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私がやりたいのは教育ではないかもしれないのです。

これまで私は、「教育」という営みを伴う活動に取り組むことが多かったこともあり、何らかの形で「教育がしたい」と思っていた。

それは、研究室においての後輩指導だったり、地元の子育てコミュニティでの活動だったり、今の探究学習コミュニティもそうである。

それはなぜかというと、自分の個人的特性も踏まえて、「教育」分野に興味がある、親和性がある、と思っていたからだ。

しかしながら、その思考についてはまだまだ解像度が低い状態だったということに最近気づいた。

ひとくちに教育といっても、大きく分けると、「自分が誰か(何か)から教育される」か、「自分が誰か(何か)を教育する」の2つのパターンがあるだろう。

前者について、私は自分が学ぶこと自体は結構好きだし、新しいことを知ったり、新しいことができるようになるのは楽しいし、一定のやる気もある。

だからこそ、ここまでは色々と学びながら人生を歩んできたし、学問的な学びのみならず、様々な経験から何らかの人生哲学的な知見を吸収しようとすらしている。

後者についても、興味が無いというと嘘になる。

確かに、興味はある。

しかし、その中でも、積極的に何かの知識を教えるような形での教育にはあまり興味がないかもしれない。

むしろ、例えば後輩から相談を受けたときにそれを適切に受け止めて返すこととか、教える対象がどんな人間なのかを分析することとか、その人が持っている力を引き出したり、力を発揮できるように援助したりすることには興味がある。

そこまで考えてみて、「これって教育って言うのか?」と思った。

そもそも、「教育」という言葉で意図されていることとは一体何なのか。

「教育」という言葉はあまりにも多義的なような気がして、それをここで整理するのは一旦やめるが、私が興味を持っていた「教育的な何か」というのは、もしかしたら教育ではなく、「モチベーターとして振る舞うこと」だったのかもしれない、と思った。

これは、過去に行った自分の自己分析の結果とも整合する。

また、このような「モチベーターとしての振る舞い」をもう少し広く捉えると、誰かに主体的に関わることによって、それが結果的に自分のためになると思っているところがある。

「教育」という言葉を使って言い換えるなら、「誰かを教育することによって、結果的に自分に何かが返ってくるようなこと」を達成したいだけなのかもしれない。

その「何か」とは、その人からの感謝とかそういうものではなくて、その人が充実感を持って過ごしている、幸せそうに活き活きと生きているということが見えること、なのかもしれない、ということに気づいたのである。

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