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日常で[死の芸術]を発見する(絵画から糞尿人形まで)

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

今日は、私達の音楽や劇のテーマである
メメントモリ芸術
南欧(あるいはラテン圏)の芸術の中で
見つけてみようというお話です。

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メメントモリ芸術というのは

[人間はいつ死ぬかわからないから、
死を考え、今を楽しめ]

というローマの戦士達の哲学に始まり、

[どんなに繁栄した所で
何百年後には全てが廃墟だ。
だからこの世は虚しいのだ]

という美術テーマや、

[死ねば、地位も、蓄えた富も
意味を成さず、
誰もが腐敗した醜い屍になる。
だから生きてる時に敬虔に祈り、欲を抑え、
信仰に身を委ねよ]

というトランジに見られる宗教観まで
様々な場所で形を変え、
南ヨーロッパの中に浸透しています。

その表現も、あからさまに
腐乱死体
を描くものから、
ただ
果物に虫を一匹つけただけのもの
まであって、
それが南欧人、西欧人の精神の中に
溶け込んでいて、
至る所で姿を現すのです
(メメントモリという断り書きもなく、
それらが現れている例も多い)。

勿論、南ヨーロッパに限定された話でもなく、
シェイクスピアの劇の中にも、
ボルダロ・ピニェイロの陶器の中にも、
ケッセルの絵の中にも、
メキシコの[死者の日]の中にも、
ダンテ[神曲]の沼地を転がる肉塊にも、
ブランダンの政治風刺小説の中にも、
ピアソラのタンゴの中にも、
ボードレールの詩の中にも、
メメントモリ思想の欠片を
見つける事が出来る訳です。

例えば、このポルトガル
ボルダロ・ピニェイロ(のブランド)
の作品を見て下さい。

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果物の上に甲虫が這っています。
こういった作品が直接
「メメントモリである」
と指摘される事は無いのですが、
これはメメントモリの中の
ヴァニタス(虚栄)
という美術表現に似ています。

ヴァニタス絵画の世界で、
果物というのは、
我々人間にとっての
自然の恵み
であり、
豊かさ繁栄
の象徴です。

そして、その[豊かさ]の傍に描かれる
髑髏砂時計は、
[死の象徴]であり、
豊かさ、富が永遠ではない
事を暗示する
メッセージがそこにはあります。

この作品には、
髑髏砂時計も見当たりませんが、
代わりに甲虫が果物の上を這っていますね。

昆虫は絵画の中で、時として
影の象徴
であり、
例えば、絵画に描かれる
腐敗の象徴でした
(他にもトンボ[冥界]の象徴であったり、
[死者の魂]の象徴であったりします)。

その流れを考えると、
この甲虫
そういった恵みに付く
[陰り]を表現していると
考える事が出来ます。

人類は歴史の中で、
虫と命がけで闘ってきた過去
があり、
ヨーロッパ圏では
特に虫のイメージ
良い物ではありません。

ロシアでは、
ある種のコガネムシ(甲虫)
農作物を食い荒らす悪の化身
であり、
「甲虫(クズマ)の母親を見せる」
という言葉があります。

この言葉、どうも
「誰かを罰する」「報復で脅かす」
といった意味を持っているらしく、
その由来は諸説ありますが、
クズカというコガネムシ
凶悪な害虫なので、
その母親は
最も邪悪な存在であろう
という意味合いがある様です。

ちなみに、
こうした迷信の中で
クズカと呼ばれるコガネムシは
現実の生物学の学名でいうと
Anisoplia austriacaの事で、
この虫は昆虫法医学
勉強していても出て来る
有名な害虫です。

フランスでも
コフキコガネの仲間Melolontha
中世で裁判にかけられたり、
教会によって
悪魔祓いされたりした話があり、
14世紀アヴィニョンの法廷で
このコガネムシは裁かれ、
期間内に特定の地域に移動する様に
命じられましたが、
虫達は従わなかった為、
集められ焼き殺された、という
珍妙な話が伝えられています。

