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バウンダリー

1

等しく窮屈そうに並んだロッカーは、扉を閉めるだけで周囲に振動が伝わるせいか、やけに閉口音が響いて聞こえた。いつもと同じくらいの力で閉めたと思っていたが、力が入り乱暴に扱ってしまっていたのかもしれないと思いながら、文は更衣室を出た。
裏口から出るとひんやりとした空気に全身が縮こまる。幾度となくこんな夜を過ごして来たが、今晩はどこか先の見えない暗闇のトンネルに引きずられそうになる。これまでにこんな夜があっただろうか。文は覚えていない。

2

映は学生の時から名前負けしないくらいの明るさと、多少の雑さを兼ね備えたいわゆる世渡り上手な奴だった。試験前になればどこからともなく過去問を手に入れ、効率よく試験をパスできるように勉強し、誰とでもそれなりにうまくやっていくことができる奴だった。そんな奴とどうして文と交わり、今でも付き合いがあるのか本当に不思議なのだが、きっかけになった出来事だけは覚えている。
医学部の講義は他学部の講義と異なり、ほとんどが必修科目である。それは国家資格というものが先に見えているからであり、単位を一つでも落とすことはすなわち落第を意味する。そのため、医学部生は何が何でも、その学年で取るべき単位を全て取る必要がある。もう一つ、医学部の特徴として親族に医療者が多いというのもある。代々医者の家系はザラで、稀に医学部を経験するのは自分だけというものもいるが、大概は医者ではなくとも、医療にかかわる親族がいるという学生が多い。文もその一人だった。文の場合は母親が看護師だった。幼い頃から鍵っ子で、母親が夜勤の日は父と過ごすか、従姉妹の家に預けられた。文自身、母の影響で医学の道に進んだというよりも、それなりに勉強が好きで、その中でも数学が特に好きだった。将来、数学者になることも考えたが、祖父母や両親から「文はお医者さんに向いてるよ」と、どうしてか昔から言われることが多く、国家資格であるということもあって、知らず知らずのうちに医学部に進学していた。

一方、映は違った。映の親族に医療者はおらず、望んで医学部に進んだ医学部の中ではマイノリティな方だった。そのせいか、医学に対する思いは強く、特に救急医療に興味をもっているようだった。
入学してまもなく、卒業論文を書くにあたり、アンケートに答えてほしいと上級生が講義終わりに来たことがあった。内容は今後の進路についてというもので、さまざまな医学領域の中から興味があるもの、興味をもった理由など、進路に関する問いが数問書かれたアンケートであった。文はまだ入学したばかりで、特に興味のある領域などなかった。そのため、聞いたことのある領域を適当に丸をつけ、理由を記入する括弧の中には、母がその領域で働いていたからと記入した。理由を記入しながらちらっと隣に座っていた学生のアンケート用紙を覗いた。その学生は救急医療に大きく丸をつけていた。理由は多くの…という単語しか見えなかったが、きっと多くの命を救うことができるからとかいたのだろうと予測できた。その時、文はこの時期にすでに興味のある領域があって意識が高い奴なんだなと思いつつも、いや、もしかしたら自分と同じように適当に聞いたことのあるものに丸をつけただけかもしれない、という自分と同じ位置にいる奴であるという期待も含みながらみていた。
しかし、その期待は文の一方通行な思い込みだったことを知ることになるのが、映との出会いであり、その出来事というものだった。

二回生になったころ、文が所属していた軟式野球サークルの先輩で、周囲からはいっちーさんと呼ばれる本名市原さんから「これ、文、興味ない?」という文面とともに、画像が送られてきた。『救急医療の魅力を知ろう!命を救うということ』チラシの画像には、医師が手術をしている様子、医師や看護師が救急隊員とともに、患者の処置をしている様子などの画像が貼り付けられていた。正直、救急医療といわれても、さほど興味は湧かなかった。救急医療に触れる経験は母親が働いていたというだけで、自分自身が何か経験したことがあるわけではなかったし、自分にはあまり緊急性の求められる仕事は向いていないと思っていた。しかし、講義やサークル、バイト以外に文が時間を費やしているものがないことは、すでにバレてしまっているいっちーさんの誘いを断る理由は思いつかなかった。文は一応、何もないことが分かっているも講義スケジュールを確認し、「講義もバイトもないんで参加できます!!」と返信した。

「文、今回はさんきゅ、助かった」当日、チラシに記載された講義室B-1に入ると、いっちーさんが声をかけてきた。「全然いいですよ。でも、俺、救急のこととか分かんないですけど大丈夫ですかね?」「大丈夫大丈夫。というか、そういう人向けのやつ。俺も研究室に入るまで知らないことばっかりだったし。あと…」いっちーさんは少し声のボリュームを下げて、「教授が勝手に企画にする方向にもっていったようなものだから、人がそれなりに集まって、企画を実施したという実績さえ作れたらいいような感じ。正直、文には悪いなと思ったんだけど。適当に楽な感じで参加してくれたらいいから。その礼というのもなんだけど、この後、ご飯行こうや」「なるほどです。ごはん、いいんですか!ご馳走様です」なんとなくそういうことだろうなと予想をしていたため、本当にそうであったことで文の肩に乗っていた変な緊張感はほぐれた。文は入り口近く席に座った。スクリーンにはチラシで見たタイトルがデカデカと書かれたスライドが映し出されていた。そしてその近くに見たことのある顔を見つけた。文はそれがこの間、たまたま隣の席で講義を受けた人だと気がついた。マジで興味のある奴だったのか。そんなこと思っていたら、イベント開始を伝える声が聞こえた。

