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『民俗小説 異教徒』- 財産 章 - 概要

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第四章 財産

日の出から日の入まで、一日は一呼吸のように生きる。朝は南のモンスーンを吸って膨らみ、生と喜びに満ちる。夜は逆に、呼吸が途絶える。冷凍庫付きトロール船『平等号』の船長、デニス・グリゴーリエヴィチ・ゾシャートコは、四半世紀以上をそのように生きた。昼には何からも満足を得るように感じたが、夜になると別人になったかのように、暗闇の中で絶望と憂鬱に苛まれた。夜の二人目のゾシャートコは、当直中に水兵を見ると、丁寧な言葉で罵倒し苦しめた。彼の船はカムチャッカの西岸沿いの仮泊地、ボリシェレツクに泊まり、密漁した鮭やカを積んだ、地元のセーナー船を待った。船長は大きなソファーで疲れ果て、冷たい汗をかいて痛々しく寝ていた。再び船の機械音が始まれば、生についての重苦しい考えが追い払われるだろう。しかし船は静かになった。船長は過去を手放すのを恐ろしく感じ、同時にそこから早く解放されたかった。デニス・グリゴーリエヴィチは目を閉じ、頭の中で黒い冷たい原っぱを歩いたが、微睡むことはできなかった。彼は今五十六歳の自分がこれからも単純かつ必然として歳を重ねていくことについて考えた。広い窓の向こうでは、当直の光が二回ほど揺らめいた。すると静かにドアがノックされ、水兵ヴォロパエフが何か奇妙なことをしている旨が報告された。船長は腰かけ、水兵ヴォロパエフのことを思い出した。体は頭以外、力強く巨大で、二倍働き二倍食べた。彼の中ではすべてが無限大だった。その頭は、優しいというより空っぽで、いつも何か食べていた。船長はゆっくり着替え、第二共同船室に向かった。ヴォロパエフは、上半身裸でテーブルにかけ、毛深くてそばかすの多い、大きくて曲がった背中をテーブルに向けていた。背中は日焼けに失敗し、病的なしわでただれていた。肩には青白くて薄いぼろきれが掛かっていた。共同船室の全住民は、パンツだけを履いた者と、スポーツ用のズボンにサンダルを履いた者だったが、もう部屋から出ていた。船長は梯子のところでその二人、助手、医者に会った。ヴォロパエフが助手の腕をフォークで刺したのだという。共同船室では不動と静寂が保たれた。ヴォロパエフの大きな背中は呼吸で膨らんだ。彼は突然動き、もっと強く体を曲げ、このため頭が肩の向こうで全く見えなくなった。そして待ち切れず神経質に、突発的な裏声で話し始めた。「もしもし、ライカ!雌犬め、電話を切ったな。俺は行く、頭を引き離してやる。」ヴォロパエフは白銀のフォークを受話器のようにして顔に押し付けていた。デニス・グリゴーリエヴィチは入口をまたぎ、角張った寝床に移動した。ヴォロパエフは不平を言っていたが、突然笑顔を見せた。しかし目はいつもある一点、寝床の間の穴の中だけを見ていた。デニス・グリゴーリエヴィチ自身もその場所を見つめたが、注目に値するものには何もなかった。船長は誰かの寝床から裸の女性の載った雑誌を取って、ヴォロパエフの向かいに座った。ヴォロパエフは、まるで船長の存在を感じなかったようだった。船長は、女性との電話が終わって呆然とするヴォロパエフにささやいた。「彼女に言ってやってくれないか。船長がボートを手配してくれて、もう三時間後には君の元に行くって。」ヴォロパエフは大きく、重々しく、全身を動かして船長を見ると、じっと座っていた。デニス・グリゴーリエヴィチは外に出ると、急いで水中にボートを放った。ボートの準備ができると、ヴォロパエフはゆっくりと立ち上がり、信じられない様子で出口に向かった。