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【紫陽花と太陽・下】第一話 学校祭[1/2]

「学校祭?」

 朝、椿つばきの食べこぼしたシャツの着替えを手伝いながら、僕はあずささんに聞き直した。

「そう、七月の中旬の連休前に、私の高校でやるのだ」
「へぇ」
「……もし、気が向いたら、来ることもできるから」
 イッパンカイホウの日があるから、という難しそうな言葉を残して、あずささんが顔を赤くしてそそくさと通学の準備をしに二階へ上がっていった。

 学校祭かぁ。高校の。
 僕は汚れたシャツをまるめて、下洗いをするために洗面所に向かった。
 高校を中退した僕にとっては人生でもう体験することができないイベントだ。
 保護者とか近所の人とかと同じ立場の、自分たちがやる側ではないんだけど。高校であずささんやつよしに会えるならちょっと見てみたい。
 ただなんで顔を赤くするんだろう? ……変なことを言っているわけでもないのに。

 祭りは来月だと言っていた。それなら今からでも休み希望を店長に言えば、もしかしたら行けるかもしれない。
 僕は縁田えんださんに相談することをメモして、家族の出発準備を手伝った。

 ◇

「あずさー、誘えた?」

 あずさの親友と勝手に自称する私は、開口一番、彼女に尋ねた。
 彼氏なんだから堂々と誘えばいいのに、目の前の彼女はあらゆるところで遠慮がすごい。
 何でも、彼氏が仕事をしているから、という理由らしい。
 日向ひなたも興味があるんだろう、教科書やノート類の整理をしながらチラチラとこちらの様子を伺っていた。

 私達三人は高校一年生の時にたまたま席が近く、性格や趣味はお互い全く違ったが、考え方が好きだったり一緒にいても疲れないのが楽ちんで、たいてい学校で一緒に行動することが多かった。二年生になった今も関係はずっと続いていて、悩み相談や愚痴(これは主に私だ)、勉強も三人でしていた。

 あずさは清楚で控えめ、そしてものすごく頭が良い。美人だし、ものすごいモテる。言い寄られたことは数知れず。だけど当の本人は告白を全て退け、うわついた噂もないまま淡々と日々を過ごしていた。
 男に興味がないのかと話を振ってみると、意外にも頬を赤らめて想い人のことを教えてくれて(私と日向が強引に聞き出した)、それがいつもの彼女の印象からは想像もできないくらい恋する乙女で面白く、以後たびたび彼女をからかいつつ経過報告を聞き出すのが楽しみになっていた。

 ……ほほぅ、無事誘えたのね。
 ん? 来るかどうかは分からない?
 気が向いたら、と言ったのね。それはちょっと控えめすぎやしないか。

「来てくれるといいね」
 日向が幸せそうなあずさに微笑みながら言った。
 去年は初めての学祭で勝手が分からなかったけれど、今年は受験勉強もないし、存分に楽しめる貴重な年だ。
 あずさの誘いを断るなんてもってのほか。仕事だろうと休みを取って祭りに来るのが彼氏だろう!
 と、腕をブンッと振り上げて力説をした私だが、あずさはたとえ彼が来なくてもきっと気にしないんだろうなということも分かっていた。

 あずさは望みをあまり持たない。人を責めない。人に怒らない。
 だからこそ、たくさん幸せになってほしいって私は思うのだ。

 ところで私と日向はあずさの過去を知っている数少ない友人だと思っている。
 過去。それは、彼女が以前レイプされたという事件。
 ドラマとか小説や漫画とかのお話じゃなくて、事実、彼女は被害に遭ってしまったのだ。

 彼女の口から出た出来事の端々は、聞いた時の衝撃で正直なところよく覚えていない。
 私たちはその時、三人で屋上に続く階段の渡り廊下でお昼ごはんを食べていた。
 教室の喧騒や学生食堂の混雑が苦手な私たちは、よくその静かな場所でおしゃべりをしていた。
 彼女は想い人と気持ちが通じ合ったことを報告してくれて、そして、意を決して自身に起こったことも隠さず話してくれた。