内容は期待とは裏腹にかなり興味をもつものであった。実際の救急現場での医療スタッフの動きを映した動画は想像以上に心動かされるものだった。特に最後、実際に急を要する現場かつ救命は難しいとされた状態の患者を、後遺症残すことなく回復させることが出来た経験のある医師の話には、思わず前傾姿勢になって聞き込んでしまった。
全てのコンテンツが終了し、企画が閉会するころには文の心の中に“救える命を救う”という領域への興味が大きく膨れ上がっていた。それまで何となくやわらかいからという理由で踏んでいた地を固めるには、十分な乾燥剤を撒かれたような気分であった。心拍数の高まりが、自身を宙に浮かせるためのエンジンになっているのではないかと感じるくらい、高揚した浮遊感を抱きながら席を立つと、自身の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「文、映と同期だよな?」声の主には聞き覚えがあったが、映という名前には聞き覚えがなかった。振り向くとそこにはいっちーさんと見覚えのある顔があった。「俺の高校の後輩で、こいつはバリバリ救急に興味があるやつね。で」いっちー先輩はそこまでいうと文を指し、「こいつは文、俺のサークルの後輩で人数集めに付き合ってもらった奴ね。てか、俺の説明いらない説あった?」いっちーさんが少し伺うような表情を見せる。「いや、あ、でも講義の席で隣になったことあった気が…名前までは…でも、顔は…」少し申し訳なさそうに文は映に向かって伺うような視線を向ける。「隣の席になったことありますよ。こっちも名前までは分かんなかったんで、申し訳ない」同期と分かっていても何故か最初は敬語になってしまう。「俺は浜野映。映は映画の映。いっちーさんは高校の時からお世話になってて、というか今でも試験前にはいっちーさんから過去問をもらってる仲。マジ、あの過去問なかったら本当に試験無理ゲーなんで…」そこまで言うと、映は両手を合わせて祈るようにいっちーさん何度もぺこぺこしながら「これからもたのんます」とふざけた礼をした。「お前、過去問のお返し何もないけど、どうなっとんじゃ」いっちーさんがふざけて返した。
明るく、元気な、目の前にある光が反射した湖を見て、綺麗だと素直に言えてしまう奴だと文はその時思った。
これが映との出会いだった。

3

暗転することを知らないステージに閉じ込められたような暗さが一体を占めている。それはまるで、どんなに陽となるスポットライトが差しても、明瞭な明るさを体感することが出来ないようだ。
初めてこの場所で冬を迎えた時、本当の冬というものを知った。もう七、八年も前になる。最初こそ、朝、カーテンを開けると一体に広がる雪景色に心動かされたが、数年も経てばそんな興奮は冷めきって、布団の中に残るわずかな暖気で冷気を断ち切ろうと無意味な努力をするようになった。文は星のみえない不気味な灰色の空に飲み込まれてしまわないように、なんとか身体だけは自分の元にあれるよう意識をしながら歩いた。刺さるような冷気が身体だけではなく、心の存在すらも消し去ろうとしているように感じる。地に足だけはつけておかねば。それだけを考え、文はコンビニに向かった。コンビニから漏れる光は不自然に明暗の境界線を引く。なぜかそのことが文を安心させた。
店内の明るさに自らを適応させるように、用もなく雑誌の前を通ってから惣菜が並べられる陳列棚に向かった。店内には文以外の客はいないようで、店員も奥の方に行ってしまっているのか、見当たらない。時間が遅いことも関係しているのだろうが、これでは万引きにあっても文句はいえない。スマホをみる。二十三時半。昨日よりも少し三十分遅くなった。家に帰るのはおそらく零時ごろになるだろうと、いつものことのように計算をした。陳列棚にはほとんど食品は並んでおらず、あるのは賞味期限が長いカップスープ、冷凍物で、お惣菜はレトルトパックに入った肉じゃがやハンバーグ、気持ち程度にソースが絡んだパスタくらいである。ここのコンビニは割と遅くまで多くの惣菜を置いてくれている印象があったが、さすがにこの時間になると品数が減るものなのだと知った。大して役に立たない知識であったが、そんな些細などうでも良さが、今の文には必要なものであることは確かだった。
文がレトルトパックのハンバーグに手を伸ばした時、店の扉が開く音がした。静寂であることに慣れてしまっていたせいか一瞬、ビクッと身体が動いた。足音が次第に近づいてきた。文は伸ばしていたハンバーグのパックを取り、その下にあったパスタコーナーにあるパスタをソース名を見ることなく、手に取った。足音はこちらに近づいて来ている。そして、隣に人の重みを感じた。ちらっと横目で見た。そして、文はちらっとでも見てしまったことを後悔した。ちらっと見るだけでは見足りないほどの刺激的な風貌だった。フード付きの上下スウェットにメガネをかけているようで、その淵は透明だった。そして最も文の目を引いたのが真っピンクに染められた髪色だった。ショートよりは長いけれど、ロングというほどではない。肩にかかるくらいの髪全てがピンクだった。その女性はこちらを気にも止めず、飲み物の棚を眺めている。ポケットに突っ込まれた手は微動だにしない。文以上にこの時間に、場所にいることが似つかわしいと勝手に感じてしまった。文はこちらも微動だにせずいなければ、どこか負けてしまうと思い、何事もなかったかのようにその場から離れようと足を動かした。気持ち、すり足で。きっと奇異な目で見られ慣れているであろう彼女にとって、文の目線など何とも思わないだろう。そもそも勝てるはずもないと分かっていつつも、というか、何に対する勝ち負けなのかも分からないが、勝てない戦には挑みたくないという変なプライドの存在を文は抱きながら、意味もなく、スイーツのほとんど乗っていないスイーツ棚に目を向けた。そこにはロールケーキが一つだけ残っていた。市販品ではなく、そのコンビニ独自のもので、特別な装飾はなく、生クリームとスポンジ生地のみで作られたシンプルなものだった。文は普段からあまり甘いものを食べる方ではないため、スイーツに手を出すことは全くといっていいほどなかった。しかし、このロールケーキはこの後、恐らくあの彼女が購入しなければ、零時にはロールケーキではなく、ただの廃棄物として処理されてしまう。そのことに文は物悲しさを感じ、パスタの上にそのロールケーキを乗せ、そのままレジへと向かった。
案の定、レジには店員はおらず、ベルのようなものもなかったため、仕方なく、「すみません」と店内のみに聞こえるくらいの声量で呼んだ。すると奥の方から五十代くらいの男性が顔を覗かせた。高血圧、脂質異常症、糖尿病、体型からその人が今現在、もしくは今後なるであろう病名を思い起こしてしまう。やる気は感じられないが、箸や手拭きシートをきちんとつけてくれ、袋の必要性も尋ねることなく、勝手に袋詰めしてくれた。もちろん有料ではあったが。
文は店を出た。ふと後ろを振り返った。理由はなかった。あるとすれば好奇心だろうが、そんな名のつくような深さのあるものではなく、もっと浅瀬にある興味だった。視線の先には先ほどまで文がいたスイーツ棚のあたりにピンク色の髪色が見えた。