デニス・グリゴーリエヴィチは彼に、フォークを返しておくよう言った。ヴぉロパエフが出て行くと、梯子の近くで騒ぎ声や打撃が聞こえた。ヴォロパエフは当直の目を盗み、水兵に暴力を振るって船蔵に逃げ、鍵をかけたのだ。皆、ヴォロパエフを捕まえようと出て行き、甲板室には誰もいなかった。デニス・グリゴーリエヴィチは心の中で悪態をついたが、声には出さなかった。罵ることは好きでない。甲板で集荷灯を点けると、下の人々がよく見えた。船長は当直の職務放棄について、ゆっくりと、嫌みっぽく尋ねた。朝になり、船室に青みがかったバラ色の日の出が差す頃には、彼はこの話を忘れた。彼は目を覚まし、長いこと横になって、波が遊ぶのを見た。それから起き上がり、シャワーを浴びてローブを着た。一時間半ほどしたら、荷役を載せたセーナー船が来る。他人に失礼だからではなく、朝の快適な感触を得るために、船長は銅製の高価な鏡の前でひげを剃った。彼は、電動剃刀の音を聞くと落ち着いた。桃色の適度な脂肪は、健康の証そのものだ。それから頬にオーデコロンをかけ、しわを寄せて鼻を鳴らした。デニス・グリゴーリエヴィチは若いころから、育ちの良さそうな振る舞いや声を心がけてきた。これは習慣となり、周りの目ではなく自分自身の慰めのために努めるようになった。彼は髪がないことを恥じなかった。会談能力、良いワインへの嗜好、台所でのきめ細やかで高価な品選びなども磨いた。しかし、デニス・グリゴーリエヴィチには何らかの見落としがあった。彼の最初の妻、リュシアンは、彼は貴族社会に適応しきれない庶民であり、高慢でケチだと指摘した。彼はリュシアンを嫌ったが、彼女の言うことには先見の明があった。彼の二人目の妻は、もっと単純な性格で、あけっぴろげの馬鹿であったが、だからこそ美しかった。鋭く小賢しいリュシアンの後にこそ、彼はヴェロニカの愚かさを選んだ。しかし最初の漁期で恥をかき、彼女を許すことはできなかった。三度目の結婚では、静かな不細工だが家事能力の高いラリーサを選んだ。しかし彼女の静けさと、一種の内なる貧弱さに悩み、売春婦の元に逃げた。四十五歳を過ぎてからは、デニス・グリゴーリエヴィチはもう誰とも籍を入れなかった。大人しくて金のかからない女教師や図書館司書を選び、恥をかかない程度に付き合った。三人の正妻たちは皆、彼との間に娘を産み、今は孫娘もいた。女性たちはいつも彼から何か欲しがり、おしゃべりで苦しめた。彼は回想をやめ、漁期で利益を得ることを考えた。デニス・グリゴーリエヴィチには面白い才能があった。彼は新しく会う人々を、必要な人とそうでない人に即座にふるいにかけられた。人々を何秒か見ると、彼は何を話すべきか、どう接するべきかが分かった。デニス・グリゴーリエヴィチは、カムチャッカの引網船の船長パーヴェル・アリスタルホヴィチに会った。大きな真面目な人間の中には、石のように固い頑固さが見出された。彼はセーナー船の商品を見させに、二等航海士と一等航海士を送った。彼はビジネスパートナーを船に招き入れ、キュウリの漬物とウォッカを勧めた。彼は客の好みをよく分かっていた。客が飲んでつまむのを待ち、彼は商談を始めた。客は、鮭を買って欲しいようだ。「カニとイカはいただいていこう。でも千ツェントネルある鮭は、持っていけません。」客は当惑し、堂々たる背筋を伸ばして鮭を買うよう説得を始めた。デニス・グリゴーリエヴィチはダンピングだからと言い、笑って断った。最終的に、客は鮭を買ったらカニをおまけでつけてくれることになった。彼らは握手をし、グラスにもう一杯、なみなみウォッカを注いだ。そして飲みながら、互いに他所での取引失敗談や業務の話をした。ボトルはほとんど空になった。客は残りをグラスに注ぎ出してつぶやいた。「俺にも破産するときが来たな…」

