見出し画像

書籍「水たまりで息をする」

高瀬隼子さん著、「水たまりで息をする」を読了しました。
読み終わってから、「おいしいごはんが食べられますように」の作家さんか!と気付きました。

この何とも言えない読後感、伝えるのが難しいですが所感をまとめてみます。

あらすじ

三十代半ばの都内に住むサラリーマン夫婦。
子どもはおらず、二人で穏やかに暮らしていたところ、夫が急に風呂に入らなくなった。
理由はわからない。ただ、水道水が身体につくと痒いし臭いし無理なのだと言うだけ。
妻の衣津実は、ペットボトルの水で身体を流すよう言い、夫も時々しぶしぶではあるが応じる。それでも石鹸で洗わなければ体臭はひどくなるばかり。

ある日、義母のところに夫の上司から連絡が入り、彼はどうしてしまったのか、彼の状態はスメハラだと告げられたことが衣津実に伝えられる。

夫は一度訪れた衣津実の実家の近くに流れる川を大層気に入り、会社を辞めて移り住み、毎日その川で泳ぐようになる。
衣津実も一緒に会社を辞め郷里に帰り、夫と田舎暮らしを始める。

豪雨の日、家に帰ると夫はいない。
衣津実は川を探すが、夫の姿は見つけられなかった。

衣津実の態度は愛情か、薄情か?

この夫婦、仲良しなんです。
ケンカしないし、毎日一緒にビール飲んで、映画をふたりで見て、一緒に眠る。
でも、不思議なのは、夫が風呂入らん、と言い出してから、一度も衣津実がその理由を問いただそうとしないこと。
普通聞くじゃないですか?「なんで?普通に汚いし入って」って言うじゃないですか。
だんだん臭くなっていく夫とかめっちゃ嫌やし、「臭いし会社でも絶対嫌がられてるからほんまに入って」って懇願すると思うんです。

でも、衣津実はそうしない!!!
ふーん、みたいな態度で接して、じゃあペットボトルの水で流してよ、とか提案するんですが、無理強いはしない感じ。
夫はペットボトルの水も無理ではないけどめっちゃ嫌そうで、「もう十分洗えたよ」とか言うので読んでるこっちはキレそうになります。そんなわけないやろ。
でも衣津実はキレない!夫が嫌なら仕方ないか、みたいな態度。
この妻の衣津実の態度が、物語の不気味さの根源にあると思います。

何回か衣津実の独白でも語られますが、夫のことを愛してるし、大事にしているはずなのに、どこかで傍観者な自分、夫はどこまでも他人であり、その他人の行動に感情を揺さぶられていない自分に衣津実は気付いてるんです。
「違う違う、大事大事、愛してる。それはそう。でも本人が嫌って言ってるんやからどうしようもないやん」みたいなスタンスでしかいられないんです。

これって、夫を尊重していると言えば聞こえはいいですが、薄情とも取れますよね?
義母が衣津実に何度も連絡してきて、「あなたもおかしいわよ。夫が大事じゃないの?」と問い詰める場面もありますが、衣津実は「夫婦の問題やねんからほっといてくれ」みたいな姿勢で、義母をうっとうしく感じます。
でも、実は義母の方が息子を案じているし、解決に向けて何かできないかと気を揉んでるし、親身になっているということなんだと思います。

衣津実も本当はそれを感じていて、自分の薄情さ・無関心さ、義母のまっとうさに気付いているんですが、自分は夫を愛しているという自己暗示で蓋をしているんだ、と私は解釈しました。

夫はなぜ風呂に入りたくなくなったのか?

衣津実目線のお話なので、夫がなぜ風呂に入らなくなったのか、本当の理由はわからないままです。

ただ一つ気になる出来事は起こってて、風呂入らん宣言の少し前に、後輩から飲み会の悪ふざけで水を全身にかけられるという事件がありました。
ケンカしたわけではなく、ある上司と後輩がビールをかけあう感じになって、でも後輩は上司ではなく夫になんとなくかけた、という話。しかもさすがにビールは申し訳ないと思ったのか、水をかけられた。

この事件もほんま謎。
ビールかけあう場面もおかしいし、後輩が夫にかけるのもおかしいし、ずぶぬれになるくらいの水かけるってどういう状況かほんまに理解に苦しむ。
衣津実も夫も、「普通はかけないよね」みたいな会話はするものの、特にそれ以上は深追いせず終了。

ここでも衣津実の無関心さが出てる!
ふつうは、「ほんまは会社で嫌われてんの?なんで水かけられるんかもうちょっと説明してよ」くらいの威勢はあってもいいと思うんです。だっておかしいやん。

衣津実もあの事件がきっかけなんかなとは思いつつ、そこまで風呂を嫌う理由にはならへん気がするし、うつ病になったから風呂に入らない説もあるけど会社はその後も普通に通ってるし、風呂に入らない以外はこれまでと何も変わらない。落ち込んでるとかいうふうでもない。
などと頭では考えてるけど、それを夫にぶつけようとはしないんです。

いや、言って?話し合ってくれへんもうちょい?