4

ロッカーから出ると、文の耳にはしんとした静寂が聞こえてくるのに、なぜか騒々しい空気を無理矢理吸いこんでしまったように感じた。今日は何台の救急車が入ってくるのだろうか。そんなことを考えながら、ICUへと向かった。
夜勤をしていた医療スタッフの顔をみると昨晩、数台は運び込まれたのだろうなと予測できるくらい顔に疲労が写し出されている。文は空いているパソコンの席に座り、電子カルテを開いた。昨日、最後に見た時には空床になっていたベッド位置に患者名が記載されていた。山平真。クリックし、これまでの経過をみる。昨晩、急に息苦しさを感じ、跪いていたところを家族が発見。すぐに救急搬送された。血液検査やCT所見から心筋梗塞の診断あり、と記載があった。文は検査データを開く。まだ臨床に入って数年ではあるが、心筋梗塞の検査データは幾度となくみてきたため、大方どの程度の重症度なのかわかるようになった。そのため、この患者がかなりの重症であることがカルテ上からだけでも分かった。年齢はいくつだろうか。家族に発見されたということはキーパーソンは家族の誰になるのだろうか。文は自身が主治医になるかも分からない患者のデータを見続けていた。「おい、文」自身の名前が呼ばれたことに気づいたのは、その声からだけでなく、独特の体温を感じたからだ。「矢吹さんから俺と文、昨日、急患で入ってきた患者のオペ、補助で入ってくれって言われたんだけど。かなり重症だから…」とそこまでいうと映は文は開いていたカルテを覗き込んだ。「おっ、早い。経過、読んだか?データ、かなりやばい状態だっただろ」それまで文が使っていたカーソルの上には映のゴツい手が乗っていた。「うん。まだ本人に会ってないから何とも言えないけど。しかもそんなに歳じゃない」文はこの男性がまだ五十代であることがやや気掛かりだった。自然の成り行きとはならない死が嫌でもちらつく。「こんなこというのも不謹慎だと思うけど、矢吹さんのスキル、生でみられるってちょっとラッキーって俺は思ったんだよ。腕はピカイチって噂だし。多分、大丈夫でしょ」

やっぱり映は変わらない。救えない命はない。救われるために命がある。そうとまで思っている映にとって、死とはどんなものだろうか。文だって最初は命を救うために、救えるような医者になりたいと思って救急医になった。しかし、片手で足りるくらいの経験年数でも、救えない命があることを知った。いや、生々しく、体感させられた。当たり前のことだ。人だって、生き物なのだから。いつかは誰にでも訪れる死の長短にかかわるとは、そういう経験をするということだ。そう頭で分かってはいても、その時に立ち会うと、全身がゾクゾクとしてしまう。なんとなく、“今日、危ないかもしれない”という予測が嫌でも当たってしまうことが増え、そのせいでいつもどこかで過度な緊張が、全身に張り巡らされた糸同士を引っ張り合うようになった。その頃からだろうか。映のいつも全力で前向きなその姿勢に、どこか不安を覚えるようになった。映が思っていることなのだから、文が不安を自身が抱く必要などないことは百も承知だ。しかし、文はどこかそわそわしてしまう。生の中にいる間は船でも浮き輪でもなんでも差し出し、その海の中で生きていられるように差し伸す手を、ひとつ境界線を越え、死の海に流れた時、まるでスーパーで割引シールを貼られた刺身を手に取るかのように扱うのではないか。生きている魚と刺身にされた魚。その違いは何であろうか。そこまで考えて、文はその堂々巡りになる思考を無理矢理押さえつける。あくまで個人の考えだ。他人に強要することは出来ない。
ましてや映になどもってのほか。

映の胸ポケットに入ったピッチが鳴る。やり取りから矢吹さんからだと分かる。隣では看護師に朝礼が始まっていた。文は要らぬことは考えぬよう、思考に燃やされるエネルギーを、そのあとの体力と気力が底つかないためのエネルギーに変えられるよう深呼吸をする。映の目線が「移動するぞ」と訴えた。文はそのあとを追った。