その朝、燃える臭いがデニス・グリゴーリエヴィチを驚かせた。彼はまだ眠りから覚めず、最近見た岸辺の火事を憂鬱に思い出した。彼が目を開くと、一等航海士アントン・ブイコフが揺椅子に足を投げ出して重ね、煙草をくわえていた。(ノックもなく入って来て、許可なく俺の船室でタバコを吸うとは…)ブイコフが言うには、船長室のドアが開けっ放しだったらしい。不覚にも、船長は服を着たまま寝てしまったのだ。デニス・グリゴーリエヴィチはソファーに座り、靴下をはいた足を絨毯に放って、ブイコフに煙草を吸わないよう言った。ブイコフは渋く唇をまげ、吸い殻を灰皿に押し付けた。二人は取引がうまくいっていないことを話し始めた。オタルでは鮭の受け入れが中止になった。ブイコフは重苦しく悲しげに息をつき、アオモリかプサンの古い取引先を当たろうと提案した。しかし物価が全く危機的で、取り合ってもらえなかった。ラジオによると、不景気のようだった。二人は黙り、船長は忌まわしい予感で寒気がした。ブイコフが去ると、船長はじっと腰掛けて考えた。船長ではなく、このブイコフこそが船と漁団の本当の持ち主だった。船長はここ二年ほど指導権を握っているギャングたちに雇われた顔に過ぎなかったが、ブイコフはギャングメンバーの親戚だった。彼は金銭取引における監督役として、船長の元に据えられたのだ。漁のために種を撒き、無駄がないよう獲らせる。それをできるだけ安く、或いは無料で手に入れ、朝鮮半島や日本で売りさばく。ビジネスのメカニズムが働き、労働者が取る分よりも三~四倍の収入を得ることができる。税金は取り立てられれば必要最低限のみ支払う。船長とブイコフは、現金で賄賂を携え、モスクワに出向していつものルートを回った。しかしデパートでは分け前がもらえず、連れていかれたサウナでも金を騙し取られ、赤字で帰って来た。

船はオホーツク海を全速で進んだ。進行方向には空間が開けたが、航尾の方では、空間が渦を巻き心苦しい深淵へと消え去った。船長は後ろを振り返ったり、海の深みをのぞき込んだりすることが好きではなかった。アオモリまで、千二百マイルの静かな水が横たわっていた。しかし、船長の気分は沈んでいた。言葉にはできないような嫌な予感がした。ある夕方、彼は一時間座り、鏡に映る更けた顔を触りながら見ていた。よだれでぬれた、垂れた顎のブルドッグのような頭に、もうすぐなるのだ。彼は時間に騙されていたかのように、この変化に気が付かなかった。コニャックは彼を憂鬱に沈め、そこから全く良くない思考が生まれた。彼はいつも、海や船が嫌いだった。昼間、デニス・グリゴーリエヴィチは甲板長に会い、ヴォロパエフのことを思い出して尋ねた。物事への関心の薄い甲板長によると、彼はいつも通りということだったが、船長は見に行くことにした。彼らは甲板に降りて行ったが、ガラス越しには、何も見えなかった。甲板長は助っ人を呼びに行き、船長はボルトで、海に伸びる丘、クリル諸島のうちの一つを見ていた。船長は無意識に妄想をした。全て投げ出し、この島に上陸して、木造の小屋に住むのだ。面倒見のいい家政婦を雇って、家畜を育て、温泉に行くのだ。ヴォロパエフが飛び出した場合を想定し、甲板長は三人の水兵に網を持って立たせた。ドアを開けると、大陸の駅の共用トイレの臭いが鼻を突いた。デニス・グリゴーリエヴィチは汚らわしそうに足を少し揺れ動かした。船長は何歩か中に進み、隅に座っているヴォロパエフを見たが、別人のようだった。体毛を伸ばして野生化し、脚の間のバケツからひたすらマカロニのようなものを食べていた。船長はこの後、二度とヴォロパエフの元へは行かず、様子を聞くこともなかった。