「小義を捨てて大義をとる」は、正しいでしょうか?今日の写真は黒豆とクリームチーズの酒粕マフィンです。電子レンジで10秒チンしたら酒粕の香りが食欲を増します。
「小義を捨てて大義をとる」が普通の考え方で、そうしなければ大義を行うことができないと思い込まされていて、大きな事を行うには小さな事はしなくて良いと間違った判断をしているのです。
大きな事は小さな事の積み重ねです。「小義を成して大義にする」関係のない事だと小義をしないのは大事になる場合があります。多少の犠牲は仕方がないと物事を行うと自分が犠牲者になって悔やむ事になるのです。
具体的に話をせずに、たとえ話でするのは本質が代えられる事になります。
自分の得意な分野に置き換えて話をする人がいますが、それは本当のことを伝えた事にはならないのです。野球などのスポーツは、ルールがあって野球であれば野球のゲーム中であればその対応は正しいのでしょうが、子供の教育を野球の話では伝えきれないのです。野球では犠牲フライを打って点数に結びつけるのですが、人が誰かのために犠牲になるとそれを恨んだり怒りの感情となって幸せを奪われたと思うのです。犠牲ではなく自分は幸せだと思う事だったならば恨んだり怒ったり悲しんだりする事は無いのです。
小義を捨てないことが少数意見を捨てない事だと思うのです。ジュンダー、少数民族、人種差別、宗教、国など多数決で決められると少数は犠牲とならざるを得ないと思うのです。
玉虫色、風見鳥と思われても少数意見を捨てない。拾い上げるのことが必要だと思うのです。でも、人の幸せを奪う考えには反対します。なんでも取り上げて、個人の私利私欲によって誰かが犠牲になる事に加担しないことがないようにしましょう。
「同性婚は見るのも嫌だ」と言った岸田総理の秘書官、荒井秘書官が更迭されました。更迭された理由は、政府の方針である「今の内閣の考え方には全くそぐわない言語道断の発言だ。『性的指向』や『性自認』を理由とする不当な差別や偏見はあってはならない」と岸田首相が述べました。
小義だと思ってはいけないのです。差別、偏見とは、無知から生じると前回で述べました。そして他人の幸せを奪うことだとも言いました。
元男の女性から好意を持たれたら、こちらも好意を持つでしょう。
悪意の気持ちで接してこられたら、こちらは、不快感を持ちます。
ジェンダー、差別、偏見の前に、悪意の気持ちでこられたら不快になります。
自分の意見を通すために、暴力や暴言、嘘や虚言があったならば信用できないのです。相手を信用できなければ意見を聞くこともできないのです。
ではどのようにして信用すれば良いのでしょうか?
信用は信用することから始めなければなりません。信用して裏切られたら縁を切れば良いのです。縁を切ることができなければ、幸せを願うだけで何もしなくて良いのです。
信用するよりもさらに自分と一体化すれば裏切りなどありません。なぜなら私とあなたの境が無いのですから失敗があっても裏切る事はないのです。
思いも考えも同じであるのならば失敗は致し方ないのです。
小義を小義だと思わず、自分のこととして対応するのです。他人事では無いのです。他人事だとして諦めてはいけないのです。
大義を小義だと思って捨ててしまっている場合があります。それは、他人の幸せを奪ってはいけないということです。他人を幸せにするどころか自分の幸せも手に入れられないのが実情です。でも、他人の幸せを祈る事はできます。他人の幸せを祈るだけで何もしないのであれば、他人の幸せを奪う事はありません。
自分が幸せになれる事に専念できるのです。他人を幸せにしようとしてもその幸せを知る事はできません。なぜなら幸せはその人が感じる事だからです。
小義も大事も自分のことになれば大義です。他人のことならば大義も小義になってしまいます。もしも自分の大義を通したければ他人に自分と一体化できるまで説得をして納得するのです。相手のことも納得できているのが一体化する事です。
小義も大義も大事です。