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物忌みの夜のモーアシビ《山原ユンタ》

たれぞこの やのとおそぶる にふなみに わがせをやりて いはふこのとを 万葉集のこの歌を思い出してしまいます。 忌籠もる日は、実は女性が神の訪れを待つ日だった。 この歌の続きのように、 物忌の満月の夜に、二人の男女は浜に降りて、歓喜の遊びを遊びます。 「歓(あま)える」という言葉は、現代日本語に訳することはむつかしい。 神が訪れた夜の歓びを表現する言葉で、神遊びとでも訳するほかはないのです。 出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふ

    • うぶな若者を諭す歌《あふぁり子ジラバ》

      喜舎場永珣『八重山古謡』上下巻より。 出典のカタカナ表記をひらがな表記にし、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記した。 日本語訳は具志堅 要によるもの。 あふぁり子ジラバ(登野城)あふぁりふぁとぅ ヨーホーリサー イエーミチイリサー  いばみちぃに イエーシタハーリヨー いかやむば イエホーナーハイホー 美しい娘と狭い道で行き逢いたい うむやすとぅ 人まどぅに すらやむ 想う人と人目のない所で触れ合いたい 「早み」(テンポ早く歌方も異る) まさ

      • 初恋の教訓歌《あらぱなぬまびぎれまジラバ》(波照間島)

        出典は、喜舎場永珣『八重山古謡 下巻』で、歌詞は囃子以外のカタカナ表記をひらがな表記にし、「ちぃ」などの中舌母音を「つぃ」などと表記した。 現代語訳は具志堅 要による私訳。 《あらぱなぬ まびぎれま ジラバ》(波照間島)   ヒヤーヨーヒー あらぱなぬ まぱじめぬ ヨーホーナーイーヨー(囃以下略) なりよたら 初っぱなの、最初の(年頃に)なったので めるびくとぅ かぬしゃくとぅ うむいどぅ 乙女のことを 愛しい娘のことを 思っていると あちゃならば びぎりやまや ずぃ

        • 女按司の歌《あだんやーぬあず(多良間島)》

          《あだんやーぬあず》は二部構成になっている。 その(1)では、ボウという名の女按司が、シマの創設伝承に由緒のある聖地を切り開き、草分けの本家(ムトゥ)を建設するというもの。 その(2)では、女按司であるボウが屋内を踏みしめることで、その家を本家とする人たちの①長寿、②子孫繁盛が予祝され、③男の子には渚の白砂が米に変じることが予祝され、④女の子には沖合のリーフに砕ける波が宮古上布に変じることが予祝される。 出典は、外間守善・新里幸昭編『南島歌謡大成 3宮古篇』(1977年

        物忌みの夜のモーアシビ《山原ユンタ》

        • うぶな若者を諭す歌《あふぁり子ジラバ》

        • 初恋の教訓歌《あらぱなぬまびぎれまジラバ》(波照間島)

        • 女按司の歌《あだんやーぬあず(多良間島)》

          潮干狩りの情景を歌った《イサメガ》

          宮古島の東北に位置する狩俣(かりまた)集落には、イサメガという女性を主人公にした歌があります。 ※写真は今帰仁村与那嶺の海岸です。 メガというのは宮古諸島の女性の名前に使われる言葉で、イサメガや○○メガというぐあいに、かつては女性の名前の接尾辞として多用されたものです。 歌の内容を要約すると、嫁と姑の諍いです。嫁のイサメガは友だちと二人で潮干狩りに行き、籠いっぱいの魚や蛸を収穫します。獲ってきた獲物を得意満面で姑に見せるのですが、姑はイサメガの手柄を認めません。女にこれ

          潮干狩りの情景を歌った《イサメガ》

          通い婚の夫婦喧嘩《ゆびがゆユングトゥ》

          《ゆびがゆユングトゥ》波照間島の古謡です。 通い婚というのは、夫が夜だけ妻のもとを訪れるという結婚形態で、子どもが二三人もできると妻の実家から出て新しい家を立てるというものでした。 このような結婚形態は近代以前の西日本や沖縄の民衆層の結婚では、ごく普通に見られたものでした。 波照間島に伝わる《ゆびがゆユングトゥ》では、その通い婚時代の夫婦のやり取りが歌われています。 「ゆびがゆ」は「夕べの夜」という意味。「ユングトゥ」というのは、八重山古謡のジャンルの一つです。 出

          通い婚の夫婦喧嘩《ゆびがゆユングトゥ》

          渡名喜マツのミャークニーと近代沖縄

                                         具志堅 要 ここにモーアシビ時代の世相を知るための貴重な資料がある。今帰仁村仲尾次(なかおし)(方音ナコーシ)出身の渡名喜(となき)マツ(1889-1993)が歌っていた《ミャークニー》歌詞集である。 《ミャークニー》は沖縄の代表的な短詞型叙情歌で、《ナークニー》などとも呼ばれる。モーアシビの場での聞かせどころの歌であり、即興的な歌の掛け合いをして楽しむものだった。男女の相聞・恋の駆け引きは、《ミャークニー》の

          渡名喜マツのミャークニーと近代沖縄

          近代に暗くなる農家の表情

          アドリアーン・ファン・オスターデ《農婦》(1650−70年、個人蔵) 17世紀オランダの風俗画家のオスターデが描いた農婦の顔(上)。 それから2世紀が過ぎたゴッホの描くオランダの農家(下)。 民衆にとって、近代は過酷な時代であったことをうかがわせる。 フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人びと》(1885年、ファン・ゴッホ美術館蔵)

