい?」

 しばらくのち

「どっちでもいい」

 という返事が聞こえた気がした。そうか、どっちでもいいか。私は目を潤ませながら笑った。

 引き取りの前夜、これまでたくさんの猫を飼ってきた友人に話した。

「愛情は半減するんじゃなくて倍増。二倍になるんだよ」

 その言葉に救われた。

 帰り道で見た紫陽花の色から「蒼」と名付けた。持ち上げると重力を感じないほどの軽さなのに、とっても力強い。私たちの生傷は絶えず、それもなんだか嬉しかった。わが家で末永く元気に楽しく暮らしてほしい、そう心から願った。蒼はやんちゃで好奇心旺盛。常に全力投球だ。時折、桜が一緒に子育てしてくれているんじゃないか、と感じることがある。妙なクセがそっくりだったりするし、いそいそとベッドにやってきては夫と私の間で大の字になって寝る。最近では「甘える」を覚えたようで、体ごとすり寄ってくるのが愛おしい。丸くなるのはまだまだ下手くそで、いびつな楕円を描く。蒼は宇宙一いかした猫だ。

 授業中には先生の話も聞かずに、教科書のすみにちびた鉛筆で、見ようによっては味のあるパラパラ漫画をせっせと描いているようなタイプだ。『猫語の教科書』を真面目に読むはずもない。もちろん「声に出さないニャーオ」はやらない。

【執筆者プロフィール】
柳本あかね(やなぎもと・あかね)◆静岡県出身。東京・飯田橋のカフェバー「茜夜」店主。日本茶インストラクターの資格を生かし、講座やワークショップも開催。『小さな家の暮らし』(エクスナレッジ)など著書多数。標野凪名義で小説家としても活動している。著書に『占い日本茶カフェ「迷い猫」』『伝言猫がカフェにいます』(PHP文芸文庫)、『今宵も喫茶ドードーのキッチンで。』 (双葉文庫)などがある。

初出:『PHPくらしラク~る♪』2022年1月号
※表記はすべて掲載時のものです