渡名喜マツのミャークニーと近代沖縄


                               具志堅 要


ここにモーアシビ時代の世相を知るための貴重な資料がある。今帰仁村仲尾次(なかおし)(方音ナコーシ)出身の渡名喜(となき)マツ(1889-1993)が歌っていた《ミャークニー》歌詞集である。

《ミャークニー》は沖縄の代表的な短詞型叙情歌で、《ナークニー》などとも呼ばれる。モーアシビの場での聞かせどころの歌であり、即興的な歌の掛け合いをして楽しむものだった。男女の相聞・恋の駆け引きは、《ミャークニー》の旋律にのせて歌われた。そして、恋愛だけでなく、切なさや人情、生活の貧しさ苦しさの「哀れ」も歌うものだった。

渡名喜マツは終生を仲尾次で暮らし、104歳で亡くなった。この歌詞集は、晩年の10年近くを付き添った孫の渡名喜一江氏が、1983年頃から1992年にかけて聞き取りし、書き取ったもので、85首の歌詞からなる。

おおむね仲尾次方言で歌われているため、注釈なしで歌意を理解することはむつかしいが、酒井正子・川村学園女子大学教授によって、ていねいな注釈と対語訳が付けられ、「ウタと共に生きる:沖縄・本部半島の音楽文化(1)(2)」湘南国際女子短期大学紀要第 5巻(1998年)、第6巻(1999年)に掲載されている。

渡名喜一江氏、酒井正子氏の作業により、ぼくたちは、1889(明治23)年生まれという、出生年の確認できるモーアシビ歌謡を読解することができる。

このテクストに社会史的な背景を加えるならば、そこから、近代沖縄の姿が視えてくるだろう。それは、モーアシビが根絶される前のシマ社会の世相でもある。

社会史的な背景


琉球処分(1872‐79)によって琉球王国は解体し沖縄県が設置されたが、日本政府が旧慣温存政策をとったため、沖縄のシマ社会に大きな社会変動はなかった。渡名喜マツはそのような旧慣温存政策の時代に出生(1889)している。

沖縄のシマ社会に激震が走るのは、明治民法の施行(1898)による家父長制の確立であり、土地整理事業(1899‐1903)による私有財産の発生と貧富の格差の発生によってであった。

沖縄のシマ社会では、土地は基本的にシマ・コミュニティ共有のものだった。共有の土地は数年から数十年のスパンで割り替えられた。これを地割(じわり)制という。この地割制によって、コミュニティ内の貧富の格差は、数年から数十年のスパンでリセットされた。

地割制 1899〜1903年(明治32〜36)の土地整理事業によって廃止された、耕地その他の土地の割替制度。沖縄では、田畠(たはた)・山林・原野にたいする私有権の成熟が遅く、王府時代から19世紀末まで、村落の田畠・山林・原野の共有制と村民配当地の割替制が存続した。しかし、割替えの周期や方式は時代や地域によって多種多様で、1883年(明治16)の沖縄県報告書によれば、周期は田の場合ほぼ2年から30年、畠は2年から35年、雑種地は2年から50年であったが、まったく不定期な村もあった。(山本弘文「地割制」『沖縄大百科事典 中巻』)

シマ社会では土地の私的占有という制度が未熟であったため、土地の私的占有を基盤とした家業家産というイエ意識が成立することがなかった。ここが江戸時代の日本のムラと大きく異なる点だった。

しかし、明治政府による租税賦課のための土地整理事業によって土地の所有者が定められ、土地に近代的な私的所有権が確立された。この私的所有権によって発生した私有財産は、明治民法によって父系嫡男継承が優先づけられることになった。

土地整理事業による私有財産の発生と、明治民法による私有財産の父系嫡男継承の優先によって、それまでタテマエ上のものにすぎなかった位牌継承慣行が、シマ社会のなかで本格的に浸透していくことになる。

 琉球王府は儒教的な考え方を一つの国策にしているわけですから、先祖のみ霊をまつるために位牌を仕立てなさいということをずっと言い続けてきたのです。
 まず、首里・那覇を中心としてどんどん農村に広がっていくということになりますけれども、それがいつごろかといいますと、山原あたりでは明治ぐらいにならないと本当の意味で広まってこないし、先島―宮古、八重山になると、もっと後になります。従って位牌というのは門中にとって大変大事なものなのですが、一般的に普及するのはそれほど古くないのです。(田名真之『近世沖縄の素顔』)

渡名喜マツが生育していく時代は、シマ社会の激変の時代だった。明治民法の施行は、マツが9歳の時だった。土地整理事業は、マツが10歳から14歳にかけての時期だった。モーアシビへの参加年齢は14、5歳からとされている(『沖縄大百科事典』)。

毛遊び モーアシビ 沖縄各地で広くおこなわれた男女交際の一方法。主として原野(毛(モー))がその場所となったため〈毛遊び〉と称した。アジマーアシビー(辻(つじ)遊び)とかユーアシビー(夜遊び)という村(むら)もあるが、道路の辻、あるいは時間帯をもって名づけたものである。参加資格は男女とも一人前とされる14、5歳から結婚するまでで、結婚すると参加しなくなる。(崎原恒新「毛遊び」『沖縄大百科事典 下巻』)

マツがモーアシビに参加する時期は、沖縄のシマ社会がドラスティック(劇的)に変化する時期にあたっていた。

ミャークニーに見る来訪神祭祀構造


1行目は原歌で、ふりがなが振られている場合には漢字ではなくふりがなで表記している。2行目は具志堅要による意訳。

ヒチャマぬんどぅるち かりーなぬんどぅるち
 ヒチャマまみやらびぬ 栄いどぅくる[ま]

【崎山(さきやま)のノロ殿内(ドゥンチ)はめでたいノロ殿内、崎山の聖なる乙女たちが女神(になって、シマにサチを与える)に成るところ】

渡名喜マツの《ミャークニー》歌詞集は、この歌からはじまる。ここで歌われている崎山ノロ殿内には、崎山、仲尾次、与那嶺、諸喜田(しょきた)、兼次(かねし)という五つのシマのノロ火の神(ヒヌカン)が置かれている。だからこの歌は、ヒヌカンを讃える歌であり、ヒヌカンを讃えることによって、ヒヌカンの霊力を共にする五つのシマの女性たち自身を讃える歌になっているのだ。

沖縄の宗教の原型は来訪神信仰にある。異界・他界から来訪する霊力の高い神を招き寄せ、シマにサチを招き寄せるのである。来訪神はヒヌカンのもとに訪れた。ヒヌカンを祀るのはシマの女性たちであり、ヒヌカンを祀る女性たちのもとに、来訪神は訪れたのだ。

歌詞集の1番目の歌を読むと、数年前に見た八重瀬町安里のウフデーク(ウスデーク)の祭りを思い出す。ウフデークの祭祀構造とこの歌に詠まれる祭祀構造がよく似ているのだ。

安里のウフデークでは、たそがれどきに、正装したシマの女性たちが、三カ所の拝所を礼拝する。海の見える拝所を拝み、聖なる井戸を拝み、シマのヒヌカンを拝む。海の彼方の来訪神を招き寄せ、井戸で禊をさせ、台所を象徴するヒヌカンで来訪神を迎えるのだ。安里には孝神(こうじん)堂という祠があり、そこが拝所のひとつになっている。おそらくこの孝神は荒神(こうじん)=竈神の漢字表記を改めたものだろう。

この三カ所の拝所の礼拝が済むと、シマの女性たちは神の妻となり、神の妻として聖なる女神に変身する。そして、聖なる女神となった女性たちは、シマを寿ぎ、シマに異界・他界のサチを降ろすために、日暮れ時にシマの広場に降りてゆき、荘重なウフデークの舞いを数時間にわたって舞い続ける。

マツの詠んだ「ヒチャマぬんどぅるち」を孝神堂というヒヌカンに置き換えるなら、讃えられているものは、同型の祭祀構造のなかにあるものだといえる。そして、安里の女性たちが聖なる女神に変身したように、ノロ火の神(ヒヌカン)を拝むときに、五つのシマの女性たちは聖なる女神に変身するのである。この変身が栄えるという意味だといってよいだろう。

