聖書とファドの物語「クーフス・ポリタラミアの和声」という詩の解説
聖書にも登場する災厄のイナゴは、
ブルーコン、アッタケーン
([レビ記]では、アルベ、サルアム、ハルゴル、ハガブ)
などの名前で聖書に記されています。
乾燥した荒野に生息する聖書のイナゴは、
勿論、日本のイナゴとは別種であり、
サバクトビバッタなどではないか?
と言われていますね。
当時の人々にとって蝗害とは、
食物を荒し、住居の平安を脅かす
[死に直結するもの]として
恐れられていました。
こうした
乾いた荒野に生息する[災厄の痛み]は、
そのまま現代人の
[地上の苦しみ]へ意訳され、
表現は引き継がれていく訳です。
「墓の魚」の新作の詩
「クーフス・ポリタラミアの和声」
は、聖書とファドを題材にしたものです。
聖書の紀元前の話と、
ファドという
20世紀初頭のポルトガルの物語が
同時に語られるのは不思議かもしれませんが、
聖書の生きるポルトガルの地で、
[痛み]を歌っていくファドは、
まさに旧約の物語を内包した
人々の歌であると私は感じます。
何しろ、
中世が息をしている・・と言われる
ポルトガルの町ですから。
聖書の災厄の痛み、
近代ポルトガルの
[血の夜](Noite Sangrenta)などの
思想と政治の痛み、
歴史を通した南欧の貧困の痛み・・
その横で[神の和声]は、
淡々と整列した秩序を描いていく。
そして、誰もが敗退者となる
死の和音へ。
人間の政治革命や、
思想に敗れた貧者達の痛み
の表現に対して、
音楽は、和声学によって
冷酷にも見える神の旋律を描き続けます。
この作品の中で
音楽とは、世界の調和であり、
死をも内包した秩序の象徴なのです。
つまり、
この詩の中では、
ファドとは、神が語らせている音楽である・・
という意味を含んでいます
(同時に文学性の欠如した
近年のクラシック界隈への皮肉や、
和声学へのユーモアも
込められているのですが)
[出エジプト記]で、神に導かれ、
ピ・ハヒロトの地を目指した
イスラエルの子ら。
しかし、誰もが
神に導かれる恩恵を得れる訳ではないこの地上では、
ピ・ハヒロトの地を見つけられず、
彷徨い続ける者達の方が多い訳です。
そういう楽園を探し求める迷子達・・
すなわち
病人、貧民(ピトッキ)、政治思想家、哲学者達
は、
ファドの酒場(カーサ・デ・ファド)に集い、
世界の帳尻合わせの設計図である音楽に
救いを求める。
それは、置いていかれた
神の栄光の残滓(断片)だから。
人間である以上、聖人にはなれず、
誰もが
革命や、戦争や、迫害の
共犯者であるのだから、
せめて償う者として、
心臓を動かす者(音楽家)として、
敵の墓にすら曲を捧げるべきであろう・・・
そういうテーマがこの詩では
語られています。
[痛みについて歌う]という意味では、
聖書もファドも
同じものを見ていると私は思うんですよね。
我々は、もっと地上における
[痛み]について考えるべきだと思います・・。
「クーフス・ポリタラミアの和声」
黒実 音子
◇
ああ、尖度として突如現れ、
呆気なく消えてゆく疫病(エピデミカ)の様な、
[地表の痛み]を
我らの背骨が覚えている。
ユダは何者を裏切ったのか?
何を恐れていた?
魚屋の台の上の死に聞いてみるといい。
ナザレの濁った目の死魚に。
ああ、私は
血走った眼球の、
唸る野良犬の唾液に
悪霊の笑いを見た。
獣自身、己を諫められぬのなら、
それは、災厄に憑かれた
悲しい地表の痛みと何が違う?
------------【伴奏】------------
[ここでギターラが
Ⅰの所在主張の後、
Ⅱの和音を悲し気に響かせる。
ああ、
第七音の予備!!
