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交い湖 Episode 1

執筆:ラボラトリオ研究員   畑野 慶

明鏡止水

遥か昔、この国の臍にあたる窪みは広大な湖でした。四方を高い山でぐるりと囲まれ、春の芽吹き、夏の蒼翠、秋の紅葉、冬の雪化粧と、晴れた日には四季折々の山並みが逆さに映りました。

わけても絶景は、夏から秋にかけての夕焼け。緑がかった淡い藍色の湖水が、刻一刻と橙色に染まるのです。西の空と触れあう稜線は燃え上がるように輝き、吹き下ろす風によって湖面から光の水滴が舞い上がることもありました。そして夕日がふっと消える瞬間は、見る者にため息を誘います。落胆とも幸福とも取れる一息。辺りは静謐な闇に包まれて行くのでした。

湖の北側に二つの小さな村がありました。東寄りと西寄りに、急がず歩けば片道で半日近く掛かり、言い伝えにある水位の上昇を警戒して、いずれも湖畔から少し離れた山肌の上です。

ドングリ類を土器で煮るなどして、灰汁抜きする技術を持っていた村人たちは、植物採集と魚釣りを主な食料源にしつつ、小石だらけの狭い土地を耕してヒエやキビの収穫もありました。山の中ですから、広く平らな土地はありません。皆が貧しく、協力し合い、収穫物は均等配分でした。上下関係もなければ村同士の争いもなく、彼らは武器を何一つ持っていませんでした。狩猟の為の道具のみです。石斧にしても黒曜石の矢じりにしても、向ける先を転じて悪用しようなどとは誰も思いませんでした。

狩猟は必要な分を超えず、儀式としての祈りがありました。命の尊さを、人の死が身近にあることで彼らは良く知っていました。母子共に命がけの出産で生を受けた子どもの凡そ半分は、成人を迎えられなかったのです。成長の足跡を足形の土器にして残す為、それは子どもの遺影にもなりました。在りし日を思い出して涙を流す親の姿は、古今東西ここでも変わりません。成人と結婚は有ることが難しい、まさに有難いこととして、村全体でお祝いしました。


彼らは自然の動きに鋭敏で独自の暦を持っていました。今日で言う夏至の日も把握できていて、成人式は隔年ちょうどその日の夕方に、二つの村合同で行われました。開催地は交互になり、村の中心にある広場を使います。

男女の出会いの場としての役割もあり、大人たちはイノシシの文様が入った特別な土器を用意してご馳走を盛り付けました。気が早い話で、一度に多くの子どもを産むイノシシには多産の願いが込められているのです。実際、そこでは毎回結びが生まれます。

決められていたのは、男から声を掛けることと、それは一人でなければならないこと。好機は終盤、日が落ちてから焚き火を囲んで踊る際です。女たちはこの日の為に着飾り、一緒に踊りませんかなどと声を掛けられるのを待ちます。断ることはできました。ですから、男たちは声を掛ける前に必ず相手の目を見ます。探りを入れるわけです。微笑んでくれるだろうか、目を背けられるだろうかと。

陰ながら

ある年の成人式、妹の晴れ姿を見ようと隣村までやって来た男がいました。背丈は低いものの、体は筋肉質に引き締まり、若き生命力がみなぎっていました。自慢は飛ぶように速く走れる足です。わけても急坂な山道を駆け降りる技術は誰にも真似できず、神が宿る足と称えられました。

彼が最も大切にしていたのは母と妹です。父は幼い頃に亡くなりました。その理由について母は何も語りません。周囲の人たちからは、母を助けてのことだったと、詳細を濁して教えられました。それを聞いてからは、いつでも父に見守られている気がしました。必ず親孝行をすると心に誓っていました。苦労した母への感謝もさることながら、父亡き後を支えてくれた人たちへの感謝も常にありました。まさに好青年。彼の名はナマヨミと言います。


日差しにも祝意がありました。ナマヨミは少し汗ばみ、父になったような心持ちで妹を見守りました。息をのむ美しさの、赤を基調にした晴れ姿に至るまでの道のりを思い出して、自然と涙が出て来ました。無様に泣いてしまうと予期していた為、自分は行かないと周囲に伝えて連れ立たず、祝いの席に加わっていませんでした。遠目に見つめる先には幸せそうな母の姿もあり、皆無事に到着したと知りました。

