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類は友を呼ぶってマジだけど、なんでか考えたことあります?


相変わらず人間関係というものは複雑で、どこに行っても相応の問題があるものだなあと改めて思うことが多い夏だった。いや、夏ですという進行形が正しいか。

大抵、悩みの根源というものは人間関係が9割を締めていて、どこに逃げようともこの問題から逃れることはできない。要するに、ある程度自我が芽生えてから死ぬまで人間関係の問題と向き合わなければならないという絶望に近いのが人生をやっていくこととすら最近は思えてきた。もちろん、人が救ってくれることもある。その側面もかなり大切だし重要。ただ、それを埋め尽くしてしまうほどの悩みや不安が襲ってくるというのが現実なのである。

ただつらつらとnoteに人間関係の絶望具合を書いても何も進歩しないので、最近は特に自分や周りの人間関係を観察して、どこでミスマッチが起きているのか?それについて観察する日々を過ごしていた。

その結果自分なりにたどり着いたのが
『好きと嫌いの共有が上手くできていない人間関係は脆い。』だった。

誰しも、好きと嫌いがある。この好きと嫌いというのは、浅いところから深いところまで、実に難しい問題である。この趣味が好き、あの人が嫌い。この仕事の進め方が好き、飲み会は嫌い、、、考え始めたら埒が開かない。
類は友を呼ぶ理論、僕は本当に正しいと思っていて、これはなぜ正しいのかって言うと、ある程度の好き嫌いが無意識で共有できているからだと思う。仲良くなる、人間関係を円滑に進めるうえで絶対に重要になってくるのがここで、特に好き嫌いもない柔軟な人以外は、この共有ができているかどうかで判断するといいと思う。ただ、全てがマッチする人なんてのはいないから注意。ある程度の共有と、一緒にいて落ち着いたり楽しかったりすればそれは類友なのかもしれない。

とまあ、ここまでは私生活寄りの人間関係の話だったが、仕事においてはどうだろう。これも僕の持論なんだが、職場の人とは類友にならない方が良いと思う。以前、普遍的と固定的な人間関係の構築についてnoteを書いたが、まさにこの部分が人間関係を苦労させる。

職場の人間関係は、徹底的な普遍で良いと思う。大人になると家族と同等に過ごす時間が長くなるのが職場の人だと思うんだけど、そこに固定的な感覚を持ち合わせてしまうと、どこかでバランスが取りづらくなってくる。ましてや、大きなお金や計画の際に私情が絡んでくるとめんどくさいし、ちゃんとした判断もできなくなる。それなら、最初から普遍的でいいし、途中から普遍的になったって大丈夫。自分と職場のためだと思えばいいし、それでも無理なら転職したっていい。今の人って、仕事での人間関係を重く捉えがちになるし、僕も昔からそうだったんだけど、もっともっとクリアでいいんじゃないかと思い始めている。その方が上手くいく傾向が最近は見てとれる。

大切にしたい人間関係は自分で選択できるし、他人任せな人間関係の渦にのまれると、気が付いたら脱出できなくなってたりするのがオチ。
そこの見極めはもっとやっていきたいし、みんなもやっていこうね。

サポートしてもらえたら、いつか還元できるように頑張ります。