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「共感」には2種類あったことに救われたのです。

私は人に共感するのが苦手だ、人の気持ちがわからない人間だ、と思って生きてきた。基本的に誰かに心から寄り添ったりすることができている自信が無いし、何かに感動して心が動くことも無いし、深い悲しみを感じたりすることも無い。

そういうドライな性質を持っていることについて、自分としては恐怖に感じたりもする。

もしも明日、突然身内の誰かが死んでしまったとして、私は涙を流すだろうか?身近な誰かが悲惨な状況に追いやられたことを知ったとして、彼らを心から思いやった行動を取ることができるだろうか?

全く自信が無い。そのように「しなければならない」わけではないのは確かなのだけど、自然とはそうならなそうな自分を感じて怖い。

先日も述べた「解像度を上げる」という本の中の記述で、この「共感」という言葉について少し細かく書かれた箇所があった。

共感には、細かく分けると2つあるらしい。
「感情的共感」と「認知的共感」である。

前者は、一般的に言われる「共感」に近い意味合いであり、相手の心境に寄り添ったり、相手の感情に共鳴することだと私は解釈した。

一方で後者は、相手の置かれた状況を理解したり、相手の立場を想像してものごとを考えたりすることを意味している。

これに似た意味の言葉としてよく言われるのが、「他者の靴を履く」というものがある。

これは、先日紹介した「ソーシャル・ジャスティス」という本の中でも記述があった。

私の場合、やはり前者については苦手だ。そもそも、私は心があまり動かない人間だからである。

一方で、後者については一定の力があるのではないか、と思うところがある。むしろ、この両者を意識的に分離して取り扱うことができること自体が、1つの強みである可能性もある。

人間が感情に囚われやすい生物であるということは一般によく言われることだが、それには正の側面と負の側面がある。

人間は感情を持ち、それを他者と交換し共有することで、ある種の関係性を結ぶことができる。一方で、感情に囚われ過ぎてしまうと、理性的で客観的な判断がしにくくなってしまう。

そういう人たちがネガティブな状況を脱するためには、その人が置かれた環境と、そこから生まれる感情を切り分けて理解することが必要である。

ここで、恐らく私の強みが発揮できる気がしている。

まずは相手の話をしっかりと聞いて受け止め、相手の状況について「認知的共感」を持って理解する。次に相手の感情と状況について分離して、その状況をプラスに捉えられるような声掛けをして、相手が自分でその状況に意味づけし直す手伝いをする。

これによって、相手をポジティブな方向に向けたり、ポジティブまで行かなくても、ネガティブな感情をニュートラルに持っていくような仕事ができるかもしれない。

相手に心から共感して一緒に涙を流せるような人を羨ましく思うときもある。しかし、自分は自分で、自分が持っている特性で勝負するしかない。

自分の手持ちのカードをフルに使って、誰かに何かの形で貢献できる方法を考えるしかない。

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