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目的意識を持って生きなければいけないの?

資本主義社会を代表とする、合理化・効率化を重視する社会は、目的なくただのうのうと生きることを許してはくれないように思う。

なぜなら、これらは「目的合理性」という考え方が無ければ成り立たないシステムだからである。ある目的が存在して初めて、それを効率的に達成するにはどうすればよいのか、合理的に考えて、何を削ることができるか、どれが最適解なのか、という議論になるのである。

資本主義社会システムの文脈で言えば、何がしかの欲望を基に目的意識を持ち、それを合理的に達成するために、お金と時間を投資して複利の力で回収しながら、合理的に生きよ、となるのである。

しかし、このように合理性を突き詰める生き方は、人間的な生き方であると言えるだろうか?

壮大な目的なくダラダラと生きていきたい人間もいるはずである。また、人間は目的合理的に動かないのが常である。そうした人間たちの存在は許されないのだろうか?

人間的な生き方とは、目的意識を持って積極的自由を勝ち取り、理性的・能動的に生きていくことなのか?それとも目的意識など全くなく、消極的自由を持ち、ときに合理的でなくても心穏やかに生きていくことなのか?

最終的には、そのどちらも必要になるだろう、というのが私の答えだ。

完全に目的合理性を突き詰めるのも、完全に堕落して生きるのも、バランスを失っている生き方だ。それを両方ともうまくバランスを取れる人間が望ましいのではないか、と思う。

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