私は、多分その事件が遠因ではあると思うんですが、直接的な原因というよりはただのきっかけであり、本当にこれといった理由もなく、突然水道水が臭くて痒いものとしか思えなくなった、ということだと解釈しました。
これは語られないのでただの推測でしかなく、推測しても意味はないですが、人間にはそういう説明できないこともあるだろうという気はします。

どこまでも傍観者な妻

実家の近くの川を気に入り、会社を辞めて引っ越し、毎日泳ぎに行く夫。
それに異論を唱えず、自分も会社を辞めてついていく衣津実。
もう色々おかしい。

それが自然なことなんだ、愛してるんだから、大事な人なんだから、みたいなことを頭で「呟いてみている」衣津実。
本当にそう思っているのかは自分でもよくわからず、あくまでそう頭の中で「呟いてみている」感じです。

夫のメタファー的な存在として、水の中にいる魚が頻繁に描写されます。
昔、台風の後に水たまりにいた魚を拾ってきて、家で飼っていた魚。
特に大事に育てているわけではないのに、めっちゃ長生きした魚。
衣津実は「大事にするとかしないとか関係ないのね」と言った母が何度も思い出されます。
この魚を、衣津実が上京するのをきっかけに捨てることになったとき、衣津実はきちんと川に返して泳いでいくのを見届けるわけではなく、海の端みたいな場所の横に、ボウルに入れたまま置いて帰ります。

「うまく捨てられたような、捨てるのさえ大事にできなかったような、両方の気持ちがした。」

衣津実の、大事なものを大事と思いたいけど大事にしきれない感じって、なんとなくわかる気がします。
大事と思い込んでるけど、実はたいしてそうでもないことに気付いてしまってる、でも気付かないふりする、っていう作業。

そして最後、夫は豪雨の中で川に行ったに違いないと思い、衣津実は探しにいきます。そこの場面がこちら。

山の傾斜に沿って家の横を流れている。衣津実は走り出した。
 といっても、もう何年も全力疾走などしていない体で、それは彼女の精一杯ではあったものの、はたから見れば小走りの域だった。はたから見る者などいないのに、彼女は頭の中でそんなことを考えていた。川へ向かう。夫が心配だ。それはほんとうなのに、頭の中は広すぎて、余計なことまで考えられてしまう。
(中略)
 懐中電灯を持ってくるか、廃校までは車で行くべきだったと、走りながら彼女は悔やむ。スリッパじゃなくて運動靴に履き替えれば良かったとも思う。そして、そんなことも思いつかないほど自分は焦っていたのだと分かり、それがまるで愛の証明であるような気がして安心する。安心していると気付き、また頭の中で自分を責める。走りながらずっとそんな風に考え続けている。

こんな一大事のときやのに、めちゃくちゃ色んなことを考えてしまう自分。
自分が焦ってたことに気付いて安心して、安心したことにまた罪悪感を覚える自分。
大事なときに、そのことだけに集中できない。
この感じって、私にも身に覚えがあります。いやいや今そんなこと考えてる場合ちゃうやろ、って自分でつっこまなあかん場面ですね。
この心理をここまで的確に描いている小説は初めて読みました。

夫は最後、死んだのか?

夫を探しに行きはしますが、夫の姿はない。
衣津実は、砂地が抉れて大きな水たまりができているのを見つけます。
そこに魚が一匹。また魚!
「帰ったらお風呂に入ろう、と彼女は思う。」
で物語終了。

結局、夫がどこにいってしまったのか、生きているのか死んでいるのかは描かれず、読者にゆだねられるスタイルです。

うーん、考えても意味はないですが、私は死んだに一票。
夫は死んだ。それを衣津実も確信した。でも、家に帰ってお風呂に入ることをすでに考えている。衣津実の無関心が最後の最後まで描かれたのだと解釈!

著者はどう思っているのか、聞いてみたいですね。


以上、今まで言語化したことなかった人間の「本当に親身になりきれない」心理をここまで鮮やかに描き出していることに脱帽の小説でした。
夫がお風呂に入らんって言い出したらめっちゃ嫌やなあ・・・







この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?