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禅問答

今日の写真は串本にある橋杭岩です。

禅問答ぜんもんどうとは仏教用語で、禅宗の僧が悟りを開くためにおこなう問いと答えのやり取りです。 これが転じて、話の噛み合わない言葉のやり取りという意味で普段から使われています。

私はこの禅問答が好きです。禅問答の話が噛み合わない原因は難しい言葉が出てくる。意味がわからない。理解できないからです。

禅問答は自分の力で悟りを開くために難問にしているのです。
悟ることが解答ですから答えは一つではありません。数学のように誰が答えても答えは一つでその解き方が複数あるような物とも違って答えも解き方も複数あるのです。

悟ることは無いと思っています。禅問答には公案と言って問題集と解説をセットにしたテキストのようなものがあります。公案を覚えて、理解したら悟ることができたと思うのは間違っていると思うのです。

悟るとどのようになるのでしょうか?学ばなくても良いと思ってしまうのです。学びは悟るためにするのでしょうか?そうではなく学び続けることが悟ることだと思うのです。悟るために学び、学ぶことが悟ることだとするならば悟ることは無いようで悟っていることになるのでは無いでしょうか?

人の幸せにつながる学びが悟ることでは無いでしょうか?

人の幸せってなんでしょうか?欲求を叶えることでしょう。でも欲求は際限がありません。満たされることが無いのです。腹八分目で満足する術を学びましょう。

大きな欲求は、夢とは違います。希望でも無いのです。大きな欲求とは満たされない欲求のことです。夢は努力すれば叶います。希望はいだくことで前に進めるのです。

学びましょう。腹八分目を知りましょう。夢や希望は欲や野望とは違うのです。夢や希望は生きるための原動力です。

他人の夢を潰してはいけません。希望を捨てさせてはいけません。

夢を語りましょう。希望を与えましょう。
大丈夫、今生きている。明日も生きる。死ぬまでは生きている。