【語釈】
「ヒチャマ」は、今帰仁村字崎山の方言名。ヒチャマあるいはサチヤマと呼ばれる。(「なきじん研究1」)
「ぬんどぅるち」は、ノロ(ぬる)殿内(どぅんち)の意。ノロは、琉球王国の女神官組織の末端に位置する神女で、複数のシマの祭祀を主宰し、全琉球の神女組織の下部組織を構成した。ノロ殿内は、ノロ火の神(ヒヌカン)のある家、あるいはノロ火の神の祀られている祠(ほこら)や建物にたいする敬称(仲松弥秀『沖縄大百科事典』)。
「嘉例(かりー)」は、めでたい、縁起の良い、栄えているの意。
「まみやらび」は「みやらび(乙女)」に接頭語の「ま(真)」を付けて強調したものか。
「とぅくる」「とぅくま」は「所」の意。今帰仁方言音声データベースによると、「トゥクーマ」の方が「トゥクール」よりも多用されるとのことである。

【解釈】
今帰仁村歴史資料センターによると、崎山、仲尾次、与那嶺、諸喜田(後に志慶真と合併して諸志)、兼次の隣接五ヶ字は、中城(ナコーシ)ノロが管轄していた。中城という地名は、1668年の布令によって使用が禁止され、仲尾次(ナコーシ)村に改称したとみられている。また崎山ノロ殿内は、元来は中城ノロ殿内であった。

『琉球国由来記』(1713年)で「中城巫火神」は「中城村」に位置している。ところが、中城巫殿内(現在の崎山のろ殿内と呼ばれる)は現在崎山地に位置している。(今帰仁村歴史資料センター)

中城ノロ家は、現在は仲尾次にではなく諸志にあるようだ。そこからすると、「ヒチャマぬんどぅるち」は隣接する五ヶ字全体を含んでいると理解した方がいい。「ヒチャマまみやらび」も、五ヶ字全体の乙女たちというくらいの意味になるだろう。

ノロ殿内には、ノロ火の神(ヒヌカン)が祀られている。五ヶ字の乙女たちは、このヒヌカンを祀ることによって、栄えていくことになるのである。

通い婚と嫁入りと——「ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ」

一合酒むてぃん 二合酒むてぃん
 ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ

【両家の酒盛りをしても、両家の親族の酒盛りをしても、ニービチ(嫁入り)の儀式が済むまでは、〔正式の〕夫ではないんだよ。】

渡名喜マツは1889年生まれであり、明治民法施行時には9歳だった。マツが結婚する時代には、「ぬびち(ニービチ)」が婚姻儀礼における重要な位置を占めつつあったことがわかる。ニービチというのは嫁入りを意味する言葉だ。

「一合酒(イチゴーザキ)」、「二合酒(ニンゴーザキ)」というのは父母近親による婚約の酒盛りを意味している言葉で、結納にあたる。「一合酒むてぃん 二合酒むてぃん」というのは、「一合酒の酒盛りをしても、二合酒の酒盛りをしても」という意味だ。

「うとぅ」というのは夫のことだ。

つまりこの歌は、結納をすませても、嫁入りの儀礼を済ますまでは、正式の夫として認めることはできません、ということを歌っていることになる。

表面の意味だけを追うとあたりまえのことを歌っているようであるが、この歌の背景に、通い婚という伝統的な婚姻形態があったことを考慮に入れると、婚姻制度に対する意識の大変革が歌われていることがわかる。

通い婚というのはシマ社会の伝統的な婚姻形態だ。夫は夜だけ妻のもとに通うという婚姻形態で、この通いの期間を済ませた後に、妻は自分の実家から独立し、夫との世帯を形成する。

山原(やんばる)の伝統的な婚姻儀礼は、クチムスビ・サキムイ・クファン・ニービチというプロセスをたどる。クチムスビが婚約にあたる。
クチ・ムスビとは口結びすなわち口約の義で、婚約を結ぶことである。仲人が口入れをして話がまとまった時に、早速仲人もしくは婿方の父母が酒を持って行って、嫁方の父母もしくは本人と約束の盃を取りかわすことをいうのである。(宮城真治『山原:その村と家と人と』)

サキムイは結納にあたる。

 婚約が成立すると吉日を選んで婿方の父母近親が酒肴を携えて嫁方に至り、その父母近親とあらためて約束を固め、かつ感謝の意を述べるのである。これをサキムイといい、酒盛(さかもり)の義である。(中略)
 この婚約のサキムイのことを「一合酒(イチゴーザキ)」ともあるいは「二合酒(ニンゴーザキ)」ともいい、サキムイすることを「一合酒(イチゴーザキ)盛(ム)ユン」とも「二合酒(ニンゴーザキ)盛(ム)ユン」ともいう。サキムイは普通に両家の家族近親の間に限って行われ、一般の親類にまで及ぼすことは少ない。(宮城、前掲書)

クファンが結婚にあたる。

 婿方から新婿と親族数名もしくは十数名、酒肴を携えて嫁方に行ってその親族一同に新婚の披露をすることをクファンもしくはヒラチという。(中略)
 この儀式に於ては、新婿はまず嫁方の家神たる火の神・祖神・祖霊を祀(まつ)り、次に嫁の母に向ってアンマー・ヨー(母様よ)と称えて親子の縁を結び、その次に嫁の父ならびに親族に盃を差して姻戚の誼を結び、その日から嫁の許に泊るのが普通である。すなわちクファンは結婚の式である。その後、婿は昼は実家にあって家業に従事し、夜は嫁の家に通うて来る。そうして嫁方の家が忙しい時にはその手伝いをせねばならない義務がある。(中略)
 山原流の結婚式に於てはクチムスビ・サキムイ・クファン・ニービチの四式の中で最も重要なものはクファンであって、これによって真に夫婦の交わりを結ぶのである。従って嫁入の式たるニービチは、所によっては簡単にこれを行い、あるいは全く式を省略することさえある。(宮城、前掲書)

ニービチが嫁入りにあたるが、結婚と嫁入りは連続した行為ではなかった。

クファンの後は婿は毎晩嫁の許に通うて行き、数ヶ月の後にニービチすなわち嫁入りの式を挙げるのが山原に於ける一般の風であって、結婚と嫁入りとは別々の式である。中にはクファンの後、数年もしくは十数年も経って子供の二三人も産んでからニービチをすることも珍らしくない。(宮城、前掲書)

『山原:その村と家と人と』の著者の宮城真治は、1883年に名護市我部祖河(がぶそか)に生まれているので、1889年生まれの渡名喜マツとはほぼ同世代といえる。マツのシマである今帰仁村仲尾次とは10kmくらいしか離れていないので、ほぼ同じ文化圏に属しているといえる。

その宮城が、「最も重要なものはクファンであって、……嫁入の式たるニービチは、……全く式を省略することさえある」と述べているのにかかわらず、マツは、クファンではなくニービチによって夫は正式な(公的な)夫になると歌っている。

このような齟齬は、明治民法の施行(1898)によって生じたものだ。明治民法の施行によって家父長制としての近代的な家制度が確立され、配偶者選択が「親決め」になっていく。ところが通い婚における配偶者選択は、「親決め」ではなく、当事者の自己決定によるものだった。しかし法的には、女性が夫の家に入る「嫁入り」をもって、婚姻が成立することになる。つまり、クファンによって結婚の成立することが、法的には認められないことになるのだ。

クファンによる通い婚と明治民法による家父長制との齟齬のなかで、この歌は詠まれている。時代は急速に、通い婚を非合法的なものへと追い込んでいった。「ぬびちさぬまでぃや うとぅやあらぬ」という表現には、通い婚を非合法的なものとし、結婚とは認めないという意思がみえる。

しかし省略することも可能だったニービチを、正式な結婚の前提として歌い上げたということは、きわどいところで男性をからかった歌だともいえるだろう。簡単に結婚できる相手ではないのよとお高くとまって見せたのである。