それは、沼地の泥を
舞い上がらせない為の
静かな借用と、
墓地(トモロ)の様な静寂]
------------------------
人影をした砂嵐の幻影の様に、
イナゴの群れが
死んでは土に還る事を・・
肉(カーニ)とは、この地上に生えた
蜃気楼である事を・・
本当は肉体労働者(ガニヤン)達の
誰もが知っている。
それでも、約束の時を待ち望み、
人混みの中にキリストを探す者を
誰が責められるだろう・・
ファドは、
ピ・ハヒロトの地を見つけられず、
行き場を失った者達の詩を今日も歌う。
あるいは地表で、
腫瘍と関節炎に苦しむ者達の歌を。
------------【伴奏】------------
[見苦しいピアノによる連続8度の進行・・
連続8度は禁じ手だが、
ゲネサレの荒野で死んだ動物の
腐った臓物と、
不機嫌な犬蠅を表現する時にだけは
適切である]
------------------------
ああ、糞便汚染により増殖した
腸球菌(エンテロコッカス)のワインで乾杯しながら、
貧民は今日も
ムエルト氏と時間氏のチェスに翻弄される。
遠方の死者の悲鳴が、
砂漠の犬の遠吠えが、
開離配分の和声の様に
無様に響くこの地上で、
ファドが何をすべきか
私は知っている。
奏でるのだ!!
今!!
それが何の意味も成さない儀式だとしても!!
それは二度と帰らぬ船に
乗り込む者達に必要なのだから。
教会の鐘の音の様な
ただ、死んだ時間を見送る葬送の音を
ギターラだけが奏でる事が出来る。
大理石上の
白い白骨の様なリュートを弾き、
灰の水曜日に死を演じる悲惨な道化(ピトッキ)の
悍ましい対斜の音楽を
我々は聴こえないフリをしながら、
口ずさむ。
それが生きる者の苦しみであり、
彼らの音楽は、
不定でなければ意味を成さないのだ。
本当に純粋な音は
今となっては聴こえないから。
------------【伴奏】------------
[ヴィオラ・トイラによる不協和音]
平達五度までを禁じられ、
ストレス過多となった学生が咆哮し、
嘔吐しながら、
客席の方に倒れ掛かる。
混沌としたリスボンの朝の光景。
ああ、墓地墓地墓地・・
墓地で栓を開けられたワイン
そのラベルには
[NOITE SANGRENTA]と記されている。
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地上に生まれた事を祝福しながら、
それでも、人間など
[神の死体に群がる異常に過ぎない]
という恥辱と、
心臓を銃弾で貫かれる屈辱を
ああ、私達は生まれた時から感じている。
煙突貝(クーフス・ポリタラミア)を発見した漁師達の様な
神の醜い心臓を見た者の
畏れと背徳感をファドは歌う。
それを誰にも悟られずに。
(漁師なら!!
漁師ならそれが出来るのだ。
海で見たものを彼らは
本当の意味では
誰にも語らないから・・)
------------【伴奏】------------
[再びギターラによるⅡの和音の贖罪。
ヨセフの骨という
息苦しさを感じる和音との連結。
人生という調から、やがて死者の調へと
悲しい離脱和音を鳴らし続ける。
やがて、豪勢な棺桶に連結!!
ギタリストは夜の内に
帰り支度をする]
ⅣからⅠに振り下ろされる教会終止。
アーメン・・
------------------------
さぁ、
クーフス・ポリタラミアの和声を
奏でようよ!!
ああ、あらゆるものは去り、
そして、これからも去る。
それを誤魔化す為に
蝦の死骸にテルミドールなどという
気取った名前をつけ、
不気味な車(カミオネッチ・ファンタズマ)は
血と銃声を響かせる。
退陣する事すら出来ずに
悲惨な道化(ピトッキ)は笑い、
ああ、それでもファディスタではあるならば
涙を流す事なく喪に服し、
敗退していく全ての者の墓地に
古びた楽譜を捧げるべきだ。
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