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日本の敗戦と起きられない朝

 最近、日本の歴史を学んでいて思うことがある。それは、第二次世界大戦の際に、何でもっと早く降伏しなかったのかということだ。太平洋地域やアジアの各地で日本軍は多くの死傷者をだしており、勝つ見込みはほぼなかったのに、なんで日本は早く降伏をしなかったのだろう。

 1941年12月7日(現地時間)、真珠湾攻撃が行なわれ、日本は対米戦争の火ぶたを切った。それによって、それ以前から戦われていた日中戦争は、世界戦争へと変化した(実際には、真珠湾より早くイギリス領であったマレー半島への上陸が行なわれている)。戦争開始時は、日本軍が連合国軍を圧倒していたが、1942年6月のミッドウェー海戦、翌年2月ガダルカナル島陥落などによって次第に劣勢となっていった。そして、1944年6月から7月にかけてマリアナ沖海戦で日本海軍はアメリカ海軍に完敗し、サイパン島の日本軍が全滅したことから、日本の敗北は時間の問題となった。

 当時、首相であった東条英機は、サイパン島の陥落や閣内における反東条運動によって、首相を辞任し、後任として陸軍の小磯国昭が首相となる。その小磯内閣のもとで、戦争の効果的遂行と外交的打開の道が探られた。それは、軍事力を結集してフィリピン防衛に全力を挙げ、敵に大きな打撃を与えることを期待する一方で、対中国、ソ連関係を改善し、和平の道を探るというものであった。しかし、敗戦がほぼ確定した日本の側に立つものなど居らず、結局これらはすべてうまくいかないのだが、ソ連への連合国軍と日本の間の調停要請は終戦の直前まで続けられていた。しかし、それは願望以外の何物でもなく、日本側が協力を得られると勝手に信じ込んでいただけであった。

 なぜ、ここまで、可能性のないものに固執し続けたのか。それは、陸軍が日本への好条件の講和でない限り、徹底抗戦をする姿勢を貫いていたからである。粘って粘って、連合国軍に打撃を与え、それによってよい条件を引き出そうとしていた。これを知ったとき、はじめはさんざん負け続けていて、どの口がそんなこと言うんだアホらしいと感じた。しかし、自分のことを考えると、そんな風に言えないことに気づいてしまった。

 自分の話になるが、最近昼夜逆転が止まらない。毎日4時5時に寝て、昼の12時に起きるといった生活が続いている。正直、これを直したい。けど、早く寝れないし、早く起きられない。そもそも、早起きが苦手なのは今に始まった話ではない。昔からそうだった。目覚ましで起きるものの、まだ寝れるって思って、それを消して二度寝する。それで、起きたら時間ギリギリとか寝坊とかすることがよくあった。というか、今もある。そして、こういう自分のことを考えると、戦時下の日本陸軍を馬鹿にできないなという気持ちになる。

 ぎりぎりまで引き延ばして、なんとか日本に有利な条件で講和を結ぼうとして、被害を出し続けた日本陸軍、一方、朝ギリギリまで寝ていたくて二度寝した結果、時間ギリギリになったり寝坊する自分。どこがちがうのか。本質的には一緒ではないだろうか。自分の人間関係や社会性が焦土と化さないように、しっかりさきのことを考えて、一回の目覚ましで起きようと思った。日本の敗戦から、そんなことまで学べるとは、歴史は奥が深い。

※本文中の日本の敗戦経緯に関する記述はすべて、有賀貞『国際関係史:16世紀から1945年まで』2010年、東京大学出版会、に依拠している。

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