なぜマツは親決め婚であるニービチを正式の結婚だと主張したのだろうか。もう一つの解釈として、その背景には、婚約の酒盛りを父親が勝手に取り決めるということがあったのかもしれない。親が勝手に配偶者を決めても、ニービチするまでは破約にする権利が自分にはある、ニービチを盾にとって、親決め婚への異議申し立てをしたとも読める。

明治民法とモーアシビ

あしばんりわんや ちむたがてぃうしが
 あくまゆむうやぬ にんびしかぬ

【〔夜も更けて〕モーアシビに行きたくて私はじりじりとしているのに、悪魔のような憎たらしい親は、〔いつまでも〕寝入ってはくれない】

娘は両親が寝入るのを待っている。両親が寝入ってから、モーアシビに参加するのだ。夜も更けるのに、両親はなかなか寝付いてくれない。そんな娘のいらつきが歌われている。

モーアシビの参加年齢は、ほぼティーンエイジャー(13-19歳)だった。渡名喜マツがティーンエイジャーとなった明治30年代(1897-1906)は、モーアシビが風俗改良運動の標的となって、取り締まりを受ける時代にあたっていた。

明治31(1898)年の明治民法の施行によって家父長制が確立され、未婚の青年男女の配偶者選択権が、家長の管理するところとなった。明治民法の施行と時を同じくして、沖縄では風俗改良運動が盛んになっていく。風俗改良運動の主たる攻撃目標としてモーアシビが取り締まられていくのである。

モーアシビはシマ社会の伝統的な配偶者選択法であった。そのモーアシビを取り締まりの対象とすることによって、明治民法で定める家父長の権限が確立されていくことになる。

「ちむたがてぃうしが」というのは、気が気ではないということ。結婚適齢期にさしかかった少女マツは、モーアシビに行きたくて、気が気ではない状態で寝たふりをしている。しかし両親はいつまでも寝入ろうとはしない。あるいはマツをモーアシビに参加させないために、寝ずの番をしているのかもしれない。寝室でマツの感情は爆発し、「あくまゆむ親(悪魔のような憎たらしい親)」という呪詛を親に投げかけるのである。

風俗改良運動によって若者の性愛は取り締まりの対象となったが、それは男女を等しく取り締まるものではなかった。未婚の娘たちの性が取り締まられていったのである。

風俗改良運動のなかでは、沖縄の風俗の紊乱が先ず女性のせいにされた。女子の品行の乱れが追及され、女子教育の強化徹底を図る必要性が新聞紙上で強調された。「ほとんどの女子が無学文盲で、そのために、時代の流れにのっておしよせてくる悪弊にそまり、堕落する恐れがあることを有識者たちは心配していた」(『中城村史 3』)。沖縄の女性にとって、近代の始まりは受難の幕開けにも思えたに違いない。(井谷泰彦「モーアシビ(毛遊び)と風俗改良運動に関する一考察」) 
【語釈】
「チムタゲー(肝違え)」 気心が合わないこと。気持がぴったり合わずに、くいちがいを生ずること。気にさからうこと。
「アクーマ」 悪魔。悪者。極悪の者。
「ユム(接頭辞)」 ひどくいやである意。いやしめ、憎しみなどをあらわし、悪しざまに言うのに用いる。
「ニンビシキルン」 ぐっすり続けて寝入る。
以上「今帰仁方言音声データベース」より

結婚とヤームチ(家を持つ)

十七、八ぐるる 花ん咲かりゆる
 にじゅあまてぃからや やむちすがい

【十七、八歳の頃にこそ、〔恋や結婚の〕花が咲くのだ。二十歳をすぎたら、家を持つ(分家独立する)準備〔をしなければならない〕】

モーアシビはシマ社会における配偶者選択の場であった。モーアシビには、男女とも一人前とされる十四、五歳から参加して、結婚すると参加しなくなる。男女ともに十七、八歳の頃には結婚したようだ。

結婚年齢は割に低かった。男女共十六、七から十八、九まで位が普通であった。(佐喜真興英「シマの話」1925年)

つまりシマ社会では、十七、八歳で結婚するのが普通だった。結婚は当初は通い婚であり、通い婚の時期が終わってから、女性の実家から分家独立し、新たな世帯を立てることになる。

この分家独立の時期が二十歳を過ぎた頃であったようだ。「二十(にじゅ)あまてぃからや やむちすがい」というのは、二十歳を過ぎると家を持つ準備をしなければならないという意味だ。

今帰仁の言葉で、「家を持つ。世帯を持つ。分家する」ことをヤームチュンという(「今帰仁方言音声データベース」)。このヤームチュンが「やむち」にあたる。「すがい」は「仕度する。準備する」という意味だ。

ヤーというのは「家。家庭」を意味する言葉だ。この場合のヤーが何にもとづいた家意識だったかというと、一家の主婦の祀るヒヌカン(火の神)崇拝にもとづくものだった。父系原理の家意識である位牌継承慣行が民衆化するのは、近代になってからのことだ。

系図持の士族階級においてすらも、位牌祭祀が定着してきたのは十七世紀以降とみられ、常民社会はその後の政治的な圧力にもかかわらず、全島的に定着したのは大正前後とみても差支えない。(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)

酒井は明治民法の施行(1898)から一世代を経た大正時代(1912-1926)に、民衆層に位牌継承慣行が定着するとしている。歴史学の田名真之も、「山原あたりでは明治ぐらいにならないと〔位牌は〕本当の意味で広まってこない」と述べているので、ほぼ同じような見方だといってよい。

渡名喜マツの十七、八歳の頃は1906年から1907年であり、二十歳を過ぎるのは1909年以降だ。酒井・田名によると、位牌祭祀がまだ本格的な意味では民衆層に定着していない端境期にあたる。

位牌祭祀の以前は、何が家意識を表わしていたかというと、一家の主婦が祀るヒヌカン(火の神)だった。だからマツが歌う「やむち」のヤーは、ヒヌカンにもとづく家意識を表わすものだとみてもよい。

通い婚の時期は、男女ともに妻方の実家のヒヌカンに所属することになる。宮城真治によると、民衆層の結婚式にあたるクファンでは、婿はまず嫁方の家のヒヌカン(火の神)を最初に拝み、嫁の母に向かって「アンマー・ヨー(母様よ)」と呼びかけるのである。そして嫁の母と親子の縁を結ぶことになる。これら一連の行為が示しているのは、婿が嫁方のヒヌカンに所属することによって、結婚が成立するということである。

この儀式〔クファン〕に於ては、新婿はまず嫁方の家神たる火の神・祖神・祖霊を祀り、次に嫁の母に向ってアンマー・ヨー(母様よ)と称えて親子の縁を結び、その次に嫁の父ならびに親族に盃を差して姻戚の誼を結び、その日から嫁の許に泊るのが普通である。(宮城真治『山原:その村と家と人と』)

クファンの日から通い婚が始まる。

通い婚の時期が終わり、女性が自分のヒヌカンを新たに立てて分家独立することを、ヤームチュン(家を持つ)という。つまり、ヒヌカンを新たに持つということが、分家独立を意味していたのである。

マツの歌からすると、通い婚の時期までは恋人気分が継続していたようだ。だからこそ「花ん咲かりゆる(花も咲く)」のである。二十歳をすぎたら、そのような浮かれ気分から落ち着いて、分家独立の準備をしなければならない、と歌っているのだ。

それは経済的な自立を意味すると同時に、祀るべきヒヌカンを新たに立て、一家の霊的な守護をしなければならないという、主婦の覚悟を自覚するものだったといえるだろう。

通い婚——訪れぬ夫への詰問

あみふいぬゆるや 雨んなじきゆさ
 雨ふらぬ夜や ぬなじきゆが

【雨降りの夜は、〔訪れない理由を〕雨のせいにもできるけれど、雨の降らない夜は、どんな言い訳をするの】

「なじき」は「かこつけること」、「ぬなじき」の「ぬ」は「何」を意味する。

この歌は、ヨバイの時期を歌ったというよりも、通い婚の時期を歌った歌なのかもしれない。訪れてこない男性を問い詰める女性の語調の強さは、恋人関係というよりも夫婦関係というのにふさわしいような気がする。

