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民俗小説『異教徒』- 火 章 - 概要

両親に掲げて

第一章 火

人間の居住は、自然の奥深くに及ぶことがある。プカプカと大洋を進めば、波、雨、風、泡に終わりがなく、自然は無限であると分かる。障害を知らない空、雲、海に対し、島の火山、丘、集落、柵のように並んだ船はこれを遮る存在だ。岸辺、すなわち足場はどこか。大洋はどこか。島では全てがよく分からないものに耐え、岸に身をひそめている。夜になると、岸辺にはまばらに発電所の光が瞬き、島はまるで神に見放された孤児のようだ。小さな海辺の集落は、大国を救ったこともあったが、今は国家の発見者に忘れられたようで自分の時間を進んでいる。

そんな国後島に二日間にわたる台風が訪れ、住人たちは損害の計算をしながら、樽の中のグビドン王子のように住居にこもる。三日目の朝に台風が去ると、集落で火事が起きた。築百年程の、老朽化した日本建築が、住人の所持品とともに渦巻きとなって燃え失せた。台風の湿気の中で火事が起きたのは不自然だから、放火犯がいるのかもしれない。家の左半分に住んでいたターニャ・スィソエヴァは、火事の前夜、飲み会の後に自分の部屋に這いこんできた醜い男、ミーシャ・ナユモフのことを忌まわしく思いながら、恐ろしい妄想ばかりに襲われ、寝苦しい夜を過ごしていた。右半分にはセミョーン・ベッソーノフ夫妻が住んでいた。ベッソーノフは隣人のターニャが火事の煙に巻かれ、自室の床で動けなくなっているのを救出した。その後、消火や救助活動に走り回る人々の中でただ一人、家が燃える様子を何もせずにただ眺めていた。警備のサン・サーヌイチは言った。「売春婦のターニャなど助けず、妻とともに所持品の救出に当たれば損害が小さかったろうに。」群衆からは、ベッソーノフに好奇心の視線が投げられる。年老いて太った妻とは口論になった。妻は借金をして大陸の実家に出て行くと泣く。妻のために、焼け残った所持品を物置に運んでいると、ベッソーノフは診療所からやって来たターニャに遭った。何か言わんとしているターニャに、ベッソーノフは背を向けた。

三十五年前、サハリンのオハのタタール人街にて、ターニャは望まれない妊娠によって生まれた。美しく成長したが、実母からは愛されなかった。家庭内で父親のように世話をしてくれた母親の愛人は、ターニャを好いてくれたが、ターニャが七歳の時に亡くなった。葬式後には沿海州の大きな孤児院に引き取られ、十六歳になるとウラジオストクの港の娼婦になった。ターニャは詩が好きで、客にはその教養とロマンを評価された。十七歳の時、嵐吹く日本海を通って南クリル諸島に行く機会があった。工船の中では吐き気がするまで船員たちに輪姦された。全てが終わって甲板に出ると、透明のエメラルドの海と、暖かい霧に包まれたクリルの島が視界に広がり、耳に超人為的な音を感じた。それはカモメの鳴き声、海が石にぶつかる音だった。クリルの島は、まるで牢獄の頭上の空が既決囚を惹きつけるように、ターニャを惹きつけた。

それから三年後、ターニャはクナシリ島での魚加工工場での仕事に応募し出稼ぎをすることになった。その後も何期か立て続けにクナシリやシコタンでの仕事に応募し、魚加工現場の劣悪な環境にも慣れていった。ターニャのように、仕事の募集ごとに定期的に島に来ては寮に住む女性たちは「サンマ」と呼ばれていた。七期目の仕事で島を訪れた時、ターニャは島の集落の傾いたぼろい小屋に部屋を借りて定住することになった。ピークには一か月の休暇を取ってレニングラードを旅行するほど稼ぐことができたが、国で金融危機が起こると生活が苦しくなり、日本人の事業に安い労働力として出向いた。そこではスーツを着たヤマダサンから、考える前に手を動かし、無言でただ働くことを教え込まれた。ターニャは奴隷のように二週間働いたが、ある日突然、ヤマダサンに向かって熱い大エビの容器をぶちまけて言った。「君の中にロシア革命を!」その年にたくさんの定住者が島を出て行ったが、お金なしでも、魚と農場で十分に食っていける島に出戻って来た。残ったターニャには、古いがこぎれいな日本建築の二部屋が優先的にあてがわれた。島には女性の二倍の数の男性が住んでおり、何人かと結婚したが、皆ターニャの元を離れて行った。ターニャは娼婦だった頃に、子供ができないよう手術をしていた。孤独から悪い妄想に苛まれるようになり、火事の二年前までには、大切にしていたお気に入りや自作の詩の書かれたノートを燃やした。

