自分が他人と違う事を自分では気づかない。今日の写真は、キノコとベーコンのおろし醤油ソースのパスタ。
自分と同じだと思って接すると違ってびっくりする事があります。他人が違っているのではなく自分が違っているのです。自分のすることは常識だと思っているのです。当たり前は自分の中だけのことだと気づかないのです。
孤立して生活すれば他人のことがわかりません。社会人としてのモラルを学ばずに他人に迷惑をかけるのです。迷惑とは他人の幸せを奪うことです。
電話で「お忙しいところ申し訳ありません」で始まる会話に良い事はありません。「こちら〇〇です。✖️✖️さんはいらっしゃいますか?」は伝えたいことがあるとわかります。
他人の幸せを奪わないのは自分の幸せを奪われない為です。他人に幸せを与えると思っていてもその幸せは他人の幸せですから自分にはわからないのです。幸せとは自分が感じることで、他人の幸せを見て自分も幸せだと感じる事はあっても自分が幸せだから他人が幸せだとはいえないのです。
幸せだろうと思っていても迷惑をかけることになる場合もあるのです。
幸せになって欲しいと願うだけであれば相手に迷惑をかける事はありません。でもなんらかの縁で自分と相手の心が一体化したならば相手の幸せも自分の幸せも一緒に感じることができるのです。
相手が何を考えているのかわからない。喜びも苦しみも一緒に分かち合おうと思っていないのは、心が一体化したとは言えないのです。
心が離れているのに気づかず何かを一緒にしようとしても成らないのです。
自分の心を伝えましょう。そして相手の心を見聞きします。それを遮るのは相手の幸せを奪うことになるのです。
自分と他人が同じであれば伝える必要も見聞きする必要もありません。
自分と他人は同じでは無いことがあると気づきましょう。
自分と他人が違うことに目を瞑ってはいけません。言っても伝わらないと思って伝えなければ伝わる事は絶対にありません。伝えたいことが伝わらず伝えていないことが伝わったことになっていて、他人の心が自分の心から益々遠ざかるのです。
心は見えません、聞こえません、匂いません、触ることもできません。感じることしかできないのです。感じるとは個人個人で微妙に違うと私は感じています。
別れる時が辛いからと心を伝えないと別れた状態のままです。心が一体化したならば別れはあるのでしょうか?心が一体化したならば、距離も時間も関係ありません。昔の友人に久しぶりに出会った時に、その当時に戻ってしまうことからもわかるでしょう。
自分と他人は違うから思いやるのです。