この歌に類似する歌がある。波照間島の古謡《ゆびがゆゆんぐとぅ》だ。「ゆびがゆ」は「夕べの夜」の意で、「ゆんぐとぅ」は八重山古謡の一形態ユングトゥを意味する。

この古謡では、渡名喜マツのミャークニーの歌詞と同様に、内容が、通い婚の歌として歌われている。

このユングトゥは男女の相聞の形式を踏んでおり、ざっくりとした内容は、訪れなかったことを問い詰める妻に夫はさまざまな言い訳をし、その言い訳がおかしいので妻は夫を許し、仲直りするというものだ。歌詞は次のようなものだ。

ゆびがゆゆんぐとぅ

1. ゆびがゆや いかちゃ むいどぅ なうちゃ むいどぅ おらなーた ヨイ
  あみぬ ふるんて かじぬ すくんてどぅくなーたる ヨイ
2. あみぬ ふらばん かじぬ すがばん おりどぅす ヨイ
  みぬがまーてぃん かつぁがまーてぃん ありどぅす ヨイ
3. みぬがまーや ふびや ねーぬ みぬがまー ヨイ
  かつぁがまーや じぃんや ねーぬ かつぁがまー ヨイ
4. ういが みりば しぃぴりゃだぎぃぬ よいだーぎぃ ヨイ
  しぃたりぃが みりば ふんぴゃだぎぃぬ よいだーぎぃ ヨイ
5. まるびぃ いしが ぱんば けーりぃ くなーたる ヨイ
  たかいしが しぷしんばばーりぃ くなーたる ヨイ
6. うりぃやりぃどぅ ありぃやりぃどぅ くなーたる ヨイ
7. なびらしね ふくさどぅり おりゃらーば ヨイ
  かなばりぃしね ましぃさどぅりぃ おりゃらーば ヨイ
8. きんやいつぁ ぱん すずみ にびぁらーば ヨイ
  かかんやいつぁ むむ すずみ にびぁらーば ヨイ
9. むかやくとぅん きつぁやくとぅん ぱなしょーらば ヨイ
http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=8043

要約すると次のようになる。
(女)夕べの夜はどうして来なかったの?
(男)雨が降ってたからさ、風が吹いていたからさ。
(女)雨が降っても風が吹いても、蓑笠があったでしょう?
(男)蓑は袖が抜けているし、笠は天辺が破れていたんだよ。手探りしかできない闇夜で、道を踏み外しそうな闇夜で、転がっている石につまづいて、高い石に膝を打って、そんなこんなで来れなかったんだよ。
(女)〔闇夜でも〕ヘチマの蔓が石垣に絡みつくように、ヒョウタンの蔓が畔に絡みつくように、〔私に絡みつくように〕忍んできたらよかったのに。そうしたら、私の着物で〔あなたの〕足を包んで、腿を包んで眠れたのに、(男女)昔のことを今のことを語り合えたのに。

渡名喜マツの詠んだミャークニーの歌詞と《ゆびがゆゆんぐとぅ》の歌詞の関係は、和歌における長歌と反歌(かえしうた)の関係にあるといえるだろう。長大な長歌を反歌は短い詩句で要約する。

マツは「雨降いぬ夜や 雨んなじきゆさ」と歌っているが、これはユングトゥの「(女)夕べの夜はどうして来なかったの?(男)雨が降ってたから、風が吹いていたから」に対応するものといえる。

「雨ふらぬ夜や ぬなじきゆが」は、「手探りしかできない闇夜で、道を踏み外しそうな闇夜で、転がっている石につまづいて、高い石に膝を打って、そんなこんなで来れなかったんだよ」に対応する。マツの詠んだミャークニーの歌詞は、《ゆびがゆゆんぐとぅ》を要約したものといえるだろう。

《ゆびがゆゆんぐとぅ》で交わされているような会話を前提にして、マツの歌詞は詠まれているのだといえる。男性の返答に対する笑いと、笑いの後の仲直りが前提になっているからこそ、詰問の口調は大げさなほどに強いのである。

【語釈】
「ナヂーキン」 かこつける。転稼する。(「今帰仁方言データベース」)
「ヌー」 何。(「今帰仁方言データベース」)

親決め婚とモーアシビのせめぎ合い

明治31(1898)年の明治民法の施行と時を同じくして、沖縄では風俗改良運動が盛んになっていく。シマ社会の青年男女の配偶者選択の場であったモーアシビが、野蛮で不道徳なものとして、取り締まられていくのである。

明治31年10月7日付の琉球新報の記事によると、モーアシビは「禽獣を去ること遠からず」、「実に野蛮の至極也」と糾弾されている。まるで動物のようで野蛮極まりないと責めているのである。動物のようで野蛮極まりないというのは、モーアシビが人間的で文化的な段階に属しているものではないという断罪である。このようなモーアシビへの断罪とともに、明治民法における家父長制は確立されていくことになる。

名護羽地辺は国頭地方中毛遊の盛に行はるゝ所にして、昼間は青年男女ともに耕耘に労働し、夜になれば乃(すなわ)ち思ひ思ひの装束して野に集合し、三味線を弾き歌をうたひ、男女起て相躍ること恰(あたか)も劇場にて演ずる毛遊狂言と大差なく、只異なる所は男女の面貌服装の点に於て演劇よりも太(はなは)だ粗末不潔なる事と、乱雑喧燥なるは演劇よりも甚しと心得たらば、実際を想像するに難からず。斯くて深更に及び、時過ぐれば想思の男女各々相携へて別れ去り寝に就くを常とす。禽獣を去ること遠からず。斯の如く年少男女の間に私通盛んに行わるゝ故に、人の妻に無瑕(むきず)の珠は少なきのみか、婚嫁の際に他人の種子を持参するの例は珍らしき事にあらず。而して父母敢て之れを怪まず、人も亦た之を男女の常となすものに似たり。実に野蛮の至極也。〈国頭だより 明31・10・7琉新〉(『名護市史 戦前新聞集成1』)

私通というのは、家長の許可を得ずになされた男女の性愛のことをいう。無瑕(むきず)というのは処女のことをいう。

モーアシビによる結婚は、ステップファミリーを形成することが多かったようだが、「父母敢て之れを怪まず」、「人も亦た之を男女の常となすものに似たり」というように、ごく普通のこととして受け入れられていたようだ。モーアシビによる結婚が、現代的な結婚のスタイルに近かったことを示すものだといえよう。

