「蛆虫の作曲家」による墓地の抒情のオペラ
こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。
あんまりにも
蛆虫の絵や、詩や、オペラばかり作曲していたので、
前に「蛆虫の作曲家」と、ある方に呼ばれまして、
それがあまりにも気に入ったので、
公式でも名乗る事にしています(笑)
でもね、蛆虫って、
古典を中心に、南ヨーロッパやラテンの芸術では
文学的に(ある意味、雅に?)使用される秀逸な
芸術の表現題材なんです。
シェイクスピアも、ボードレールも、
ヴィヨンも、フラメンコの歌詞も、
皆、詩の中に蛆虫を登場させています。
死んで10年たったのち、
うじ虫どもにくいつくされたら、
俺の骨にはこう書いてあろう。
「お前をほんとに好きだった」と。
Diez años depués de muerto
y de gusanos comío,
letreos tendrán mis güesos
diciendo que te he querío
[フラメンコの歌詞より]
そこにはどんな効果があるのでしょうか?
蛆虫の暗示する意味、それは死です。
さらに言うと、人間の屍が(あるいは動物の亡骸が)
蛆虫に喰われるシーン。
それは
[どんなに優雅な人生も、その者の若さも、
いずれは死を迎え、
土の中で蛆虫に喰われる・・・]
というこの世の残酷な摂理を
表現しているとも考えれられますね。
いや、それを残酷と考える人もいるかもしれませんが、
どんな人間も・・例えば聖者も、泥棒も、
死んでしまえば同じ末路で、全く違いはない。
それは人間に勲章、前科をつけ、
優劣の価値観を生み出す人間社会への
究極の皮肉ともなっているわけです。
(蛆虫によって平等に裁かれる=優劣の人間社会の否定)
あの頭蓋骨にも舌があって、かつては歌う事もできたろうに。(中略)
ところが今じゃ、愛しの蛆虫夫人にとっつかまって、顎を失い、
墓堀り男にスコップで小突き回されている。
Ham. That Scull had a tongue in it, and could sing
once: how the knaue iowles it to th' grownd, as if it
were Caines Iaw-bone, that did the first murther: It
might be the Pate of a Polititian which this Asse o're Of-
fices: one that could circumuent God, might it not?
Hor. It might, my Lord.
Ham. Or of a Courtier, which could say, Good Mor-
row sweet Lord: how dost thou, good Lord? this
might be my Lord such a one, that prais'd my Lord such
a ones Horse, when he meant to begge it; might it not?
Hor. I, my Lord.
Ham. Why ee'n so: and now my Lady Wormes,
Chaplesse, and knockt about the Mazard with a Sextons
Spade; heere's fine Reuolution, if wee had the tricke to
see't. Did these bones cost no more the breeding, but
to play at Loggets with 'em? mine ake to thinke
on't.
[シェイクスピア ハムレット より]
もう一つ言うと、キリスト教の価値観では、
[どんなに偉業を成し遂げようと、
善行を積もうと、
人間は皆、罪人なのだ]
という考え方があり、
「だから偉大な聖者として
多くの人々から称えられたとしても、
だからといって泥棒や詐欺師を
見下して驕っている者は愚かだ。
人は皆、罪を持っているのだから。」
という思想があります。
人が最後、蛆達に喰われる姿は、勲章の無意味さ、
所詮、我々はこの程度のものなのだ、
という教訓の象徴の様な姿でもあるわけです。
また、その現象があるいは、
その者の
[生前の罪の清算]
と見る考え方もあります。
トランジと呼ばれる
人間の腐乱死体を描いた彫刻が、
十四世紀にフランスで流行しましたが、
そこで描かれる蛆虫は、
その人間の
[犯した罪への後悔]
の寓意であると言われています。
腐敗は罪の証であり、
蛆虫はその後悔の証なのですね。
怪奇作品で
ゾンビなどに集る蛆虫は不気味なものですが、
人はその不気味さの奥に
哀れみ、惨めさを感じます。
なぜなら、
自分もいつかはあの姿になる
と、人は人間の死の姿から連想するからです。
我々が普段、見て見ないふりをしているこの世の真実。
死そのものがゾンビなわけです。
ゾンビというものは、その見たくもない
死そのものが襲ってくる・・・
という寓意的であり、皮肉な存在です。
だからライオンが襲ってくる映画よりも、
人は恐怖と嫌悪感を示すのでしょうね(笑)
さてさて、そんなわけで、
つまり「蛆虫の作曲家」の蛆虫とは、
非常に重要な文学的、芸術的題材なのです。
「蛆虫の作曲家」が作る
オペラ楽団「墓の魚」の作品。
それはかつて
シェイクスピアや、
ティルソ・デ・モレナが作っていた様な
究極の社会風刺の道化芝居の再来かもしれません。
「この世に降り注ぐ、
死んだ魚の腐汁の様な雨に打たれ、
冷えた頭で土の蟯虫を眺めているのは、
何も男共だけではない。
そもそも花は花でも、
カルドの花は
全くそういった目的に相応しいものじゃあない。
あの巨大で愚鈍で醜悪な花は
全く春の駆け引きに相応しいものじゃああるまい。
そう。それはまるで私の様な花だ!!
花である事を神にすら強要されて、
あの姿を保ってはいるが、その本性は、
醜いこの世を構成する物質で作られているに過ぎない。
この世は腐肉だ。
悪臭を放つ蛆虫共に喰い尽くされる
無数の屍でこの世は作られている。
ならば男もそうだし、女もそうだろう。
諸君、大地とは壮大なる大便なのだ。
私が知りたいのは信仰ではない。
ああ、神よ!! 」
[黒実音子の戯曲「エル・カルド」より]
黒実音子と、その楽団
「墓の魚 PEZ DE TUMBA」が作り出す
淡々とスペインの墓地で話される対話劇と、
その哀れな街灯の下で映し出される
この世の風刺の世界。
ぜひ、一度、
聴きに来ていただけましたら嬉しいです♪
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