          近代に暗くなる農家の表情

          狂い笹、神の憑く印

          歌川国貞(豊国3世)画《江戸名所百人美女 鏡が池 》(1857-58年頃、ボストン美術館蔵) 能舞台の小道具に「狂い笹」というものがある。笹を持って舞うことが、狂女の印となる。この絵では、追い求めてきた恋人がすでに亡くなっており、それを儚(はかな)んで池に身を投げてしまうという物語が描かれている。 能の狂女というのは元々神が憑いて舞い狂う巫女のことを意味していた。 巫女というのは神に仕える芸人でもあった。 旅をする女のなかには、狂女という名の旅芸人もいた。 狂う

          狂い笹、神の憑く印

          狂気と同居した江戸

          歌川国芳画《小倉擬百人一首 河原左大臣 文ひろげの狂女》(1845-48年頃、ボストン美術館蔵) みちのくの しのぶもじ摺 たれゆえに みだれそめにし われならなくに  浮世絵には狂気の描かれることが多い。狂気に美を見出す精神だ。 近代以前の社会は狂気と平気で同居していた。近代が狂気を街路から排除し、隔離し、収容していったのだ。 狂気との同居、死との同居に現代社会は耐えられるのだろうか。 けれど未来はイメージするときは、このような懐かしさが必要とされるだろう。 詞書

          狂気と同居した江戸

          生き神様を拝む

          鈴木春信画《丁子屋内てう山と巡礼》(1768ー69年頃、ボストン美術館収蔵) 生き神様、生き仏様のように美しい遊女を、巡礼の親子が思わず拝んでしまう図。遊女が遊郭より外を歩くことは機会は滅多になかったとされる。遊女が神々しい存在であったことがわかる。 この絵とよく似た構図が、17世期のイタリアで描かれている。 カラヴァッジョ《ロレートの聖母》(1604年頃、ローマ サンタゴスティーン聖堂) 心に曇りのない民衆は、神々しい女性に手を合わせる。 遊女も聖女も神々しさ

          生き神様を拝む

          四月の初鰹風景

          歌川豊国画《豊廣豊國両画十二候 四月 三枚続》三枚目(1801年頃、アムステルダム国立美術館蔵) 初鰹に浮き立つ長屋の女たち。子供を負ぶった女、煙管を下げた女、犬と戯れる丁稚の小僧。 鰹を捌く魚屋の若い衆。 子犬と戯れる子供。これだけの贅沢でささやかな幸せ。これだけで十分すぎるほど幸せだったのだ。

          四月の初鰹風景

          死者を蘇らせる

          豊国三世(国貞)画《東海道五十三対 宮乃駅 反魂塚》(1845−46年頃、国立国会図書館蔵) 死者を蘇らせる反魂の法。 死者を他界に送るのが、どうにも納得できなかったのだ。 近代以前は死者の世界は近かった。 死者が身近にいると、生は鮮やかなものになる。 反魂の法は、現代にこそ必要とされるのではないだろうか。 詞書 むかし藤といふ女有 その夫奥州の方へ遠征に行て久しく帰らつ 妻これを歎きて終に空しくなる 夫月を累ねて帰り愁傷し東岸居士といふ名僧に願ひければ反魂の法を行

          死者を蘇らせる

          戦乱のなかった江戸

          国貞・広重二世画《江戸自慢三十六興 橋場 雪中》(1864年、 国立国会図書館蔵) 真夏の敗戦記念日。戦争への痛みとともに、戦乱のなかった平和な日々を偲ぶ。 人物を豊国三世(歌川国貞)が、風景を広重二世が描いた合作の江戸自慢三十六興シリーズ。1864年に刊行されている。雪中の渡し舟の穏やかでしみじみとした情景が描かれている。 この絵から4年後に薩長の下級士族たちがクーデターを起こし、権力を握る。 それ以降の日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、太平

          戦乱のなかった江戸

          日常生活の中の聖なる物語

          ピーテル・ブリューゲル(父)『パウロの改心』(1567年、ウィーン美術史美術館) パウロは生前のイエスの弟子ではなく、キリスト教徒を迫害する者だった。イエスの死後、イエスに遣わされた者として使徒になる。 絵はパウロが改心するシーンだ。キリスト教徒迫害に向かう途中、イエスの声を聞き、パウロは落馬し、一時的に失明する。その体験を経てパウロは改心し、イエスの使徒になる。 イエスの弟子たちはユダヤ人のコミュニティで布教した。パウロはユダヤ人以外の者に布教した。そのため、キリ

          日常生活の中の聖なる物語

          頑なな少女のような聖女

          ディエゴ・ヴェラスケス《聖ルフィーナ》1630年頃、ロス・ベネラブレス病院(セビーリャ)所蔵 ヴェラスケスの描く聖女は、殉教者の印であるシュロの葉を持っていないとそれとはわからない。 左手に持つ陶器と右手のシュロがなければ、頑なそうな少女が描かれると思ってしまう。聖なる者としての遠い存在ではなく、自分の身近に存在する少女のように思えてしまうのだ。人物のリアルな実在感が、ヴェラスケスの魅力の一つなのだろう。 聖ルフィーナは西暦286年頃にスペインのセビーリャで殉教した

          頑なな少女のような聖女