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「聴く」ことは「理解する」こと

今の私には、仕事になっていない仕事がある。

それが「聴く」仕事。


本業は校正者で、不動産広告と食品カタログをメインにしている。追っているのは文字だけれど、そのなかでも「聴いている」感覚がある。

この広告では何が伝えたいんだろう。誰に伝えたいんだろう。この言葉で伝わるだろうか。このデザインで届けられるだろうか。

読み込んで想像して、「こういうことが言いたいのであれば、この表現にしてみるのはいかがでしょう…?」と指摘を入れる。

文字を通して、デザインを通して、取引先の意向を聴いている。

単に「校正」でくくってしまえば、そこまでやる必要はないのかもしれない。誤字脱字とかあきらかなデザインミスとか、そういったことだけを見ていれば十分。広告制作の現場は基本的に時間がなく、「必要最低限の誤りがないかだけチェックをお願いします」と言われることも多い。

でも、その範囲だけなら正直、私ではなく別の人に依頼したほうがいいと思っている。

特に本が好きだったわけでもなければ、漢字が得意だったわけでもない。なんなら本を読んだら眠たくなるし、漢字の練習はめちゃくちゃ嫌いだった。

それなのになぜ校正者になっているのか、と考えてみると、思いが伝わらない場面を見ているのがもどかしく感じる癖(ヘキ)があったから、なんだと思う。


この私の癖をつくったのは、おそらく両親。

うちの両親は、会話があまり上手ではないなと思う。どこかつながっていなかったり道を逸れてしまったりするし、言葉の奥を想像することも人の機微に気づくことも少ないように思う。

二人ともそれぞれ何十年と同一の会社で働き続けていたし、近隣トラブルも聞いたことがなく、母親は所謂ママ友とも愚痴を言いながらもうまくやっていて、父親は親戚付き合いも良好だから、そこまでめちゃくちゃ下手ってわけではないと思うけれど。

でも私の視点で見ていて、母の言いたいことが父に伝わっていない場面、またその逆の場面がたくさんあって、私は自然と間に入って言葉を補うようになっていった。

特に練習もしていなければ、どこかで教わったわけでもない。ソウルフル・ワールド的に言えば、私は「言葉へのきらめき」を持って生まれたのかもしれない。

学生時代は特に気にしたことがなかったけれど、社会に出て働き始めると、あれ?私って言葉への感度が高いのかな?と自覚するようになった。


上司が同僚を注意しているときのこと。

上司に求められた答えと違う方向の言葉を出してしまう同僚。同僚の言葉が理解できなくて、ますますヒートアップして声を荒げてしまう上司。

そこ、そう答えるんじゃなくて、こっちの説明を望んでるんだと思うよ…とひっそり思っていて(間に入るのは怖くてできない)、後からこそっと同僚に伝えることが何度かあった。

同時に、「きっとあなたは『こう考えて動いていた』ってことを伝えたかったんだよね?」と上司に伝わらなかった言葉をかみ砕いた説明にして確かめてみる。

言葉の取捨選択ができれば、ちゃんと相手の言葉を待って話すことができれば、両親もあの上司と同僚も、理解し合えるかもしれないのになぁ。

それがすごくもどかしい。


全人類に対して「話せばわかる」とは思っていない。聴く耳を持てない人って一定数いるし、聴く耳を持ちたくない人もいる。言葉を尽くしたって、自分に感じられない感覚を理解することの難しさは、どうにも壁になる。

だけれど、言葉を尽くして何かが少しでも変わるなら。

言葉を聴くことで何かが少しでも変わるなら。

私はそれをしたいと思う。きっと、「理解」を諦めたくないんだと思う。誰かが理解されることを望んでいるし、誰かが理解することを望んでいる。

その自分の望みを一つでも多く叶えたくて、「聴く」をちゃんと仕事にしたいと思っている。そのためにLivelyTalkを始めたし、そのためにこのnoteもやっているし、そのために校正の仕事も続けている。

いつかちゃんと「話を聴くのが私の仕事です」と言えるようになりたい。


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