さて、話を
ボルダロ・ピニェイロに戻すと、
この甲虫はそういう背景で考えると、
果物に傷を付け、
腐敗へ導く[陰り]
を表現している
芸術的象徴である可能性がある・・
という事が考えられます。

ヴァニタス絵画の表現には、
他にも
絵の中に死骸を描く方法もあって、
それは陰りの中でも、
この世の虚しさ
を表現する性質が強いのですが、
例えば、下の
ハーメン・ステーンウィックや、
ケッセルの絵など、
フランドル絵画によく描かれる
魚の死骸の絵などは、
そういった
[この世の虚しさ]
を描いた例だと思われます。

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死骸
[日常の中にある死]
を意識させ、
この世の虚栄(VANITAS)を連想させます。

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さてさて、そういう視点で見ると、
このフランスの
ベルナール・パリッシーの皿や、

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イタリア陶器の
フルーツの山の中に
カタツムリが這っていたりする
作品も
メメントモリ(特にヴァニタス)精神と
無縁ではない
と思えて来ませんか?

また、こう考える事も出来ます。

こうした
トカゲ
(不快、有害な生物として、
まとめてスペイン圏で
sabandija
などと呼ばれる事もある)
などの生き物は、
決して華やか
とされる生命ではありません。

どちらかというと、
忌むべき隠されるべき
とされる嫌われ者達ですね。

人間社会の公の場で
隠されるべき存在
を、
こうした芸術で
あえて全面に描くという行為
には、
人間社会の規定とは別の、
この世の真実の姿
(ありのままの姿)を見つめなさい

という意味も含まれている
可能性があります。

人間社会がタブーとして隠した面を、
あえて直視させる事で、
社会の価値感から解放され、
哲学的にこの世を見つめさせ様とする
メッセージがそこにはあるのです。

そこでスペイン
カガネル人形
を見てみましょう。

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カガネルとは
の事で、
カガネル人形
人間が糞便をする姿をした人形
です。

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カガネル人形が生まれた意味は、
不明とされていて、

「沢山の食物と豊穣を祝う
意味があるのではないか?」

とも言われていますが、
そもそも
糞便の表現
には、
華やかな人間社会が
日常の中で隠している
人間の本当の姿を描く
という意味があります。

それはブラックユーモア流儀な
権威(威厳)の否定
とも考える事が
出来るのではないでしょうか?

フランスでも、
糞尿(Merde)
は、
芸術の中で
特殊な意味を持っていますが、

[人間は気取った所で
所詮、嫌悪している
糞尿から逃れる事は出来ない]

[誰でも糞をする生物ではないか]

というメルドの哲学は、
メメントモリ

[死ねば、聖者も泥棒も同じ骨である]

と共通した皮肉を持つ
テーマであると言えます。

さてさて、
メメントモリ芸術
の色々な面を
書いてみましたが、
こうした
メメントモリ哲学
オペラにしているのが
「墓の魚」で演奏される
私の作品です。

作曲家界隈だろうと、
オーケストラ界隈だろうと、
ファド界隈だろうと、
そんな不吉なものを作ってる奴なので、
人に説明すると
多々誤解をされたりして
「ゴシック・ロックとか、
悪魔好きな奴なのではないか?」
と思われたりするのですが(笑)
ヨーロッパにおける
死の美術
というのは、
相当に哲学的で、
かつユーモアを含んだ
文学的で、日常的なものであるのです。

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そういう
メメントモリ視点で考えてみると、
フランス詩も、
フランドル絵画も、
フラメンコのカンテ(歌)も、
深い共通点のある
西洋ラテン思想で作られてるという事が
見えてくるのではないでしょうか??

華やかな世界から隠され、封印された
土壌の虫の歌う哲学。

ラテン世界や、南欧世界に広がる
この死の思想を追求して、
ぜひ「墓の魚」の作品や、
それだけでなく、古典芸術
深く楽しんでいただければと願います。

それでは、今回はこの辺で~。




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メメントモリ曲の融合した
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