5

深い時間になればなるだけ、アウターの隙間を通り抜け、身体の深部の方まで冷やしていく。文は数秒前までいた店内の明かりが急に恋しくなった。変化しないものに身を委ね、安住したいと思ってしまう。
「あの」後ろから突然、声をかけられ、はっとして後ろを振り向いた。「そのロールケーキ、これと変えてほしいです」髪色とハスキーな声色との意外性のなさが彼女への空虚な信頼度を無駄に高めた。彼女は大きなチョコレートクッキーを文の方に差し出していた。「さっき、あの店員に聞いたら、前のお客さんが買っていったのが最後だって言うから。それとこれ交換してくんないかなと思って。別に無理なら無理でいいんで。ほか探すから」彼女はやや早口に、クッキーに目を向けたままそう言った。文は状況理解を諦め、というか諦めるも何も、目に前の状況をどうにかしたいという欲すらも沸かなかった。別にとびきり欲しくて買ったものではなく、憐れみで買ったものだ。「別にいいですけど…」自然な流れで手に下げていた袋からロールケーキを取り出そうとしたその時、スマホのバイブ音がした。瞬間的にポケットに手を入れ、耳に当てる。何かがパッと落ちたような気がしたが無視した。しかしそのバイブ音は電話ではなく、メールの着信音だということに気がついた。仕事の癖が抜けない自分に嫌気がさした。改めてスマホの画面を見た。「医者なの?仕事」彼女は職員カードの入った名札ケースを拾うとそう尋ねた。文はすみません、というように軽く頭を下げた。「はい、そこの」と病院がある方を指す。彼女はじっと何かを思い留めるように、そして僅かに切ない表情で眺め、汚れを振り払うように叩いてから文に返した。「救急車めっちゃ入るでしょ」「まあ、この辺りだとうちが一番でかいんで」そう言いながら文は手にしている袋からロールケーキを出し、彼女に渡した。そして、彼女から大きなクッキーを手渡される。その手の指にはラメ入りにネイルが施されていた。「じゃあ、これ…」で、と立ち去ろうとした時、グーとお腹が鳴る音が鼓膜を振動させた。そしてそれは文の鼓膜だけではなく、彼女の鼓膜にも響いたようだった。そういえば今日は朝からほとんど何も食べずに、いや食べられずにいたことを思い出した。「食べたら、クッキーくらい。ここ人通りほとんどないし、別に店員も何も言ってこないから」彼女はそういうと自身の紙袋の中から缶コーヒーを取り出しカチッと開けた。文は迷わずクッキーの袋を開けた。もう思考するだけのエネルギーが枯渇した人間は、その他の生物と同等に、目の前の欲求を満たすためだけの行動を無意識的に行うようになるのだと感じる。

彼女は車止めに座り、ぼーっと国道をみている。時折、ロールケーキを見つめながら。文は人一人くらいは座れるくらいの距離をとって、同じように車止めに座った。暫くの間、静寂が耳を塞ぎ、そこにあるであろう音を全て消し去った。齧り付いたクッキーはただ甘いということだけしか分からなかった。
「いつもこの時間?帰るの」隣から声をかけられたことに気がつくのに数秒かかった。「今日はいろいろあって、三十分くらい遅いですけど、まあこれくらいですかね」「ふーん、大変だね」その会話が終わるとまたすぐに静かで凍てつく音が耳を覆う。
文は何も知らない。彼女は文が医者であり、今この時間が帰宅時間であることを知っている。疲労と寒気はまともな思考回路を凍らせ、あらぬ方向へ滑らせる。チラッと横目に彼女をみる。耳には少なくとも四つはピアスがついている。今までにここまで人を拒絶するような体裁の人を文は見たことがなかった。しかし、不思議と距離をとりたいとは思わなかった。

6

暗幕がどんどんと下がってくるように、空と地の距離が近くなってきているように感じる。どれだけの時間、ぼんやりと国道を眺めていただろうか。ある程度の車に台数は通るにせよ、ほとんど変化のない景色をじっと眺めていた。横をみると同じように、ほとんど何も起こらない国道をじっと見つめる顔がある。何をしているのだろう。こんな夜更けに、たった一人で。
「こうやってさ、ずっと同じ場所を眺めてても何ひとつ変わらない。変わらないことが当たり前のようにある。何でだろうね」彼女は空になった缶コーヒーに向かってぼそりとつぶやいた。期待していないと思った。誰かに聞いてほしいから発しているのではなく、ただ自身の中から生まれる言葉を無自覚に発しているだけのように思えた。しかし、文はそのつぶやきを風とともに右から左へ流すように聞くことは出来なかった。変わらない明日がやってくる。それが言えるのは今日が確実に生きて終わると分かっている人間だけだ。文はそれまで何を口にしていたかなどもう覚えていなかった。何も食べていないと思った。
「今日、自分たちが手術した患者さんが一人亡くなったんです。もう手術する前から結構、危ない状態で、手術がうまくいったとしてもその後、それまでと同じ生活を送ることはきっと難しく、後遺症が残る可能性が高いと言われていたんです。でも、後遺症が残ったとしても、命さえ助かってくれればと家族は手術することを希望されたんです。でも、結局、助けることは出来なくて、亡くなってしまった。ただ、すぐに亡くなったわけではなくて、命が長らえた数時間あったんです」気がつくと文は名も知らない彼女に蟠っていた思いを吐露していた。

7

手術室の片隅にあるパソコンには患者のCTが映し出されていた。梗塞部位はかなり広がっており、文が予測した通り、難易度が高くかつ後遺症が多少なりとも残ってしまう可能性が高いことが予測された。隣では着々と看護師や臨床工学技工士たちが手術の準備をしている。
「ここまで広がってると予後は良くないだろうな」矢吹さんはカーソルを梗塞部位に当てる。正直、どこまでのことが出来るのか、またどの程度の後遺症が残るのか実際のところは分からない。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。そんな重圧をいくつも乗り越えてきた矢吹さんの口からそのような言葉が発せられるということは相当なのだろうと思った。
時計は手術開始予定三十分前になった。ある程度の準備が整った手術室の前から声が聞こえる。手術室から出る​と​、そこにはストレッチャーに寝ている山平真とその家族、おそらく妻であろう人がいた。「奥様でいらっしゃいますか」矢吹さんは女性に尋ねる。「はい」昨晩から付き添っていると聞いていたが、落ち着く暇のなかったためか顔が引き攣ったままで、疲労が感じられなかった。「今回、手術を担当する矢吹です。他の医師から説明は受けられたかと思いますが、正直、重症な状態で、後遺症が残ってしまうことは覚悟しておいていただきたいです。ただ、全力は尽くします。よろしくお願いします」矢吹さんの後に続いて、映と文も頭を下げる。「よろしくお願いします」妻が頭を下げた。生の世界と死の世界の境界線が近づいた相手から受け取る重圧は、想像できないほどに重い。どうすることも出来ないと諦めた時、生の世界へ再び導いてくれる人に出会えた時の希望、そして助かってほしいという祈り、どの感情も透けて見えるものではなく、あらゆる感情がごちゃ混ぜになった不透明なものだ。文はそれが見えるようになってから、患者を引き受けるこの時が一番苦しいと感じる。こんなネガティブな姿勢ではいけないのかもしれない。しかし、そう感じてしまうのだから仕方がない。意識でどうにか出来るものではない。向いていないといわれたら向いていないかもしれない。
「では…」近くにいた看護師が患者確認を始めたため、文は二人について手術に向けた準備を始めた。手を洗い、術衣に着替えた。