マス・メディアだけではなく教育の現場でも、モーアシビは排斥されていく。次の新聞投稿には、モーアシビに対する1930年代の教育者の反応が描かれている。

 六十年ほど前の思い出である。私がM尋常高等小学校に勤め、学校衛生婦の職を兼ねていたころのある放課後、気分が悪いという男の子が衛生室に運ばれた。手当ての結果、高熱と吐き気の症状は落ちついたので、小使さんに背負ってもらい、その子を家に送り届けた。ところがあいにく父母が遠出の留守というので、帰るまで私がみとることにした。ようやく両親が帰宅したのは夜の十時過ぎであった。
 ほっとして帰り支度をしているところへ先の小使さんが来て、「校長に言いつかったので先生の家までお供します」と言う。当時、私は四㌔程離れた親元から通勤していた。ちょうちんの明かりを頼りに行くとやがてM字が過ぎ、N字に差しかかる坂道を上った。すると、風に乗って歌声、蛇皮線、パーランクーの音が聞こえてきた。
 何だろうと首をかしげる私に小使さんは「チリリンクヮンクヮンしていますね。毛遊びでしょう」と事もなげに言う。こちらは、さっと顔から血の気の引く思いがして足が前へ進まない。
「照屋さん、K字へ遠回りをしましょう」
「先生だいじょうぶです。この辺には悪者はいません。それに毛遊びには女の子もいますから」
「でも心配ですからK字へ回りたい」
「もし、お家からの迎えの方と行き違いになると大騒ぎになるかもしれませんよ」
それもそうだと思い、私は覚悟を決めて小使の照屋さんについて行くことにした。
 毛遊びは、私のいつも通る三つまたの草道の辺りで行われていた。男女で十五、六人ばかり。ちょうちんの明かりが近づくと、鳴り物はやみ、一斉にこちらに目を向けたが、女の人は皆、手ぬぐいで顔を覆うていた。そこへ照屋さんがゆっくりと近づき、頭を下げ、
「さり、通(とぅー)ちくいんそうり」
と声をかけ、右手の弓張りぢょうちんを高く掲げ、それから腰をかがめた。明々と燃えるろうそくの光で、ちょうちんに記された「M尋常高等小学校」の校名が鮮やかに映り出た。
 一座の人たちの目はそれに注がれたが、その中の年かさと見える男が少し後ろに退いてから、落ちついた声で
「通んそうり」
と言った。そして、その仲間は私たちのために道を開けてくれた。小娘先生の私は、照屋さんの掲げるちょうちんの明かりに守られ、毛遊びの一座の温容なまなざしの中を、頭を下げて通りぬけた。(沖縄タイムス[随想]1993年1月30日)

1993年の投稿だから、60年ほど前というのは1930年代にあたる。小使の照屋さんは「事もなげ」であり、モーアシビの青年男女に敬語であいさつするが、「小娘先生の私」は「さっと顔から血の気の引く思いがして足が前へ進まない」のである。まるで無法者に出会ったかのように怯えている。学校教育の場でモーアシビがどのように位置づけられていたのかがよくわかる文章である。

1925年からの3年間、那覇地裁判事として沖縄に赴任した奥野彦六郎(1895-1955)は、モーアシビと結婚との関係を調査するため、沖縄県下の各地域にアンケート調査を依頼した。質問の内容は、「旧藩時代(または昔)は、普通毛遊びから結婚へ導かれたのか、また結婚数の何割がこのような結婚をしたのか」というものである。

山原(やんばる)からの回答を拾うと、

【大宜味】昔時は毛遊びの結果結婚することもあったが、それは結婚数百に付いて一、二に過ぎない。
【伊平屋島】明治40年頃までは毛遊びが盛んに行われ、ヤガマヤーもあり、そこから結婚するのが多かった。
【名護】昔時は家でも毛遊びを暗にすすめるくらいであった。

などと、モーアシビによる結婚はほとんどないという大宜味村から、「家でも毛遊びを暗にすすめる」という旧名護町まで、答えに開きがあって統一したイメージをつかむのはむつかしい。答えには、風俗改良運動の影響を加味しなければならないだろう。

奥野は、全県的な回答と宮古諸島・八重山諸島での聞き取りから、シマ社会の結婚は、モーアシビを通して当事者同士が自己決定する「自他ともに夫婦と認められる男女の関係」に対して、事後承諾として家長や親が許可を与えるものだったと結論づける。1920年代半ばの調査時点においても、まだ本格的な親決め婚ではなかったとみていたのである。

沖縄のような自由結婚がおこなわれている社会では、男女が結婚するについて家の了解や許可を全く得なかったかというと、必ずしもまたそうではないのである。(中略)〔家長や親の許可は〕当時の社会―部落集団―において公認された結婚への道程たる歌舞をとおして、自他ともに夫婦と認められる男女の関係にたいして、更に家からの賛同を得るという意味での了解だからである。(奥野彦六郎『沖縄婚姻史』)

部落集団というのはシマ社会のことであり、歌舞というのはモーアシビのことだ。モーアシビはシマ社会で公認された結婚へのプロセスであり、親は事後承諾を与えるのが普通の結婚だったのである。

今帰仁村史によると、モーアシビは、明治三十年代の風俗改良運動の主たる攻撃目標であり、大正年間にはどこのシマでも廃止されてしまったという。

モーアシビすなわち野外のダンス·パーティは明治三十年代の風俗改良運動の主たる攻撃目標であったが、なかなか廃止されなかった。星空の美しい夜になると、夜なべ仕事もとりやめ、互いにしめし合わせて浜に直行したり、芝生の生えた台地(モー)にのぼって、グンマーイ(円坐)してダンス·パーティを開始した。シマをはなれたところでひとたびモーアシビーが始まると時がたつのも忘れ、払暁に帰宅するのが普通であった。大正の頃には字の警備団員がモーアシビの現場にふみ込んできて罰金の札を手渡したという。警備団員が来ると鳴りをひそめ、去って行くとまたモーアシビを再開するということを繰返すうちに、やがてシマから離れた山中に恰好の場所を見つけておいてモーアシビをするようになった。結局、大正年間にはどこのシマでも廃止されてしまった。(『今帰仁村史』)

それからすると、1890年代末から1920年代にかけての沖縄は、タテマエとしての明治民法・風俗改良運動と、ホンネとしてのモーアシビによる結婚とが、せめぎ合った時代だったといえるのではないだろうか。

佐喜真興英「シマの話」(1925年)によると、シマ社会での結婚年齢は「男女共十六、七から十八、九まで位が普通であった」という。渡名喜マツ(1889-1993)の結婚した時代をそれに当てはめると、1905~1908年ということになる。明治民法による家父長制とモーアシビによる結婚がせめぎ合っている時代にあたる。マツは家長による親決め婚に嫌悪を隠さない。

ならんどぅりいちゃと うやぬ酒かみてぃ
 わんやうとぅむちゃが なくしたてぃてぃ

【いやだと言っているのに、親が盃を交わして、私は夫持ちだという、悪いうわさを立てられてしまっている】

「酒かみてぃ」の酒は、「一合酒(イチゴーザキ)」、「二合酒(ニンゴーザキ)」という両家の父母近親による婚約の酒盛りの酒を意味する。この酒盛りはモーアシビによる配偶者選択、娘の家への男性のヨバイを経て、二人の仲が固まったあとに催されるもので、結納・婚約を意味する。

しかしこの歌では、当の娘が「ならん(できない=いやだ)」と言っているのに、親が勝手に固めの盃を交わしている。つまり、親決め婚をしているのである。

「一合酒」、「二合酒」を交わすことで二人の仲は公的なものになる。「なくし」は難癖で、悪いうわさが立っているくらいの意味だろう。親が勝手に配偶者を決めるのを、難癖をつけられていると憤慨しているのである。

この歌に関連するのが次の歌だといえる。結婚したとしても離婚して、好きな男性といっしょになると歌っているのである。

うとぅむちゃい行かば くがりゆなにせぐゎ
 夫ふやいくりば たいがうちゆ

【〔私が〕結婚したからって、思い焦がれないでね若者よ。夫と別れてきたら、二人の自由よ】

【語釈】
「ウトゥー ムチュン」 夫を持つ。嫁ぐ。
「ウットゥー プン」 夫を振る。
「クガーリン」 思いこがれる。切に慕い思う。恋い慕って思い悩む。
「ニーセー」 青年。若者。
(「今帰仁方言音声データベース」より)

西日本にも、沖縄にもあった通い婚

沖縄の民衆層の婚姻は、明治民法の施行を境にして、当事者同士の自己決定にもとづく通い婚から、家父長である親が配偶者を決定するという親決め婚へと変化していった。民衆層におけるこのような婚姻形態の変化は、沖縄にだけ見られたものではなかった。少なくとも西日本では同じようなパターンを踏んで婚姻形態が変化していったようだ。

民俗学者の宮本常一によると、西日本の婚姻形態も通い婚を含むものだったという。

西日本では、婚姻はまず男が女の家へいって盃(さかずき)ごとをし、その後女が男の家へいく形式が多かった。そして婿入式があって、嫁入りのあるまで、長い場合には二、三年の期間をおくことがあった。(宮本常一『女の民俗誌』)