火事の後、ターニャは人気のない集落の古びた家に部屋を借りた。ターニャが海辺で水浴びする様子を、日本の密漁者たちが観賞した。密漁者らがするように、彼女もまた罠を張ってエビやナマコ、ハゼを捕まえ、調理して食べた。或る夕方、ターニャは岸辺でマニ・ルイバコヴァおばあさんに出会う。おばあさんは岸辺で治療をしていたのだという。サハリンで医者にかかったとき、喘息には海の空気が効くと言われたのだ。二人は煙草を吸い、最近店に日本製の小麦粉が入荷されたことが話題に上がる。おばあさんはまどろみはじめ、同居している二十五歳の孫のヴィーチャ・ルイバコフのことを考える。翌日、おばあさんは自らターニャの新しい小屋を訪問し、開いている窓枠をセロファンで覆うよう助言する。二人が煙草を吸っていると、霧の中に日本の小舟らしき影が霞んだ。おばあさんは枯れた声で、誰が乗っているのか船に尋ねかける。ターニャが放っておけと言うと、おばあさんはターニャが年寄だと指摘した。ターニャは頭にきて、ポリエチレンで窓を覆いに行く。ところが、台風で傷んだ屋根は崩れかけ、ターニャは降りるに降りられなくなった。「母」に助けを祈っていると、下には見物人が集まり、「このままターニャを見物しよう」と冗談を飛ばし合う。ターニャを抱きとめたのは、マニおばあさんの孫で漁師のヴィーチャだった。見物人の漁師たちは、日本の密漁船が自分たちの管轄内に入り込んでいることに気をとられ、ボートで出て行った。ヴィーチャ、赤毛のヴァレーラ・マトゥセーヴィチ、肌の黒いジョーラ・アフメテリは、日本の密漁船が、自分たちの罠にかかったエビを横領していることを確認した。日本の船を追いかけ、あと少しのところで手が届きそうだったが、なぜかヴィーチャが銛を投げ、逃げ切られてしまった。

ターニャは或る日、店にパンと砂糖を買いに行った。そこにいた農婦らに、いらなくなったガラクタを押し付けられて帰って来た。夜、マニおばあさんに貰った布団にくるまって永遠の夏を思い描いたが、悪い妄想の癖が邪魔して寝付けなかった。彼女の小部屋に侵入した恐ろしい影は、ヴィーチャのものだと判明した。ターニャはあらゆる感情が爆発して泣き出し、驚かしたヴィーチャを責める。雨が降り、みじめな小屋は雨漏りがする。ヴィーチャはターニャへの想いを打ち明け、この部屋に残ると告げる。

二週間ほど経って、ターニャはヴィーチャに言う。「あなたと島を出て行けたらなあ。お金も、行く当てもないけれど。」その翌日、ターニャは商品のトラックの荷揚げに同行するアーノルド・アーノルドヴィチに出会う。彼の手は後ろで組まれ、自分では仕事をしない。太ったアーノルドはターニャに、ヴィーチャのことを本気で考えないよう忠告する。ターニャが放っておくように言うと、アーノルドは従弟にあたるヴィーチャを放っておくわけにはいけないと言う。「だったらヴィーチャに金銭的支援をしてやればいいのに」と言い残してターニャがアーノルドの元を去ろうとすると、彼は黒いジープで彼女に追いつき、一万円札を渡した。ターニャはその日のうちにこれをルーブルに換金し、寝床に隠した。その夜、寝床でヴィーチャは、ターニャがアーノルドにお金をもらったことを責める。翌朝、ミーシャ・ナユモフがターニャの部屋を訪れるが、ヴィーチャが追い払う。ベッソーノフより「家に火をつけたのはミーシャだ」とターニャが言っていたと聞きつけてやって来たのである。ターニャとヴィーチャの幸せな時間に、ミーシャの訪問が重い影を落とした。その翌日、二人は老いた鶏とじゃれ合って追いかけ回すマニおばあさんに会う。ヴィーチャが鶏を捕まえてスープにするのだと勘違いして殺すと、おばあさんは何てひどいことをした、何事も聞いてから実行するものだ、と孫を責めた。おばあさんはその後、ウォッカを飲んだ。

夕方、酔っぱらったマニおばあさんは、独り歌って踊った。夫、ヴァーニャが人生を逆戻りし、乾いた胚児のポーズで死んだことを回想した。そこでほろ酔いのベッソーノフらに出くわす。ベッソーノフはおばあさんを「クリル創設からの一番の年長のお姫様」と呼び、ウォッカを注いだ。口論が始まり、これを逃れるようにおばあさんが彷徨い出ると、自分の夫が誰かと寄り添っている蜃気楼を見た。たき火の元では、ベッソーノフとウドドフが引き続き口論していた。おばあさんはターニャの膝の上に頭を休ませるヴィーチャを見つけ、二人の関係を嘆く。ベッソーノフは、ターニャのことを死んだ女性のように嘆くものではない、と言う。おばあさんは一九四三年に死んだ娘を思い出して泣き、裸足で水に入り、死んだ夫の名を呼んだ。

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