 あずさが想い人から告白された時期は高校二年生の六月だった。
 ふわふわとした足取りで朝からかなり様子がおかしかったのを覚えている。挨拶しても返事がなく、どこか遠くを見て時々顔をブンブン振りまくり、赤くなったり青くなったり。全く何も聞こえていないようだった。

「そろそろ何があったのか教えてよー」
「いや、具合悪いなら保健室行こうや」
 私と日向が口々に尋問する。

 困った顔をしてあずさは話した。
 好きな人が、好きと言ってくれたのだと。
 私たちはキャーとかウワーとか叫び、自分のことじゃないのにドキドキした。
 私はというと一応彼氏と呼ぶ男はいるものの、ここ最近はケンカばかりで愚痴ってばっかりだった。日向は現実世界より二次元に大変興味があり——いわゆる漫画大好き少女——なので、たいていは聞き役だ。ツッコミ役でもある。たまにしゃべると推し男子のことを際限なく話すので、おいそれと話題を振れない。

 いや、話をもとに戻そう。
 そんなわけで、あずさの恋が叶い、どんなふうに告白まで至ったのか、相手がどんな人なのか(いつも詳しくは教えてくれなかったので、同い年としか知らなかった)、私たちは次から次へと聞きまくった。

 あずさの彼氏。
 学年トップの彼女を射止めたのがどんな人なのか。
 すごい興味があるじゃないか。
 でも、彼の経歴を聞いて一抹の不安を覚えた。
 彼女の辛い過去の話を思い出す。……彼女を悲しませるような男であってはならない。

*  *  *

 高校の最寄りの駅から電車に乗り、あずさの彼氏となったリョウスケという男(Rくんとしよう)を見るために、私と日向は彼が働く喫茶店までやって来た。

 お店はレトロという表現がしっくりくる佇まいだった。
 とても小さな入り口の上方には、コーヒーカップと豆のイラストと共に「喫茶 紫陽花」の文字。足元にひっそりとサボテンの鉢植えが置かれている。レンガ調の壁や青い枠の格子状の窓もレトロっぽさがすごく、お店そのものがなんだか非日常な雰囲気で、女子高生の私たちは一瞬怯んだ。お店に入るのに勇気がいる。

 意を決して扉を開けると、カロンと軽やかな音がした。
 そういえば喫茶店って初めてかも……。

「いらっしゃいませ」
 店内を見回しRくんがどこにいるか探そうと思ったらまもなく、スタッフが出迎えてくれた。
「……いらっしゃいませ」
 最初に声をかけてくれたのは男の人。続いて奥の方に小柄な女の人がいた。
「へい、いらっしゃい!」
 ここは魚屋か? と思うくらい威勢のいい挨拶はキッチンの中からだ。

「お二人でしょうか?」
「あ、はい」
「あいにく只今満席で、こちらのカウンター席でもよろしいでしょうか?」
 流れるように店内中央のカウンター席を進められた。
 特に希望もなかったので日向と横並びに座ってカバンを下ろした。
「こちらお使いください」
 すぐさま足元に荷物かごが用意された。

 店の中に男性のスタッフは二人だけ。……一人はキッチンにいるおじさんだから違うとして、それなら目の前の人が……?
 私と日向はジロジロ見ないようにしながら、注意深く男性スタッフを見た。
 スラリと背が高く、童顔で、柔和な顔つきで、すごく優しそうな人、というのが第一印象だった。

