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佐伯日菜子
2023年10月3日 01:11
ブラームス(1833~1897)の最後のピアノ独奏作品で、彼はこの小品集を「自らの苦悩の子守歌」と呼び、生涯を静かに見つめたものとなっています。第1曲:間奏曲 ロ短調人の間でもがく苦しみを受け入れ、抗わず、孤独を引き受けた穏やかな境地が感じられる作品。集が心をつたうような柔らかな憂いに包まれています。彼は敬愛してやまなかったクララ・シューマンに「あなたがきっと喜んでくださると思い、あなたの
2023年9月16日 22:42
ヨハネス・ブラームス(1833‐97)によって 60 歳頃に完成された作品。創作活動の長年の支えとなった恩人のクララ・シューマンへ贈られている。 ブラームスが最も多く作品を残したのは歌曲だった。この Op.118 には言葉こそないが、やはり様々な歌とドラマがある。第1曲 間奏曲 イ短調 光のような明るい響きの中で、随所に影を落とす短調の響きがにがい。第2曲 間奏曲 イ長調
2023年9月5日 00:55
ワイマール宮廷オルガニスト/楽師長の職を退き、ケーテン宮廷楽長に就任した後の1717年の作品とされる。32歳のバッハは作曲活動も精力的に行ない、多くの曲を書き上げた。深遠で哲学的な精神世界にあるこの曲は5つの部分で構成される。愛いをおびた幻想的な導入。穏やかな悲しみをたたえながら言葉を紡ぐ緩徐部。エネルギーをもった下降のテーマに現実を突きつけられる第1フーガ。束の間の夢を見る、救いの推
2023年8月31日 12:10
エネスク(1881-1955)はルーマニアで生まれたヴァイオリニストで、その腕前は20世紀前半の三大ヴァイオリニストに数えられるほどであった。第二次世界大戦によって祖国が共産圏の支配下 に入ったことでフランスに亡命し、その後戻ることはなかった。 《ピアノ組曲第1番》は弱冠16歳で書かれた最初のピアノ曲で、副題〈古いスタイルで〉のとおり、 バロック時代に栄えた組曲形式と音使いを特徴に持つ。こ
2023年8月26日 21:28
ヤナーチェク(1854-1928)はチェコの作曲家。自国の民族音楽や言葉の抑揚を研究し、語るような旋律語法を築いた。彼はこの作品に次のような言葉を遺した。 ヤナーチェクの故郷チェコは、当時ドイツとの対立が高まっており、教育や一部の会話がドイツ語に制限されていた。そのためチェコ語大学の設立を目指してデモが行なわれたのだが、1905年、 デモ隊はドイツ軍と衝突し、とうとう庶民の若者が命を落
2023年8月20日 22:49
モーリス・ラヴェル(1875-1937)はフランスを代表する作曲家で、こちらは40歳頃の作品である。ラヴェルの時代よりもおよそ200年前、作曲家 F. クープランはフランス鍵盤音楽の礎を築いた。 当時はいくつかの舞曲や小曲を組み合わせて一作品とする「組曲」の形式が栄えており、その古の形式を借りて書き上げられたのが、この『クープランの墓』である。 「墓」という言葉から想像できるように、こ
2023年5月20日 12:51
セザール・フランク(1822-1890)はベルギーで生まれ、フランスで活躍した作曲家・オルガニストである。 この作品は『大オルガンのための6曲集』のうちの一曲で、40歳頃に完成した。それまでの彼の作品は、当時流行した超絶技巧を取り込もうとしたものの、アイデンティティーに欠けると評され ることが多い。しかしこの作品では、過度な装飾は取り払われ、その代わりにフランクの内的で深遠な世界が十分な魅
2023年5月19日 18:59
メトネル(1880-1951)はロシアの作曲家・ピアニストである。ラフマニノフと仲が良く、互いを高く評価し、尊敬し合っていた。 当時ロシアは革命によって社会主義国家となり、作曲家たちは次々に他国へ亡命した。メトネルもその1人で、40歳過ぎにドイツに渡り、その後各地を経てイギリスで成功を収め、そのまま定住した。余談ではあるが「ニコライ・メトネル」という星があり、これは2003年に彼にちな
2023年5月19日 18:47
1725〜31年、J.S.バッハが46歳になる時までおよそ6年にわたって推敲を重ねながら書かれた。 パルティータとは変奏曲の一種であり、舞曲を中心にまとめられた組曲のことを指す。その中で 各小曲は全て同じ調で書かれ、統一感が図られる。 バッハは鍵盤楽器のために6つのパルティータを書いた。それぞれキャラクターは異なるが、その全てに綿密な構成と展開が用意されており、非常に充実した内容を持つ。
2019年4月14日 12:20
第1楽章 Allegro最後のピアノ・ソナタである本作はモーツァルトが亡くなる2年前、33歳のときに書かれた。この頃モーツァルトはより良い境遇を求め、プロイセン王に謁見することを目的としたドイツ旅行に出かけたが、特に収穫は無く、経済的に苦しい生活が続いた。アインシュタインはこの曲を作曲技法の観点からと述べたという。背景には、前述のドイツ旅行の道中でモーツァルトが聖トーマス教会に