新成人を数えると十人に満たず、隔年開催の理由たる少数ではありましたが、大小いくつもの旗が色とりどりに夕空をはためき、心なしか前回よりも華やかになっていました。一目見ることができた満足。ナマヨミはもう少しだけ見ていたいと逡巡して、母に気づかれたと感じてから帰路につきます。それでもまだ日没前でした。妹が誰に声を掛けられるか気にしつつ、それを見たくない思いもありました。


ナマヨミの自己評価は半人前。二年前の成人式で誰にも声を掛けず、未だ妻をめとっていませんでした。ですから、妹の結婚相手にも一人前を求めていましたが、そうも言っていられない噂を耳にしていました。神が未婚の娘を花嫁として呼び寄せるというのです。

湖底にあると言われる神々が住まう場所への嫁入りは、彼にとって死を意味しました。本当に神がいるのか、言い伝えられている話に疑いを持っていました。ですが、明確に異を唱えられません。強い自己主張は周囲に迷惑を掛けることでした。

村のしきたりに則って妹に良縁があることを祈りました。祈る対象は父です。隣村から帰宅した晩は寝付きが悪く、幾度か外に出て夜風に当たりました。


母と妹は明くる日に笑顔で戻りました。客人として隣村に宿泊したのです。そのような経験は初めてのことで余程疲れたのか、二人は竪穴式の家に潜り込むと、まだ日が高いにも関わらず眠ってしまいました。そしてナマヨミは朝を待ち、起きてきた妹に問い掛けます。良縁はあったかと。

「なかった」

あっけらかんとした答えに妹らしさを感じながらも、詳しく訊かずにはいられません。どうやら声は掛けられたようでした。断りを入れた理由に見た目のことばかりを挙げた為、ナマヨミは叱りつけます。人は見た目ではないと。

ですが、妹の反論も正しく聞こえました。たしかに初見では見た目で判断するしかありません。もっと互いを知り合う場はないものかと悩み、妹に断られた男のことを思いやります。なぜ声を掛けたのだろう。探りを入れなかったのか。汲み取れなかったのか。


来訪

その答えは数日後、家の前で示されます。一瞬女と見紛う顔立ちの、色白の男が訪ねてきたのです。気まずそうに家の中に隠れてしまった妹を見て、彼が何者なのか分かりましたが、断られた女の元に隣村からやって来る話など聞いたこともありません。

ナマヨミは二人で話をします。弱々しい外見からは想像もつかない心の内を語られます。彼の諦められない思いは力強く、純粋にまっすぐでした。

なぜ一目見ただけでとは訊きません。あの日の妹はそれほど美しかったという欲目がありました。なぜ一人しか声を掛けなかったのかと憤るほどでした。男たちが内面的な未熟さを感じ取ったとしても、今後を左右する心根は澄み切って清らかであると、思うほどに、この男だけがそこまで見抜いたのだと感心させられました。

「これをお渡しください」

驚くほど手が込んだ首飾り。淡い緑色の翡翠が中心に据えてありました。まさか君が作ったのかと問い掛けると、男は白い肌を赤らめて小さく頷きました。これほどの物が作れるとは、そういう役割に徹しているのだろうと思いました。普段、縦横無尽に駆け回らない男が、ここまで遥々一人でやって来る苦労を想像しました。

「では、また来ます」

妹と話もできず帰って行く背中は寂しそうでした。ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、引き止めなかったことを後悔しながら妹に首飾りを手渡すと、彼女は今にも泣き出しそうな顔でした。どうしたら良いのか分からないのでしょう。たった一言、綺麗と呟くだけでした。

「また来ると言っていたから次は会ってあげなさい」

男が無事に帰郷することを祈りました。これは妹の良縁であるから父が守ってくれると信じました。危ぶんだ空は数滴を落とすにとどまり、次第に雲の切れ間が見えてきました。

(つづく)


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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。



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