8

なんとか終えたという感覚だった。
手術を終えた直後のデータは芳しくなく、目に見えて状態は悪いことは明白だった。手術室の外で待っていた妻と目が合い、会釈する。その表情から手術をしている間、きっとしかるべきところに心臓がなかったのだろうと思った。矢吹さんは妻の前に立ち、淡々と述べた。「思っていたよりも梗塞部位が広く、術後の状態も安定しているとは言えません。急変の可能性もあることを頭の片隅に入れておいていただきたいです」説明を聞き終えた妻を見て、諦念と期待という真反対の感情を同時にもつことが苦しみというものを生み出すのではないかと感じる。「分かりました。お世話になりました」そういうと頭を下げた。文はそれを見ながら、この光景をこれから自分は何回経験するのだろう、と思った。
その後、ICUから看護師が数名やって来て、山平真は移送された。「良くないだろうな」医務室に戻った矢吹さんと映がそう話をしているのを文は聞いていた。「​残るとしたら右麻痺だろうけど、再梗塞のリスクが高すぎる」術中から術後の経過をカルテに記載しながら、二人はどんどんと会話を広げていく。文は聞き逃さないように会話に集中していた。その後も映は術中の技術や予測される状態への対処など、ここぞとばかりに多くのことを質問していた。その質問に対して、矢吹さんもカルテに経過を記載しながら丁寧に答えていた。

文は患者の状態に関することのみが話されるその会話の中で、あの妻の複雑な表情を思い出していた。残されるかもしれない人間の表情だった。文は誰かに残された経験はない。しかし、この仕事を続けていると、残されるものにしか映らない表情というものがあることを知った。時間をかけて目の前の現実を自身の心身に溶け込ませていく。その作業をしていく過程には、拒絶もあれば否認もある。反対にすんなりと受容されることもある。そのどれもに正解はなく、その個々人の反応全てが“正しい”とされる。しかし、永遠に解けることがない知恵の輪を解いていくようなこの作業はたった一人でしか出来ない。どれだけ周囲に人がいたとしても、本当の意味での作業は一人でしか出来ない。それでも、文はそのたった一人でしかできない作業を、その人一人に負わせてしまうことにやるせなさを感じてしまう。どれだけのことをしても、それは他人の入る余地がない作業だ。周囲の人間はただ、見守り、忘れずにいることしか出来ない。そのことが文をさらなる無力感に誘った。

その時、ピッチが鳴った。​矢吹さんの右手が動く。最悪の事態を予測した。「はい。向かいます」映と文の方を向き、「血圧が急に下がったらしい」そこまでいうと矢吹さんの後を二人で追った。

患者の元に着く頃には、血圧に加え、心拍数が基準値よりも半分になっていた。「移送後は状態変わりなかったのですが、5分前からSATが低下し出して、血圧も下がり始めました」看護師が説明する話を聞きながら、矢吹さんは患者の診察をする。呼吸は荒く、規則性がない。血圧も点滴が投与しているが効果出ているとはいえない。恐れていた再梗塞が起きていると予測された。同室していた妻の存在に気がついたのは、矢吹さんが診察を終えた後だった。
「危惧していた再梗塞が起きた可能性が高いです。思ったよりも早いです。この後、どこまで治療をされるか、再度手術をしても助かる可能性は正直、低いです」躊躇することなく、迷いにない事実を述べた。妻はその説明を夫である山平真の方を見ながら聞いていた。「お父さん、分かる?」少しでも声が届けばという、最後の望みを託した声だった。文は矢吹さんの言葉を聞きながら、こんなに迷うことなく、事実を述べるにはどれだけの経験が必要なのだろうかと思った。いつもよりも長く、そして重い流れる時間が流れる。生と死に境界線を引くその決断を、さまざまな過去、感情を抱くことが出来る人間が下す。
「十分頑張ってくれたと思います。このまま何もせず、自然に逝かせてあげてください」涙ながらにそう言葉を紡いだ。
「分かりました。苦しくないように​最期を迎えられるように治療いたします」矢吹さんはそう言った。急な展開に、妻がどこまで追いつけているか文には分からなかった。きっと状況に納得する時間などなかったはずである。どうか命だけでもと、祈り続けたここまでの思いは一瞬にしてこの病室で打ち砕かれた。
救えなかった。しかし、病魔が救える状態ではなかった。
誰も悪くない。
そう思うことで文は自分の心の奥底から湧き上がる煮え切らない苦味を乱暴に吐き出そうとした。

その数時間後、山下真は亡くなった。
駆けつけた時には息はすでに止まっていた。矢吹さんは法で定められた手順通りに、止まることなく死亡確認を行なった。そして、妻と亡くなった遺体に一礼をした。文と映もそれに倣って礼をした。人間が遺体になった。いつも終わりは静かだ。矢吹さんは看護師に「あとは任せる」と伝えた。矢吹さんと映は病室を出た。そして、どこかへ走って行った。どうすることも出来ない文はそれに倣うように意味もなく走った。

