【創作】今日という一日が終わるまでにどこまでいけるか僕らは知りたかった①


2008年に朗読劇の脚本として制作したものです。
印刷されたものを偶然掃除中に見つけたので、少し加筆修正してアーカイブしておこうと思いました。
寝る間際、なんとなく流していたラジオから聴こえてくる物語のイメージ。
声に出して読んでもらえたりすると嬉しい。
後編ものせます。


1.


「この街を今すぐ出なきゃならないのだ」


喫茶店で冷たいジンジャエールを飲みながら、
ネコはぽそりと言った。

また始まった、と僕は思った。
思ったけれど、そんなふうに初めから受け流すのもなんだか気が引けたので、一応相槌を打ってみることにした。

「ほう」

ネコはその気の抜けた相槌が、なぜだか、いたくお気に召したらしく、目をきゅうっと細めて僕を見た。
僕はしまった、と思った。
でも、しまったと思った時にはもう遅く、ネコは短い腕でオーバーな身振り手振りを加え、まるで機関銃のように喋り出した。

こうなってしまうと、僕にはもうなすすべがない。
ネコの話を最後まで聞く義務が僕にはある。
注文したアイスコーヒーの上に乗っかっているクリームを慎重にスプーンで掬うことさえ、今の僕には許されていない。

「まあ、簡単に言えば追われているのだ」

ネコは続けた。

ちなみにいうと、ネコはこの手の話が大好きである。
それは「最近誰かに見られている気がする」から始まり、いかにも怪しげな人物が家のそばをウロチョロしはじめ、最終的にはネコのアパートの郵便受けに脅迫状が投げ込まれるところまで、まるで宇宙のごとく広がっていく。
そのすべては悪の組織の仕業ということにされていた。

その間の僕の仕事は、はあ、とか、へえ、とか、ふむ、とか、短い相槌を絶妙なタイミングで入れることだけだ。しかも、これが結構難しい。
少しでもタイミングを間違えると、今にもひっかきそうな勢いで、すかさず僕を睨みつける。

ジンジャエールのグラスにはりついた水滴がテーブルに流れ落ちて、やがてみずうみのようになった時、ネコはやっとこう締めくくった。

「組織に居所がばれてしまったということは、もうこの街にはいられないということ。今からわたしときみは旅に出ることになった

首に下げた重たげな一眼レフを、チョッキの胸元から出した水玉のハンカチでこしこしとこすりながら、少し伏し目がちに、たぶん一番言いたかっただろう箇所は、なぜだかとても早口で。

「はあ?」

実際よく聞こえなくて、相槌を打つつもりが僕は思いきり語尾にハテナマークをつけて発音してしまった。何かしら面倒なことに巻き込まれることは明白である。

「僕には僕の予定というものがあります」
「予定は所詮予定だろう」
ネコはいかにも不満げに、額をしわしわにしてごしゃごしゃと氷を噛んだ。

「だいたいどこにいくんだか知りませんが、今から汽車の切符をとるなんて無理ですよ」

午後一番に落ち合ったのに、喫茶店のレースのカーテンの向こう側はすでに夕焼け色に染まっている。

「きみには車があるだろう。ほら、あの赤くて小さいの」

ネコは髭を撫で撫で、僕のほうをチラリと見た。
ウィルキンソンの深緑の瓶越しに、僕の機嫌を伺う時の猫なで声だ。

「つまりは、夏休みも終盤だし、どこかへ連れて行け、ということですか」

僕がずけずけと核心をつくと、ネコはピンと耳を立て、「おでかけではない、旅なのだ」とごにょごにょ言った。

2.



ネコのいう「旅」とは、たいていは取材のことだ。

まゆつばな話だけれど、ネコの肩書きは写真家である。
写真家になる前は新聞記者を、新聞記者になる前は探偵をしていたらしい。

ネコは何か写真が撮りたくなると、きまって僕を呼びつける。
深夜に電話が鳴り、「真っ暗闇の海を撮ったらどんなふうに写るかなあ」などと、まるで素人のような謎の疑問をぶつけてきて、真夜中に海まで車を走らされたり、「何かものすごーく大きいものが撮りたい」と突然言い出し、空港と動物園をはしご、なんてこともあった。

ネコは、ふだんから僕のことを助手か何かだと勘違いしている。
頼んでもいないのに、僕の平和な日常を事件だと言って大騒ぎするし、街を歩けば僕が見過ごしていた何かを、いとも簡単に見つける。
そして、何やら僕の知らない歌を口ずさみながら、何枚も何枚も写真を撮る。

例えば、スーパーマーケットにつながる路地裏の近道(絶対に誰にも口外するなと念を押された)。
とんでもなくコロッケが美味しい定食屋(あんなに美味しいなんてネコいわく怪しいそう)。
毒々しいピンクのアイスキャンディーが売ってる駄菓子屋(子どもの脳に悪影響を与えるに違いないというネコの見解)。
キリンのジャングルジムがそびえる児童公園(大きすぎて怖いらしい)。
団地の脇の市民プールの柵の隙間から見える古びたパラソル、赤、青、白(本当は何か別の物が撮りたかったんじゃないかと僕は睨んでいる)。

たしかにネコがレンズ越しに見た僕の街は、灰色のドミノみたいな団地がいくつも立ち並ぶ、見慣れた風景とはまるで違う。

色鮮やかで、想像もつかないくらい遠くの街のように思えるのだった。



3.

そうして、僕とネコは24回目くらいの旅に出ることになった。

ネコが写真家だ、と説明していたあたりで、ネコはもうちゃっかり僕の赤いミニの助手席にちょこんと腰掛けていたからだ。


「さあ、今日はどちらへ」

「きみは、果て、という場所がどこにあるかご存知か?」

「はて?」

お茶目のつもりがネコを見ると、嫌にまじめくさった顔をしているので、僕はとたんに恥ずかしくなってコホン、と一つ咳払いをした。

「果て、ですか?」

「説明がうんと難しいのだがね、正確にいうと、今日という一日が終わる場所、とでもいおうか。
わたしは生まれてから一度も、今日という一日が終わる瞬間を目にしたことがない。
今日という一日が終わる場所を写真におさめたいのだよ」

最後の方は正直何を言っているのかさっぱり理解ができなかったけれど、どうやら本気のようだった。
0時を境に今日が明日に切り変わるという概念は、ネコの世界にはないようだ。



4.



複雑怪奇にこんがらがったジャンクションを抜けると、誰もいない高速道路に、等間隔の電灯が永遠に続いているのが見える。

日が暮れる前の薄紫の空に、電灯の淡い光が混ざり合っているからかやけに視界がぼやける。

電灯のずっと向こうにいわし雲を見つけたので、ネコに教えてやると、「イワシは骨が多いから好きではない」だって。
なのにドアの取手をくるくると回して、窓から身を乗り出ししっかりカメラを構えている。


開け放った窓から、夏の夕暮れの湿った風がふわっと車内をすり抜けた。

あのねぇ、こういう時間のことを「オウマガドキ」というんだよ。
ネコは言う。
夕方と夜のちょうどあいだ、不思議なことが起こる時間だ。

もう一度、歌うように低い声で、でも、はっきりと。

「ねえ、きみ、明日は今日の続きだと思うかね?」

カシャン。


やけに大きなシャッター音が響き、あたりは影絵のような暗闇に包まれていた。


〈後編へ〉


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