宮本は自己の郷里・山口県大島での婚姻プロセスを記述している。それは沖縄の通い婚と同様のプロセスを踏むものであり、結婚の当初は通い婚の形態をとり、子どもが二人もできてから嫁入りするものであった。

私の郷里は山口県大島であるが、明治の終わりごろまで、嫁入りの行なわれる前に婿入りの式が行なわれた。好きな女ができて、その女と結婚したいとき、男の方は仲人を立てて相手に申し込みをする。そして話がきまると、日をえらんで男と仲人が酒を持って女の家へゆく。女の家では親類が集まって婿との間にかための盃をする。この婿入りがすむと、男の方は女の家へ公然と出入りできるようになる。女も男の家へ忙しいときなど手伝いにゆくが、どこまでも親もとにいる。夜になれば男は女のところへとまりに来る。それは古い母処婚の名残と見られるものであった。そのようにして女が妊娠し、子どもができ、しかもその子が二人になるくらいまでは里にいることがあり、それから婿の家へゆくことになる。そのとき嫁入りの式が行なわれる。(宮本、前掲書)

「母処婚」というのは妻方居住婚のことで、結婚後、男性が女性の両親の家、もしくはその付近に住む婚姻居住規制の一種をいう。「明治の終わりごろ」というのは1910年前後ということで、明治民法施行からおよそ10年後ということになる。明治民法施行後の10年間くらいは、嫁入りに先立つ通い婚が行なわれていたのである。

「親決め婚とモーアシビのせめぎ合い」では、渡名喜マツのミャークニー歌詞を取りあげて、マツの結婚時期を、当時のシマ社会の結婚年齢から1905~1908年だろうと推測し、マツが親決め婚に激しい抵抗の意を示したことを書いた。

明治民法施行後の10年間くらいは、沖縄だけではなく西日本においても、通い婚がまだ優勢だったのである。マツが親決め婚に激しく抵抗したのは、その当時としてはあたりまえの感覚だったとみることができる。

宮本によると、西日本における通い婚という婚姻形態は、「大正時代にはいると急に消えてしまった」ということだ。

このような風習は大正時代にはいると急に消えてしまったのであるが、これが私の郷里のみの風習でなかったことを、その後方々をあるいている間に耳にして確かめた。(宮本、前掲書)

これは、若者の自己決定による配偶者選択の場であったモーアシビが、大正時代に入ると社会の表面(公開の場)から姿を消していった動きに、一致するものだといえる。

モーアシビの廃止とともに、通い婚も、社会の表面から姿を隠していくとみてもよいだろう。通い婚がいつまで残存したのか。宮本は、愛知県では1957年まで残存していたという記録を残している。

昭和32(1957)年ごろ、愛知県佐久(さく)島で、三人の子を持つ女が、まだ男の家へははいらず、男の方がかよって来ているという話をきいて、そういう古い婚姻様式がここには生きていたのかと、深い感慨をおぼえたことがある。(宮本、前掲書)

沖縄では、野口武徳による1961年の宮古・池間島の調査記録が残されている。

池間島の相続制は長男相続を原理とするので、長男は訪妻期間が一般に短く、一ヵ月~五ヵ月くらいの間に嫁の引移りが行なわれ、二、三男の場合は10年以上にもおよび、子供が二、三人できてから、新居を作って分家を行なうという例さえめずらしくなく、一般に訪妻期間が長い。(野口武徳『沖縄池間島民俗誌』)

宮本の記録と野口の記録とでは、ある程度のタイムラグを考慮しなければならないだろう。1957年の宮本の愛知県佐久島の記録では「いまはほとんどなくなっている」という中での記録であった。


それに対し、1961年の野口の宮古・池間島の記録は、池間島全世帯の世帯主、女世帯主の亡夫についての通い婚の有無を確認したもので、調査対象435人のうち、通い婚の経験「あり」が238人、「なし」が39人、「不明」が158人で、通い婚の経験ありが過半数を占めている。

通い婚については沖縄内の地域偏差、階層偏差も考慮に入れなければならないが、記載されている記録から西日本と沖縄のタイムラグを測るには、愛知県佐久島と宮古・池間島の比較だけで十分だろう。

しかし多少のタイムラグがあったとしても、西日本と沖縄の民衆層における婚姻形態は、通い婚という形態で見るかぎりで、ほぼ同様なものであったといえる。通い婚は沖縄にのみ見られる特異な婚姻形態ではなかったのである。

親決め婚への抵抗

渡名喜マツが適齢期を迎えて結婚する頃は、シマ社会では、結婚は本人の自己決定によるものではなく、家父長制的な親決め婚に変化している時代だった。

マツは親決め婚を受け入れたのかもしれない。次のミャークニーの歌詞は、親決め婚を受け入れた恥ずかしさを歌っている。

里やとぅじかめい わんやうとぅむちゅさ
 うとぅむちゃいいきば わらてぃくぃるな

【恋人〔男性〕は妻を探してしまい、私は夫を持ってしまった。夫を持ったからって、笑わないでね】

【語釈】
「里(サトゥ)」は男性の恋人をいう。「トゥジ」は妻のこと。「カメーユン」は捜し求めること。男性が結婚することを、妻を捜し求めるという。「ウトゥ」は夫で、女性が結婚することを、夫を持つという。

本来なら自己決定で伴侶となるべき恋人同士が、それぞれに親決め婚をしてしまい、顔を合わすときには苦笑いするしかない状況を歌っている。

親決め婚に対する抵抗は離婚だ。離婚をちらつかせることによって、親決め婚が理不尽であることを歌っている。マツの夫に対するというよりも父親に対する抵抗なのかもしれない。

あみふらいでぃしば てんぬむよ変わてぃ
 うとぅふらいでぃしば ちらぬかわてぃ

【雨が降ろうとすると、天の模様が変わる。夫を振ろうとすると、〔夫の〕表情が変わってしまう】

【語釈】「チラ」は顔のこと。

通い婚では、家庭内における女性の権限が強かった。子どもが二三人もできるまで男性は女性の家に通わなければならなかった、つまり、家というイメージは女性を中心に成立していたからである。

親決め婚では女性の権限は弱くなり、男性に従属的な位置づけになる。そのような男性権限に対して皮肉を飛ばしているのである。雨が降るのと夫を振るのとを同列に歌うことによって、親決め婚を軽いものにしてしまっている。

親決め婚は明治民法によって定められた家父長制にもとづくものであったが、マツにとっては、モーアシビの自己決定による結婚と比べるなら、正当性をもたない婚姻法だったのである。

怒りを込めたマツの皮肉によって、夫は妻がからかうたびに動揺しなければならなかったのである。

うとぅやむちゅらばや しじゃ夫や持ちゅな
 しじゃ夫や持ちば わ自由ならぬ

【夫を持つならば、年上の夫を持つな。年上の夫を持ったら、私の思い通りにならない】

【語釈】「シージャ」は年上、年長を意味する言葉。

腹立ちまぎれに歌うのは、離婚をほのめかせる歌だけではない。年下の夫を持って、自分の意のままに生活したいと歌う。男性中心主義的な親決め婚による結婚に、異議申し立ての歌を歌い続けるのである。

義母ではなく継母と表現される姑

近代以前の沖縄にはチョンダラー(京太郎)=ニンブチャー(念仏者)という職能民がいた。チョンダラーという人形芝居を演じて各地を巡り、葬式のときには葬列に従って念仏を唱えた。彼らの唱える念仏の中に、《ママウヤ・ニンブツ(継親念仏)》という歌があった。

宮良当壮の『沖縄の人形芝居』(1925年)によると、次のような歌であった。

次に掲ぐる四十三句はママウヤ・ニンブツ(継親念仏)と称するもので、……この念仏は継母の虐待を受けた子供が亡き母親を慕って諸国を巡り歩くうちに一人の老爺に遭い、我が親に会わしてくれというと、老爺はお前の親は間の日〔普通の日〕には会えない、七月棚機(たなばた)の中の十日に来い、この日はあの世の七つの門が開く時であるから、糸を巻く管(くだ)節をたくさん切り貯えて右の袖にも左の袖にも入れて来てその間〔孔〕から拝めよと教えてくれる。子供は老爺の教うるままに遂に亡き母に会って苦衷を陳べると、母親はそんな事はいわず家へ帰って茶湯や色々の物の初などを供えよ、私は蜻蛉(あきつ)や蝶に姿を変えて往って受け取ろうと誡めてやる。