丸四日後、彼らはツガル海峡へ向かった。日本人の案内人が現れると、ブイコフは冗談を言った。「何でもお金になるんだな。サルみたいな奴に捕まったものだ。」彼はあくまで水兵を笑わせるために声に出して言ったが、まさか案内人がロシア語を理解していようとは考えもしなかった。案内人は白い制服、白い手袋を身につけ、まさにサルの如く機敏に縄はしごを駆け上り、ボルトを飛び越えた。船長は案内人の笑顔や行動を見て、彼がロシア語を理解していると分かった。船長はブイコフを注意したかったが、自分ではできなかった。小さな湾の周りの町は、まるで白っぽいカビのように丘の上に横たわっていた。町に近づけば近づくほど、丘と町のコントラストがはっきりした。丘は人間の香りのしないどの未開の地と同様、ありのままの、紫と緑だった。一方、町は動きに満ちて圧縮され、白、灰色、黒っぽい色の、背の低い家、車、岸の傍の線路、工場建築、キリンの首のような煙突などがぎっしりと詰まっていた。港と仮泊地には船がひしめき合っていた。船長はこの港をよく知っていたが、すべてにおいて気味悪い無秩序を感じた。ロシアの船も並んでいたが、税金対策で旗はキプロスのものだった。船長は双眼鏡で街を眺めながら、この地が抱く、自分たちへのよそよそしさと敵意を感じた。自分たちの方にも、その地に対して穏やかならぬ気持ちがあった。彼はこの地でしてはならないこと、言ってならないことについて考えをめぐらせた。彼の生活は順調なのかどうかはわからなかったが、少なくとも仕事と仲間には恵まれており、彼はこれに喜びを感じた。しかし、地に穴を掘られて塔が倒れるように、彼の生活は崩壊した。彼は塔の再建ではなく、倒壊の中で押しつぶされないようにすることを考えなくてはならなかった。税関で手続きを終えると、甲板に梯子が降ろされ、取引相手の男性トシコサンが現れた。お辞儀をして薄く微笑む日本人に対しては、ロシア的な挨拶が気にいられるということを、船長は心得ていた。満面の笑みで抱擁しながら、船長は心の内では別のことを考えていた。「こいつにとっちゃ、俺は騙して稼ぐためのカモなんだ。」船長がトシコサンの会社の社長や家族の消息を尋ねると、「ハラショー」という答えが返って来た。船長室で、ブイコフは特別ストックからフランス製コニャックとボンボンを出し、機敏にテーブルをセットした。船長とトシコサンは取引に入った。彼は日本人にとって発音しにくく、自分にとっては簡単なLの音を楽しんでいるようだった。「イツモ通り、良イ値ヲ払ウ準備ガデキテイマス。」トシコサンは電子手帳を取り出し、メモを取る準備をした。船長はブイコフに頷くと、彼は顔を赤くし、革製ファイルを開け、一枚の紙を渡した。トシコサンは素早く欄を眺め、電子手帳のボタンを押して微笑んだ。最初のうちは喜んでいた。「カニ…ハラショー、鮭…ハラショー、サンマ…ハラショー。カニハ、イゼンノオ値段デ買イマショウ。一キロ七百円デス。」しかし後から絶望に陥った。「私ノ会社ハ、他ヨリモ良イ値デ鮭類ヲ買イマスヨ。カラフトマスハ、百キロ四千四百円デス。紅鮭ハ五千円。」「待て、待て、」ブイコフは更に赤くなり、彼を遮った。「二倍以上も安いじゃないか。」トシコサンはもっと良い愛想で微笑んだ。「ソンナコトガアルノデスカ?私ノ会社ガ良イ取引ヲシナイナンテ。」船長は落胆した様子で尋ねた。「あなたは昨日と一昨日、魚にいくら支払いましたか?」「昨日ハ、カラフトマスガ五千円、鮭ガ五千六百円。一昨日ハ、更ニ三百五十円髙カッタ。」船長は、トシコサンが嘘をついておらず、他の日本人同様、「いいえ」と言わなかったし、悪いことも言わなかったと理解していた。合意後、ブイコフがトシコサンを泥棒呼ばわりすると、普段静かな船長が怒鳴った。「ここから出ていけ、馬鹿者!」ブイコフは、口を大きく空けて静止した。船長とトシコサンは、互いに目を伏せて別れ、出荷作業に入った。この後、船長は部屋に籠り、他の取引に参加しなかった。彼は立ち襟の制服を脱ぎ、長いこと冷たい水で手を洗った。それからトシコサンが先ほどまで座っていた安楽椅子に腰かけ、小さなショットグラスでコニャックを飲み、ボンボンを食べながら、アメリカのくだらない番組を見始めた。彼は心を休ませ、世界のことは全部忘れ、自分がまどろむのにも気付かなかった。