9

全ての業務を終えるころには足元もおぼつかず、少し地面が揺れているのではないかと感じるくらいの疲労を感じた。ロッカーを開ける。朝と何も変わらないロッカーは、文だけが朝とは違う面持ちでいることをはっきりさせた。
「お疲れー」映が鍵を​ クルクルと回しながら近づいてくる。「今日はなんか騒々しかったな。バタバタしてたらこんな時間なってしまった」「そうだな」「にしても、今日の最初のオペ、あれ難しかったな。再梗塞も予測していたよりかなり早かったし」そして映は何食わぬ顔顔で言った。
「今日は一勝一敗だな」
後々知ったのだが、山下真の死後、すぐに急患が入った。その手術に矢吹さん、そして映が入ることになったため、死後確認後、すぐにあの場を立ち去る必要があった。文には自分にその声がかからなかったことに対して、何も思うことはなかった。「あの後の急患も結構、重症だったんだけど、術後の経過は思っていたよりも良くて、予後も多分いいと思う。ま、まだ油断は出来ねえけど、戦いには勝った感じがする」映はすでに私服に着替え終えていた。
映の話を聞けば聞くだけ、映に対する距離をとりたいという気持ちが生まれた。生まれてしまった。文は言うつもりなどなかったはずなのに、口が先走っていた。「映とって、患者が亡くなることは負けなのか?生きる可能性のある命と亡くなりゆく命だったら、勝ち目のある命の方が大事なのか?」映は文のその言葉に少し驚いていたように見えた。「急にどうしたんだよ」映は少し心配そうに文を見た。しかし、それは一瞬だった。「この仕事、救えてなんぼじゃん、俺らって。もちろん亡くなってしまうことは俺も悲しいって思うよ。でも、悲しいよりも悔しさが勝るんだよ。患者が良くなれば勝ち、悪くなったり、今日みたいに亡くなってしまったりしたら負け。そんな戦いだと思ってる」文にとって、映の言葉は自身が思っていること以上に、現実的だった。何も間違ったことは言っていない。そのことが文の中にあった、自身を最後まで立たせていた軸を揺るがせたように思えた。「あんまり深く考えるなよ。しんどくなるぞ。矢吹さんも言ってた。慣れだよって。じゃ、お先」映はそういうと、ロッカーを締め、更衣室から出ていった。
文は立ちくらみがした。だんだんと意識が遠のいていくような感覚を得て、近くにあった椅子に座りこんでしまった。どうしたらこの今感じている一生、沸騰することのない感情を自分の中だけで押し込めることが出来るのだろうか。悔しさは分かる。けれど、亡くなることは、死んでしまうことは負けなのだろうか。自然に抗う死に対して、救うことが出来なかった時の責任感を学生の頃から映を見ていれば、人一倍感じる奴であることは分かる。それだけ真面目に、本気で目の前の命を救おうとしている。
しかし、目の前にあるのは単なる命ではなく、人間なのだ。喜怒哀楽をもつ人間なのだ。その人間の生死を勝ち負けで表現することはエゴである、と文に言えたら楽になったのだろうか。生死の境界にいる複雑な、抱えきることが出来ないものをもつ相手を前にして、想像することしか出来ない人間が、共に最後まで抱えようとする行為は、“寄り添う”という便利な言葉で、自身の行いを肯定するための行為でしかないのだろうか。そうであるならば、文だって、映と同じくエゴ意識の塊である。
山下真の妻の最後の顔を文は忘れることが出来ない。しかし、それをどれだけ忘れずにいたところで妻の、そして山下真自身の救いにはならない。であれば、忘れないことには何の意味があるのだろう。それは自身の首を絞めつけ、息苦しくするだけなのではないか。
言いようのない重みが深く文の中にのしかかった。文はこれ以上考えることはすなわち、身体と心の乖離を起こすことだと思った。どうすることも出来なくなりそうだった。せめて苦しむのならば一人、家で苦しもうと思い、いつもよりも適当にスクラブをハンガーにかけ、扉を閉めた。

10

和紙に紺色の色水を垂らした時のような、ところどころ白っぽくなりつつある空を見ていると、この上に本当に天国があるのだろうかという幼少期からの疑問を思い出す。「自分にとって、生と死の大海の境界域に佇んでいるような感じがして。でも、明らかに生に向かってではなく、死に向かって波は患者を流していきました。そんな生死の海に佇む患者の姿を見ながら、自分は命の生き死にだけをみるのではなく、人間の姿をみなければならない。最後まで、それがたとえ死に向かって流れゆく姿であっても、最後まで人間としてみていたい、みなければならなと思ったんです。でも、同じ手術をした友人はそうは思わなかった。救えなかった命は負け戦だっていって、次の患者の手術、救える可能性がある命しか見てなくて。それが分かった時、目に前の視界が固まってしまったんです。そでまで切磋琢磨してなんとか頑張ってきた仲間と根本が違ったことに愕然としてしまったというか。もちろん、人によって考えが違うのは分かるんで、違っても仕方がない、次に目を向けよう、と思えるように動こうとするんですけど、身体は全然動いてくれなくて。ここ最近、ご飯もあんまり食えないし、今日帰っても眠れたとしても、夢と現を右往左往するような眠りにしかならなくて結果、疲れて朝を迎えるんだろうなと思うと、どうしようもないですよね」文の手の中にある殻袋はすでに形がなくなり、原型を届けていなかった。文はそれだけ強い力で握りしめていたことに気がついた。
彼女は何も言わず、ただ国道をずっと眺めていた。