この歌でいう継親(ままおや)とは継母(ままはは)のことをさしている。古形のエイサーでは、《ママウヤ・ニンブツ》を歌うのが定番であったようだ。

エイサー 祖先供養の踊りの名。盆踊り。かつては御盆のときに集落の青年たちが各家をまわって三線を弾き、歌を歌って祖先を供養した。……現在のエイサーとは違い、クバ笠をかぶり頬被りをして顔を隠し、ママウヤニンブチ (継親念仏)、チュンジュンナガリ(仲順流れ)などの悲しげな歌を歌った。(「首里・那覇方言音声データベース」)

《ママウヤ・ニンブツ》は古形エイサーの定番の歌であったのだから、ある時代(現代のエイサーが誕生する以前)まではポピュラーな歌だったといえる。

渡名喜マツの歌うミャークニーの歌詞に、「継親(ままうや)」という言葉の出てくる歌が二首ある。この継親という言葉の背景には、《ママウヤ・ニンブツ》があるとみてよいだろう。

《ママウヤ・ニンブツ》からすると、継親という言葉は継母を意味することになる。ところがマツの使う継親は継母を意味する言葉ではないようだ。なぜなら生みの親は死んでいるのではなく生きているからだ。それからすると、マツの使用する継親という言葉は、実家の母親と対比される母親のことであり、嫁ぎ先の姑(しゅうとめ)ということになる。

しんちぬびゃがいぬ 継親ぬじょぐち
 笑てぃぬびゃがいぬ わ親じょぐち

【いやいや立ち寄る、姑の家の入口。笑顔で立ち寄る実家の入口】

【語釈】
「シンチ」は「辛気」のことだろうと思われる。
「ヌビャーガン」 伸び上がる。ちょっと立ち寄る。ちょっとうかがう。(「今帰仁方言音声データベース」)
「ヂョーグチ」 門口。門の入口。(同上)

今帰仁方言や首里・那覇方言では、舅(しゅうと)と姑を区分する言葉はない。どちらも「シトゥー」である。そのためにマツは、継親(ママウヤ)という言葉を使用したのかもしれない。《ママウヤ・ニンブツ》によって、継親という言葉には継母というイメージがつきまとうからである。

次の歌は姑とのつきあいが虐待に耐えることだと歌っている。もちろん実際のことと受け取る必要はない。《ママウヤ・ニンブツ》における継子(ままこ)のイメージに仮託して、嫁入り婚に対する怒りを吐き出しているのだ。

ぴーさらばんにじり やーさらばんにじり
 ままうやぬぴれや あねるあいさ

【寒くても堪えなさい、空腹でも我慢しなさい。姑とのつきあいは、そんなものだよ】

【語釈】
「ピーサ」は寒いこと、「ヤーサ」は空腹を意味する言葉。
「ニヂールン」 念じる。我慢する。堪える。こらえる。食物を食べずに我慢する。(「今帰仁方言音声データベース」)
「ピレー」 つきあい。交際。(同上)
「アンネール」 あんな。(同上)

辻売り

土地整理事業で土地の私的所有権が確立されることによって、沖縄のシマ社会に貧富の格差が拡大し、固定化されていくことになる。

この貧富の格差拡大は、山原(やんばる)地方(国頭郡)に顕著に見られたようだ。下の図表は辻遊郭に売られたジュリ(遊女)たちの出生地を1903年と1914年とで比較してみたものだ。

辻売り

土地整理事業が終わった1903年は、山原出身のジュリたちは少ない。11年後の1914年には山原出身のジュリたちは辻遊郭構成員の四分の一を占めるようになる。私的所有権の確立にともなう市場経済への編入に対応することができず、多くの農家が没落したことを示している。

1932年にヒットした、辻遊郭を舞台にした創作民謡の《西武門節(にしんじょうぶし)》は、名護市の旧羽地村の民謡《ヨーテー節》に歌詞を載せたものだという。また、戦後、女性だけの沖縄芝居の劇団で、圧倒的な人気を博した「乙姫劇団」は、辻遊郭の出身者が多くを占めていた。その乙姫劇団では団長のことをマーマーと呼んでいたとのことだった。マーマーというのは、旧羽地村、今帰仁村、本部町で「姉」を意味する言葉だった。《西武門節》とともに、山原出身のジュリが多かったことを物語るエピソードだといえよう。

ジュリというのは遊女のこと。辻遊郭は、芸能と恋愛、沖縄料理というエンタテインメントの中心地だった。伝統的な沖縄料理の多くは辻遊郭を発祥とするものだった。芸能の名手も多数輩出した。

1920年代の沖縄経済は、1921年からはじまる砂糖価格の大暴落と租税負担の急騰によって、ソテツ地獄と呼ばれる壊滅的な恐慌状態に陥る。

ソテツ地獄 大正末期から昭和初期にかけての沖縄県の経済的窮状をさすことば。主食(サツマイモ・米)を確保することもできずソテツ(猛毒を含み、調理法を誤ると中毒死する)を常食とせざるをえないほどの苦境下にあったことからその名が生まれた。(高良倉吉『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

この恐慌によって多くの零細農家が没落し、人身売買、移民・出稼ぎ者の急増を招いた。

国税の滞納

上のグラフは「読谷バーチャル平和資料館」作成による国税の滞納率。1920(大正9)年に24円台を示した糖価は、翌1921(大正10)年に一挙に半値の12円台に落ちこんだ(仲里嘉彦「恐慌と県経済」より)。それにもかかわらず国税調定額は急騰し、多額の滞納額を記録することになった。

山原で辻売り(チージウイ)が増加するのは、渡名喜マツの10代から20代にかけてのことだった。そして、糖価下落による恐慌(1921年)によって辻売りは全県的に増加することになる。ソテツ地獄が起きたのは、マツが32歳の時だった。

辻売り(チージウイ) 主として辻の遊女として身売りされること。一般に「ジュリ売(ウ)イ」ともいう。年季契約でなされたが、抱え主(アンマー)からの借金がかさんで契約期間内で解放されることは少なかったようである。……琉球処分後も、辻売りは存続し、とくに大正中期から昭和初期にかけての「ソテツ地獄」の時代には多かった。いずれにしろ、農村の窮状と切り離しては考えられない。(太田良博「辻売り」『沖縄大百科事典』)

マツは辻売りに対する怒りの歌を歌っている。

わたむげてぃならぬ さかなやちうてぃてぃ
 ありがうやちょでえや[あきよわが親や]しきんならぬ

【腹が煮えくりかえってならない、遊郭に落とされてしまって。彼女の親兄弟は[ああ私の親は]、世間に顔向けできない〔家族になる〕】

【語釈】
「ワター」は「腹。おなか」の意。「ムゲールン」は「沸騰する。沸く。煮え立つ」の意。「ワター ムゲールン」で「 怒る。腹が立つ」となる。
「サカーナヤー」は肴屋で「料亭。遊郭」の意。
「アキヨ」は「ああ。あわれ」という感嘆詞。今帰仁方言の「アギヂャベー」は、もどかしく相手をせめたてたり、相手にいどんだり、あきれかえったりするときにいう。「アキヨ」は歌語(かご)で、ニュアンスは「アギヂャベー」と同じ。
「シキン」は「世間。世の中」。

遊女に売られることは世間から切り離されることを意味した。マツは売られる女性だけではなく、その家族も世間から切り離されると歌っている。遊女に売られることに対する強烈な嫌悪感があったことがわかる。