しばらくすると船室がノックされ、デニス・グリゴーリエヴィチは目を開いた。彼は長い間、肘掛椅子に揺られながら、居眠りをやめなかった。再びドアがノックされたが、船長は他の音に聞き入った。出荷作業の騒音である。窓の光は太陽ではなく、大部分がもう電気の光となっていた。足でノックする音がし、デニス・グリゴーリエヴィチは起き上がった。ドアの向こうには興奮で汗だくのブイコフ立っており、船長の安楽椅子に腰かけると、何かペンで書き始めた。「今日、我々の負債は千四百万円になりました。」彼はメモ帳を見た。「ドルに換算すると、約十三万五千になります。」「そうか。」デニス・グリゴーリエヴィチは眠そうにむにゃむにゃ言った。「以前のレートでは、損失を埋められないか。」ブイコフは心から驚いた。「以前のレートは以前のレートです。今の我々の負債は、十三万五千なんです。」デニス・グリゴーリエヴィチは不意に洗面所に行き、五分ほど、入念に顔を洗った。「我々の負債とは、どういうことですか?私も責任を負うのですか?あなたたちが進めていたことじゃないですか。」ブイコフはうなり、自分には何も分からないと言った。二人は何とか感情を殺しながら、互いの責任の所在について話し、船長の提案でコニャックを飲むことになった。

暗いところに生きる思考がある。それは洞窟ですらなく、寝床、複雑な、曲がりくねった、理性の気味悪い深淵にあり、探し当てることも、触ることもできない。この思考は内側から噛みつき、ひっくり返り、唸り、疼いている。デニス・グリゴーリエヴィチは、頭の中に重さを感じながら、目覚ましが鳴る前に止め、催眠状態で夜中の二時に目を覚ました。船長は起き上がると、機械の音と何かか細い歌声を聞いた。そして寝床の下から、夕方準備した物を入れた麻の袋を取り出した。彼は服を着て、耐火金庫から残りの金を取り出した。制服の内側のポケットに身分証を突っ込み、ボタンで留めた。サックのピストルを取り出したが、それをひとまず寝床に置いた。丸帽ではなく、革のキャップを被り直すと、市場に買い物に行かされた家の主人のようになった。それからやっと外に出て、ドアに鍵をかけ、甲板に出た。ディーゼルの音が大きくなり、足の下では鉄が音をたてた。船長は忍び足で甲板長の船室へ行った。ノックをしたが答えはなく、彼は誰にも見られないように肩で押すと、ドアが開いた。甲板長は、死人のように両手を胸に重ね、仰向けに寝ていた。彼の寝床は背の高い側壁が付いていて、まるで広い棺の箱のようであり、暗闇で細き静寂を保っていた。船長が囁いて呼びかけると、甲板長は輝く目を大きく見開いた。船長は、甲板長がまだ何も見ておらず、聞いていないし考えていないということが分かった。甲板長が理解を始める前にはまだ五分か十分必要だった。甲板長は、起きあがりながら、船長が自分に頼んだことを一言ずつ思い出し、すべきことをすべてした。船長は夜の動きの暗闇の中、静かに甲板に出ていった。風は昼よりもかなり冷たく、プロジェクターの照らす広場では、何羽かカモメが飛んで行った。これらはいつも同じ鳥たちが、二十四時間ずっと寝ずに飛んでいるように思われた。