「今、お水をお持ちしますね」
 彼が去っていった。さえきさん、ともう一人のスタッフと思われる名前を呼んでいたけれど彼女は気が付かなかったようで、苦笑しながらグラスに水を入れていた。
 店の奥からお客さんが入り口の方へ歩いてきた。
「ありがとうございます」
 なぜだろう、彼は先程から女性スタッフの方をチラチラと様子を伺っていた。
「あの人、初心者マーク付けてるね」
 日向が女性スタッフの胸元のマークに気が付いて呟いた。
 お会計だ。さっきのお客さんがレジっぽい台まで歩いて行った。レジを彼が対応するのかと思ったけれど、彼はお会計のお客さんに「順番にお伺いいたしますね」と一言断って、まずお水のグラスを私たちまで持ってきた。
「遅くなりました」
 いつも立ち寄るフードコートみたいなプラスチック製のコップではなく、喫茶店、といった茶色がかった小さなグラスがテーブルに置かれた。かわいい。

「新人さん、なんか、大変ですね」
 日向が珍しく話しかけると、彼は一瞬驚いた顔をした後、ふわりと微笑んで首肯した。


「メロンクリームソーダとミルクセーキですね」
「あちらのテーブル席、準備ができましたらご移動されますか?」
「ありがとうございます」
「お足元、お気を付けてくださいね」
「ご希望がありましたら、お気軽にお申し付けください」

 スタッフRくんだと思われる彼は、ものすごく穏やかにそれでいてくるくると休むことなく働いていた。

 私は正直驚いていた。
 だって、あずさから聞くRくんは中卒で不良だと思っていたから。
 なんで不良かというと、あずさに告白してその場で手を出したから。
 男なんて、猿みたい。
 私の彼氏だって猿みたいだ。
 退学前の高校だって、あずさとは次元の違いすぎる、落ちこぼれが通うような学校だ。
 そんなところですらまともに通えないくせに、よくあずさを狙ったものだと思った。
 怖い経験をしたあずさの心に付け込んで、まんまと騙した悪い男。
 ……そんな予想をしていた。

「なんか、イメージと違う……」
「あぁ、さくら、けっこう悪い人って思ってそうだよね」
「いやだって、手ぇ早すぎじゃん」
「あの子が同意したから、いいんじゃない?」
「そうかもだけど、あの子のあのウブさ加減は危ういよ」
「まーね」
「……ミルクセーキ、甘くて美味しいね」
「こっちのメロンソーダも美味しいよ。ちょっとそれ飲まして」

 フードコートにはミルクセーキは置いてない。タピオカならあるけど。
 へぇーっ、このドリンク、卵も使っているんだ。甘くてとろっと濃厚な味がクセになる。
 喫茶店って初めて入ったけれどなんだかすごく落ち着く空間だ。
 チラチラと視線が彼に行く。
 始終微笑んでいて、黒いワイシャツに濃深緑の長いエプロンを腰に巻いた彼が、店内をせっせと動き回っている。
 気が付くと洗い物を。また気が付くとお客さんとお話を。新人の女性スタッフの動きが止まると、さりげなくフォローしているのも分かった。

りょうくーん」
「はい! 何ですか!」
 おじさんが彼を呼んだ。リョウ、と言っていたので彼が本人だと確信できた。

 彼がすぐさま駆け寄った。
「拭きながらでいいよ。それで、気付いちゃったんだけどさぁ」
 おじさんは声がでかい。けっこう遠くにいる私まで会話が筒抜けになっていた。

「はい」
「遼くんさぁ、寝癖付いてるよ」
「……はい?」
 慌てて髪に手をやっている。
「あぁ、後ろ側だから見えないよ。朝からすっごく気になってたんだよねぇ」
「い……今更っ!」
「すごいクルリンってなってるな」
「すぐ教えてくださいよ」
「いやー、朝はネギ切るので忙しかったんだよ」
「ネギくらい、僕切りますよ」
「長ネギと小ネギと玉ねぎを切らないといけなかったんだよ」
「全部切りますっ」

 思わず笑ってしまった。見れば、隣の日向も笑っていた。
 なんだろう、このお店。めっちゃ仲がいい会話じゃん。
 女性スタッフもこっそり笑っているのが見えた。

「いい人そうだね」
 日向が満足そうに、言った。


(つづく)


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