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「晴れの舞台」にならないのは本当にやりたいことではないからなのです。

先日、博士論文の初稿を提出し、その本審査と公聴会を終えた。公聴会では、博士論文の内容について30分程度の発表と、聴衆(審査員の先生方とその他関係者)からの質疑応答があった。

公聴会の前日、審査員である1人の先生の居室にお邪魔して、後輩たちも交えて研究の話をした後で、最後にまとめの一言としてその先生がこう言った。

「博士論文の公聴会は、晴れの舞台だからねぇ」

そう言われて私は、正直戸惑いを隠せなかった。

それは、私がこれまでの人生において、「晴れの舞台」という感覚を持ち合わせていなかったからだ。

確かに、博士論文の最後の集大成の発表に当たる公聴会の場は世の中的には「晴れの日」や「晴れの舞台」なのだ、ということは理解できる。

しかしながら、私の人生を振り返ってみたとき、これは自分の晴れの舞台だ、とか、そういう感覚になった記憶がないし、今回もそう思っていなかったのである。

これは普通のことなのだろうか?

これまでの人生において、もちろん「晴れの日」と言われそうなイベントを経験したことはある。例えば、学校の入学式や卒業式、成人式などがそれに分類されるだろうか。

ましてや、自分自身がスポットライトを浴びるような経験として、様々な機会でステージに立ったり、人前に立ったりすることもたくさんあった。

子どもの頃で言えば、お遊戯会や運動会での演目発表、ピアノの発表会、合唱コンクールのピアノ伴奏など。高校・大学生以降で言えば、部活のキャプテンとして参加した大会、実行委員長として関わった子育て団体のキャンプ、研究活動の成果発表としての国内・国際学会など。

しかし、それらのどれも、「晴れの日」とか、「晴れの舞台」とか、そういう感覚に感じたことは、ただの一度も無かったと思う。

自分が主役のときは、ただただ緊張する舞台だったり、そこまでモチベーションがなかったり、こなす感じになったりしてしまう。自分が主役でないときは、比較的心穏やかにできはするけれども、それは「晴れの日」という感覚ともまた違って、必要な役割を果たしているだけのような感じがする。

なんだかその日を心から「晴れの日だ!」と思えていないような感じがして、よくわからない。

ここまで考えてみて、その原因として思い当たったのは、これらが「本当にやりたいことではなかったから」だというものだ。

本当に自分がやりたくて、そこまで徹底的に準備して取り組んでやっとその日を迎えるのだとしたら、きっと「晴れの日」感覚は大きくなるだろう。

しかし、私の場合はそうなっていなかった。これまで自分が浴びてきたスポットライトは常に、人から求められたり、望んではいないが経験として取り組んでみるために当てられたものだった。

それはそれで経験として大変ありがたいことではあるのだが、どこか満たされない気持ちがあるのは、自分の本当に実現したかったことやこだわりを発表して、それを認めてもらうことによる充実感が得られていないからだと思う。

「晴れの日」や「晴れの舞台」を、「自分が充実感を持って取り組んだ物事や成果を発表する場」と捉えるならば、きっとそれが原因だ。

これからの人生で、本当の意味で充実感を得られる1日1日を過ごしていくためには、やはり自分が本当にやりたかったことをやる必要があるのだろう。

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