「うちの親父、お兄さんと同じ職業で、救急だったんだよ」彼女は缶コーヒーを地面に置いた。突然の彼女の言葉に、なぜか文は驚かなかった。「お兄さんと同じくらいの時間に家に帰ってきて、あたしが朝ごはん食べてる時間に家を出るみたいな生活で、ほとんど話すことなんてなかったんだけどね。運動会に来てくれたこともないし、習いごとの発表会にも来たことがない。で、うち、おかあも働いてたから、家に帰っても兄貴とあたしだけみたいな感じが当たり前だったんだよ。でもね、一ヶ月に一回だけ、家に帰ったら親父が絶対にいて、一緒にご飯が食べられる日があったんだ」彼女は一点を見つめている。「親父はその日だけは仕事休みにして、もし呼び出しとかあっても、電話には出るけど、行きはしない。普段なら絶対にしないんだよ、そんなこと。でもその日だけは、兄貴とあたしだけを連れて、ご飯を食べに連れ出してくれた。それが嬉しくてね。普段、あかあと行くことがあっても、そんなにって感じなんだけど、というか多分、気が合わなかったんだよね。私とおかあ。どっか他人感があったというか、変に雑な感じがあたしには合わなかったんだと思う。でも親父は違って、真面目で色々なことを考えてるんだろうなって思うような人。いつも家にいないという負い目もあったとは思うけど、自分が犠牲になってでも、目に前のものに情をもつことができる人だった。そんな親父とお兄と、その日には回転寿司、ファストフード店、ファミレスなんかに連れて行ってもらって、そこで好きなものを食べるんだよ。何食べてもいいって言われて、お兄と一生懸命メニュー見て、吟味して、注文してみたいな感じだった」一点を見つめていた視線は、自身の手元にあるビニール袋に向けられた。「で、その帰りの車でロールケーキを食べさせてくれたんだよ。車で食べるなんて、おかあなら絶対許さないけど。他のことは雑なくせにね。そういうそういうところは厳しい人だったんだよ。でも、親父はそれを許してくれて。お兄と二人で、いつも行きつけのロールケーキ屋さんで、お互い食べたいやつを買ってもらって、ドライブしながら食べるの。ボロボロに崩れそうになるのを何回も押さえて、手もベトベトになるんだけど、その時に食べたロールケーキの味は一生、忘れないと思う」彼女がロールケーキにこだわった理由はその記憶があるからなのだろうかと思った。

「でも、ある年の冬のその日を最後に、その日はなくなってしまった」湿度をもった風がサラッと吹き抜けていく。一瞬にしてその周囲も温度を下げたような気がした。「私が小学一年生のその日、大きな地震が関西を中心に起きて、あたしは地震が起きた時間はまだ寝てたんだけど、おかあの電話をしきりにかけてる声、バタバタとリビングを歩いている足音が聞こえて目が覚めた。いつもならその時間、まだ布団の中で寝てる時間だったけど、なんとなく只事ではないような感じがして、布団の外はすごく寒いから布団を巻き付けるようにしてリビングにそっと出てみた。そうしたら、いつもなら能天気なキャラクターが映っているはずのテレビ画面に、高速道路が横に殴られたかのように倒れた映像が映ってて。それを見て、幼心に、『あ、いなくなる』って思ったんだよね。怖いとか、そんなものはなくて、ただ自分の近くにいる人たちが多分、いなくなるっていう諦め。地震のことがよく分かってなかったから、自分が知っている世界の変化だけに意識が向いたのかなと、今になったら思うんだけどね。正直、あの歳でそう思えたことが自分でも本当にそうだったのかと疑いたくなるんだけど、でも、そう思った記憶があるんだよ、なんとなく。結局、その予測は当たって、親父は前の日からずっと、いつもなら洗濯物を干しているおかあもその数十分後にはいなくなって、代わりに同じマンションに暮らしてたお兄の同級生のお母さんがやって来て、お兄と一緒にその人の部屋に行った。お兄は同級生がいるから一緒に遊んでいたけど、あたしはどうしていいか分かんなくて、そのお家のお母さんが見てた地震のニュースをずっと一緒に見続けてた」話の内容からして文とそう年齢は変わらないだろう。しかし、彼女を初めて見た時に感じた早熟さは、諦念という感情を早い段階で知ったことによって生み出されたのものなのだと思った。彼女はそこまでいうと袋の中から缶ビールを取り出した。コーヒーよりも先に飲めば良かったのにと思ったが、それは今以外を想像するができる人間だけが出来ることであり、彼女にはむしろ都合の悪いことだと気がついた。
「その日の夜、鍵は閉まったままで、レースのままのカーテンから入る外の光だけが頼りの暗い部屋にお兄と帰った。置いてあるテレビの位置も、おかあが置いたままにしたコップもそのままなのに、昨日や今日の朝までいた人たちは誰もいなかった。寂しいって思った。お兄は電気をつけて、カーテンを閉めた。もっと寂しくなった。やっぱりあのお兄の同級生のお家で、朝を迎えた方が良かったかもしれないって後悔したし、お兄はそのことでずっとぐちぐち言ってきた。でも、親父が帰ってくることが約束された日だった。絶対に帰ってくる日だった。待っていれば、絶対に。そう思って、今日と明日の境目、夜と朝の境目をじっと眺めていた。じっとリビングの椅子に座って。だけど、誰もただいまって言ってくれる人はいなかった」
ごくりごくとまるでジュースのように飲むビールの底から滴が滴れる。文は彼女を瞬間的に拒絶しなかった理由が分かった。彼女も知っている。あのどうすることも出来ず、身体と心が離れ離れになって、ただそこに佇み、耐えることしか出来ない状態の存在を。文は今、かつて幼かった頃に彼女が体感した感覚に近いものを、自身も感じているかもしれないと思った。
自分しかいないと分かっている世界に一人でいることを孤独とは言わない。それは孤独以上に底のない、形の見えないもので、掴むことが出来ないまま、その人の中に残り続ける。残り続けたものはいつからか、それがなくてはならないようになる。消そうとすることも、対峙することも、受け入れようと試みることも許してはくれない。次第に、それは常にどこかで意識し、しがみつかざる得ないものになっていく。