彼は自分の前に夜だけを感じ、自分は未来へ踏み出すのではなく、夜の不可解さに踏み出さねばならないと知った。そこではもう、運に任せるしかない。甲板長は制服を着ると、船長は本当に自分の所に来たのか、それともただの幻覚だったのか考えながら、やって来た。船長は甲板長に頼んだ。「俺は内緒で出て行くから、当直の男を連れて来て、ボートを出す準備を手伝ってくれ。あまり音を立てるな。」甲板長は頷いた。当直は、まだ最近結婚したばかりで、非常に陸を恋しがっている若い男だった。船長は愛想良く微笑み、考え事をした。黄色や赤の明かりの中、すべてがあるべき場所にあり、秩序の中にあった。彼は自分の船室に戻り、船が速度を落とすのを感じた。ディーゼル機関の音は老人のつぶやきのようになった。船長は外套を着ると、ポケットにピストルを突っ込み、麻の袋を手に取って出た。ドアに鍵は掛けなかった。彼が船尾から暗闇にやって来ると、星空から切り断たれて暗い巨大な丘陵地が見えるようになった。そこから生まれる何か心の中の気味悪いもの、偉大な大地の力そのものが、彼の目の前に何キロメートルにもわたってそびえていた。トロール船は島の北側に着き、国境警備はなかった。船長は一分静止し、丘の暗いシルエットを見始めた。ある一か所だけで、小さな焚き火らしき光が見えるだけだった。想像上の、夜の炎の神秘性とその周りに広がる不思議の王国からはかけ離れた現実であった。火の近くには、酔って疲れた、剛毛を生やした漁師たちか、おかしな期待をする学者か、その他何かの土方や皮をはぐ職人しかいない。船長はモーターボートに近づき、麻の袋を投げ入れた。甲板長は、賛成の意と信頼をもって船長に別れを告げた。ボートは船から遠ざかり、波の上に放たれ、水の接吻がピシャピシャと音を立てた。船長は船尾に這っていき、良質なエンジンを見た。岸は大きくも近くもならなかった。岸や大洋には、いかなる境界も見えなかった。下には闇が横たわっていたが、丘の影と火山の大きな円錐は、はっきりと見えてきた。ボートは波の中で舞い上がり、船長には、速く動いているのか遅く動いているのか分からなかった。船長は何かの気配を感じた。すると突然、大きなシートの山がボートの船首へ動き出した。風は吹いておらず、船長は恐怖を覚えた。シートは持ち上がり、暗くて大きな人間の影が伸びた。船長は完全に無我夢中で、その人にピストルを向けた。思考が戻ると、大きな人の正体はヴォロパエフだと分かった。船長は、彼が何かしてきたら撃とうと決めて、銃身を挙げた。彼は混乱した。どうしてここへ?ある最後の瞬間になって、彼はボートの平行な動きに異変が生じるのを感じた。ヴォロパエフもこれを感じ、突然、ボートが何かにぶつかり、全てが視界から消えた。船長は正面から船底に落ちた。ドンと全身を打ち、次の瞬間には彼の顔に水が流れ込んだ。胸と顔に冷たく塩辛い急流を受けながら、彼は何とか起き上がり、ボルトにつかまって、必死で麻の袋を探した。波は彼の全身に流れ込み、死んだようにも感じた。辛うじて呼吸をしながら、彼は流され、岸を感じ始めた。陸自体を見たのではなく、彼は裸足の脚で、痙攣する大きな指で、底を触ったのだ。それから四つん這いで岸に上がり、砂の上に横になった。全てが視界から飛んでいき、全ての水平性が意味を失い、立ち上がる理由も、方向もなかった。心臓は腹から喉まで打った。そして船長は、脳か心臓のどこかで激昂した血脈が内面で噴水を起こすのを感じながら、息を吐く力もなかった。彼はほとんど動物的恐怖を感じ、笑う準備ができていた、なぜならもうこれ以上、自分にはなにも起こることはないと分かっていたからだ。

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