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環境適応能力のジレンマに悩まされるのです。

しっかりと自覚したことはあまりなかったのだが、どうやら私は人よりも環境適応能力があるらしい。

それはあるとき、私の知り合いの1人と、私は初めてお会いする1人が2人で話しているところへ急に私が入って、3人で共通のテーマで1時間以上話をして盛り上がったときのことだった。

ひとしきり話を終えると、私にとっては初対面だった1人に、「初めて会う人とこういう環境でこれだけお話できるということは、環境適応能力があるんですね」、と言われた。

それまで私は、このことに全く自覚的ではなかった。

しかし、自分の人生を振り返ると、確かにそういう新しい環境に身を移したとき、適応できなくて困ったとか、極端に人間関係がうまくいかなくなることは無かった、と思う。

それは、中学校や高校、大学に初めて登校したとき、積極的に友達を作ろうとバリバリ人に話しかけてはいないのだけれども、なんとなくその場にいる人たちと緩やかに関係性を築いていくような感覚のことを言っているのかもしれない。

私は穏やかな性格であるということと、基本的にはにこやかに過ごすようにしているので、初対面の人に特別恐怖を与えるような振る舞いを無意識的にしていることは無いだろう、という自覚はあるのだが、それが「環境適応能力」であると言われれば、そういうものなのかもしれない。

ただ、そういう環境適応能力がある自分であるにも関わらず、例えば組織の中で働くということについて、あまり積極的に思えていない自分もいる。

環境適応能力がある人間は、むしろ積極的に人間集団の中に入っていって、集団で何かに取り組む方が向いているのではないか、と思うのだが、私としては、なぜか積極的に一人になろうとしているような感覚がある。

これは、自分の強みの性質である「内省」とも関わることかもしれない。

内省的な人間の注意点として、一人の時間を作りたがる傾向にあることが指摘されていた。

また一方で、もし組織や集団の中にひとたび入ってしまうと、その組織や集団に過剰適応してしまうような自分もいる気がする。自分の価値観や考え方が、その集団に属している人々の価値観に少しずつ無意識的に染まっていくような感覚である。

それはもしかしたら普通のことなのかもしれないけど、なんだか「自分自身の信念は無いのか!」みたいに言われそうな気がして、気が進まない感じがする。

これまでの各所での自分の働きや振る舞いも、客観的に見れば「滅私奉公」なスタンスに見えただろう。自分のことは置いておいて、まず人の依頼を片付けたりするところだ。

これまでは、自分は特にやりたいことがなかったから、それでも成立していたところがあったが、最近はそうとも言えなくなってきている。

自分の取り扱う案件が大きくなってきて、自分の力では手に負えないものになってきて、人のことを考える余裕が無くなっているから、もう誰にも縛られたくない、と思ってしまっているのかもしれない。

そういう両方の側面がある中で、どのように物事に取り組んでいけばよいのか、考えていかなければならない。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。