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理学療法士失格

昨日観た、世界一受けたい授業。小林武彦先生の授業がとても興味深かった。

『ヒトの子育てには時間がかかる。ヒトに老後があるのは、生物学的にみれば、孫を育てるためにある』

このような話をされていた。もちろん、人間が老後を過ごす意義は様々だが、これも一つの真理であることは確かだろう。

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常々考えることがある。
「障害」ってなんだろう、と。

理学療法士は、主に「歩行障害」に対して、治療する。
でも、歩行ができないことって、ホントウに「障害」なのだろうか。
確かに、ヒトは二足歩行を獲得したことによって、進化を遂げてきた。
それに、今までの社会において、歩けないことは相当に不便だ。

そう、今までの社会において。
つまり、何が言いたいかというと、今までの社会は、「スイスイ歩ける人」という圧倒的マジョリティが暮らしやすいように形成された社会といえる。
「スイスイ歩ける人」が前提となった社会なのだから、そうでない人には不便である。
そして、「スイスイ歩ける人」は、そうでない人を区別しようとする。

そう、「障害」という名のもとに。
そうして隔離する。その名を「病院」や「施設」という。

歩くことができない方が、それを受容できないことは致し方ない。だって、理学療法士が、歩行できないことを、「障害」だと思っているのだから。

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世界一受けたい授業の話から、大幅に脱線して、色々と御託を並べてみた。
上記を踏まえて、私たちに何ができるだろうか?

きっと、これからも歩けない方は「障害」とみなされてしまうだろう。
でも、これからの社会は、不便であることに変わりはないけど、歩けなくても自宅で生活ができる社会でもあると思う。

『たとえ歩けなくても、孫を育てることができる。触れることができる。』

私は今、デイサービスで働いている。
つまり、ご自宅で過ごされている高齢者に対して、支援している。
なんとか転倒せずに安全に過ごせるように、そんな想いで支援していた。

でも、それだけじゃ不十分だし、あまりにも「歩行障害」に囚われ過ぎている。
孫に触れられるか。
孫がいなくても、家族に触れられるか。
たとえ身寄りがいなくても、理学療法士を、私を、孫と思って接してくれるか。

「そんな想いは、理学療法でもなんでもない!」
確かにそうかもしれない。
というか、「歩行障害」そのものに疑問をもっている時点で、私は理学療法士失格なのかもしれない。

でも、それでもいい。
私は、私の信じる想いで、支援していきたい。

少しでも参考になりましたら、サポートして頂ければ幸いです。