「後から聞いた話なんだけど、親父はその被災地に医療スタッフとして行ってたんだって。皆が手探り状態で、まともに考える時間なんてない中で、命は救うものだと信じて突き進んできた親父は出来る限り、目に前の命を救おうとがむしゃらになってたらしい。でも、どれだけやっても、負傷した人たちはどんどんとやってくる。まるでベルトコンベアのように。そこで親父に任されたことは、生と死の間にある河を流れてくる人たちを、川辺に引き上げる価値があるか否かを決めることだった。人を選別することだった。どれだけの締めつけられる思いで親父がそれをしたのか想像することしか出来ないけど、心身ともに相当な負担だったと思う。その後、数週間して、親父が家に帰ってきた時には少し痩せてた。
でもね、あたしやお兄を見て笑ったんだ。あたしはその顔を見て、被災地で親父は頑張って沢山の人を救ってきたんだなと思って、当時は誇らしく思った。でも、今思えばそれ自体がおかしなことだったんだなって思う。その後から、徐々に様子がおかしくなっていって、最初はちょっと体調が悪いのかなって思ってたくらいだったんだけど、次の月の最終日になっても、親父がおかえりって言ってくれる日がなくて、以降、その日が訪れることはなくなった。休めばいいのに休まなかったり、それまで以上に仕事するようになってたらしくて、おかしいことに気がついてくれた人もいて、本人にも、本人が駄目ならと、うちのおかあに言ってくれる人もいたみたい。でも自分で自分のおかしさに気がつける人なんていないって思うんだよ。どれだけ人に言われても、自分が見ている世界が全てだもん。歪んでいく普通にどんどん適応していっちゃってたんだろうね」そして、少し彼女は少し悲しみ笑うような声色で言った。

「一人で死の海に沈んでいっちゃった」

彼女は下を向いて自身の靴先を眺めていた。「沈まない船はない。いつかはどんな船でも沈む日がやってくる。それが早いか遅いかの違い。時間の問題。親父はその船が浮かんでいられる時間を長くする仕事を選んだ。でも、船を自身の手で沈ませることを求められた時、親父はそれが出来ないくらい“人間”だったんだと思うんだよね」
彼女は今、一体、どんな顔をしているだろうか。ふとした時に、雪崩のように溢れ出す生ぬるい記憶や感情に浸りきる前に、何か出来ればいいのにと思いながら、何も出来た試しがない文には、彼女の顔に映る表情に、名をつけることは出来ないと思った。
自身でも分からない感情を、他人によって既存の枠にはめられる経験をきっと彼女は山のようにされてきたに違いない。しかし、自分では枠にはめようとしなかった。いや、出来なかったのかもしれない。もしかしたら、このピンクの髪色も、軟骨にかけて四つはつけられているピアスも、真夜中にコーヒーとアルコールを身体中に巡らせることも、何もかも彼女にとって、自分と他人の境界を、もっと言えば父親のいる世界との境界を引くための手段なのかもしれないと思った。こうしていれば無闇に人は近づいてこない。そうしていれば、自分の殻の中だけに安住していられる。そうして生き延びようと思った彼女は強く、たくましく、そして文と同じ弱さをもっていると感じた。

「お兄さんの話、うちに親父が生きてて聞いたら、『いい感性をもった奴が来た』っていって喜んでたかもしれないね。その代わり、厳しかったかもしれないけど」彼女はそういってビールの飲みきった。「なんというか、同じ波長の場所にいる感じがする。こうやって女の子が一人でいたら普通、避けるもん。絶対、なんかあるって。でも、お兄さんは避けなかった。いつもこの時期になると眠れないから、こうやって外に出て散歩しながら、眠れなくなるものと眠りやすくなるものを同時に飲むっていう意味わかんないことするんだよね。自分でもなんでそんなことになるか分かんないんだけど」
文には実際に行為に移すほどの度胸はないが、そう思う気持ちは少し分かった。自分で説明できないもの、自分でどうすることもできないものと向き合わなければいけない時、真正面から向き合える人はどれだけいるだろうか。
「自分が学生の時に実習でしんどくなった時、たまたま緩和ケアを専門にする先生の話を聞く機会があったんです。その時に、向き合うことが出来るタイミングがあるみたいな話をされたことがあって。それが結構、印象に残ったというか、目の前のことに自分がどう反応するかなんて分かんないじゃないですか。そうならないと。その時にどんな反応をしたとしても、その時の反応が自分にとって最善の選択だったって、後から思うようにしてるんです。まあ、出来ないことが多いですけど…。でも、その出来ないこともまた一つ自分の反応なんだろうなと思えたらいいのかもしれないです」文は彼女に言うようにして、自分に言い聞かせているように思えた。そして、何を偉そうにと思った。思考よりも先に言葉が出てくると、止められない歯車に巻き込まれたように感じて自分自身に恐れ慄く。それでも、自分自身の口からそういう話が出来るのならば、まだ自身を律する手綱は自分の中にあるはずだ。そのことがほんの少しだけ文に暖気をもたらした。自分はここにいると感じられた。
彼女はふふっと笑った。笑うんだ、と思った。「逃げることも、ぶつかることもせず、あたしはその出来事をそのままにした。同情してくれる人もいたけど、くれるとか、いい気になるなって思ってた。親父が思ってただろうことだけを想像して、自分がその時どう思ったかってことには目を向けなかった。怖かった。きっと。自分が何を思っていたかを知ることが。でも、それで今はまだいいのかもしれない。まだ、私の記憶の中にいてほしいって思うから。忘れることから逃げたいって感じ。忘れてしまったら、自分がどこかにいってしまいそうだから。それでいいのかも、まだ」
文は彼女の名を知らない。同世代ということ以外、何をしているのかも。けれど、一つだけ知っていることがある。

文も彼女も今、ここにいる。

11

やっぱり眠たくならなかった。
東から日は昇ると言われるが、それは本当なのだなと思った。コンビニと文の周囲の境界線は徐々に、でも確実にぼやけはじめた。
「夜といわれる時間が長い季節で良かったって思う」彼女は空いた空き缶二つをコンビニのゴミ箱に捨てるとそう言った。「お兄さん、肝試しにいく?季節外れだけど。眠れないんでしょ、どうせ」彼女は文に顔を見ることなく、背中越しにそう言った。「ロールケーキ、置きにいくから。あたし、今から」彼女はコンビニ袋の中に入っているパッケージに触れ、袋を持ち直した。「眠れないまま、明日も仕事に行きます」文はそう答えた。
「沈まないでね、とは言わないよ」彼女はそう言い残し、歩みを進めた。
文は眠れないだろう自分の姿を想像しながら、自身の足で家路についた。
それぞれの朝を迎えるために。

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