うやぬなしみせや じゅりんりやなさぬ
 あわりからなたぬ じゅりるやゆる

【親が産むときは、ジュリとして産んだのではない。生活苦から生れた、ジュリなのだ】

【語釈】
「ナスン」は「産む。分娩する」。
「アワーリ」は「あわれ。みじめ。きのどく。苦労。難儀。つらいこと」の意。

前の歌は家族に対する抗議だったが、この歌は社会に対する抗議をうたっている。娘を売らなければならないところまで追いつめてしまう、社会のメカニズムに抗議しているのだ。

あみぬふてぃぱりてぃ 草はやがあわり
 うりゆかんあわり 辻ぬじゅりぐゎ

【雨が降ろうが晴れようが〔草を刈る〕、草刈り人は哀れ。それよりも哀れなのは、辻のジュリたち】

【語釈】
「クサーハヤー」は今帰仁方言で「草刈りをする者」。「グヮ」は小さいことを表わす接尾語。愛称にも蔑称にも使用される。この歌の場合は、同情を寄せる愛称とジュリを見下す蔑称の意が同居しているようだ。

「クサカヤー(草刈人)」は家畜の餌としての草刈りをする者のこと。雇い主に対する従属度が高く、身売り同然の雇用形態であった。ジュリの境遇をそれよりも哀れだとマツは歌った。

なぜだろうか。子どもを売るのは辻売りだけではなかった。クサカヤーや漁業における糸満売りなども同様の形態だった。しかしクサカヤーや糸満売りに対する怒りの歌はマツには見られない。

それはクサカヤーや糸満売りが年季奉公という性格を持っていたためだろうと思われる。クサカヤーや糸満売りは幼少で売られ、徴兵検査の年までという契約が多かった。契約期間を満了すると、一人前のシマンチュ(シマ人)に戻れたのである。

それに対してジュリは、前借金を返済してもシマに戻ることはできなかった。それならば根なし草になるのかというと、そういうわけでもなかった。辻遊郭には仏壇行事がなく、死後に埋葬されることはなかった。死後はシマに戻り、シマの墓に葬られなければならなかったのである。

 チージへおちる金は妓たちの生家へも流れていく。生家の家づくり、墓づくりもチージの妓たちのやらなくてはならない務めだった。
 「いちばん悲しい思いをさせた娘がいちばん親孝行をしてくれる」とよくきかされたが、戦前の農村で瓦ぶきの家の大半は、その家の娘がジュリ売りされたためだという。
 チージで一生を終えた妓たちも故郷の墓地で眠る。そのため自分のトートーメー(位牌)を祭り、後生をとむらってくれる親兄弟や親族のために墓をつくり、家を建ててやった。(『那覇市史資料篇第2巻中の7那覇の民俗』)

つまり生前のジュリは、生まれジマに対して不安定な位置づけを持ち続けることになる。そのような不安定な位置づけに対して、苛酷な労働で知られるクサカヤーよりも哀れな境遇である、とマツは歌ったのだろう。

渡名喜マツは、クサカヤー(草刈人)などのような従属的雇い人の存在や糸満売りにたいしては、抗議の歌を歌うことはなかった。ところが遊郭に娘を売る辻売りにたいしては強い抗議の歌を歌った。

なぜだろうか。それには二つの要因が考えられる。一つには、辻遊郭に売られることは生きながらにして異界のものとなることを意味していたからだ。もう一つは、「義理」というモラルに対する抗議である。「義理」というモラルは貨幣経済の代名詞であり、「贈与」というモラルに代わるものだった。「贈与」によって与えるのではなく、「義理」で縛ることによって、人と人とを結びつけたのである。辻遊郭に売られる娘が急増することによって、「義理」というモラルが、シマ社会にも忍びこんでくることになる。

辻遊郭はジュリ(遊女)出身のアンマー(抱え親)たちによって自治がなされていた。遊郭の自治に男性が介入することはなかった。辻遊郭は女性だけのコミュニティだったのである。

辻遊郭の中では、抱え親と遊女たちとのあいだで擬制的な母子関係、また遊女どうしでの擬制的姉妹関係が構築された。この擬制的親族関係を支えたのは、「義理・人情・報恩・礼節を守る」というモラルだった。

辻には血縁地縁はないが、母親(アンマー)・子どもたち(クヮヌチャー)・姉妹(チョーデー)とよびあって擬制的な親族関係を作り上げ、さらに義理・人情・報恩・礼節を守ることによって郭内の秩序を保った。(外間米子「辻」『沖縄大百科事典 中巻』)

この擬制的親族関係は、それ自体で完結したミクロコスモスを創るというものではなかった。そこには葬送儀礼が欠けていたのである。

アンマーもジュリも、生を終えるとそれぞれの故郷の生家へ帰る。葬式は遊郭ではやらず、そこ〔遊郭〕の家々には仏壇もない。そのためジュリたちは死後をとむらってくれる生家の親兄弟や自分の養子のために、いつまでも仕送りを続けていた。(外間米子「ジュリ」『沖縄大百科事典 中巻』)

「生を終えるとそれぞれの故郷の生家へ帰る」ということは、辻遊郭が生きているあいだだけの仮住まいであったことを物語るものだ。仮住まいであった辻は、地上における異界だった。そこには結婚もなく、死後を弔うものもなかった。恋愛と遊行だけで成立する儚(はかな)い世界だったのである。しかしその儚さのゆえに、芸能が研ぎ澄まされることになった。

辻の人たちはジュリ以外の人を「俗人」と呼んだ。「俗人」の反対語は「僧侶」ということになる。つまり宗教的な存在だ。ジュリたちは自らを、「聖なるもの」と自覚していたのだ。

辻の人たちはジュリ以外を「俗の人(ジュクヌチュ)」とよんで自らと区別し、辻はジュリたちだけの「女護ケ島」であった。(外間米子「辻」、前掲書)

生きながら異界に住むジュリたちの死は、シマの人たちの眼にどのように映ったのだろうか。それは旅先の死であった。

沖永良部出身の両親を持つ作家の干刈あがた(1943-1992)は、シマから出郷している生活自体がタビと呼ばれているのだと指摘する。

 私は島言葉をはなすことはできないが、聞いてはわかる、と思っていた。東京在住者たちが話す島言葉はすべてわかった。けれど島の人たちが互いに話す早口の島言葉や、老人の島言葉は、よくわからなかった。……
 その中で、何度も繰り返し出てくる「タビ」という言葉が、私の語感の「旅」とどうもぴったり重ならなかった。……
 どうやらタビというのは、単なる船旅とか旅立ちの旅だけではなく、島に対しての本土、本土での暮らし全体を指しているらしい。本土で二十数年暮らしてもそれは旅、そこで子を生んでもそれは旅の子、帰るべき地は島である。タビはそういう意味であるらしいことがわかった時、私の中で何かが揺れた。(干刈あがた『島唄』1980年)

シマ以外の生活はタビの生活だった。それは沖永良部だけではなく奄美諸島から八重山諸島、与那国までに共通する語感だった。旅先の死は、「ヤナジニ(悪死)と称し忌み嫌われる」ものの一つだった。

溺死、自殺、事故死などはとくにヤナジニ(悪死)と称し忌み嫌われる。……溺死者の葬法としては、遺体を家に運んで来るのを忌み、浜から直接墓へ運んで葬式を済ませてしまう。また、一応家まで遺体を運んで来るが、そのさい正門からは入れず、屋敷裏から垣根などを取り壊して入れる地方もある。……旅先で死んだ場合にも、溺死者とほぼ同じ葬法でおこなうが、これを潮川渡りという。(名嘉真宜勝「特殊葬法」『沖縄大百科事典 中巻』)

なぜ旅先の死が忌み嫌われたのだろうか。大正期の沖縄研究者、民俗研究家であった佐喜眞興英は、「異郷の空で死んだものの祟り」を恐れたのだと指摘している。

 島人が異郷の旅の空で死亡する事を著しく忌んだ。島人の大事に保存する遺骨を得ることが不便であること、死者の霊が異郷の空に徨(さまよ)うを恐れたことがその原因であったろう。……
 異郷の空で死んだものの祟りということもよく話された。いわゆるシューカワタイ(潮川渡り)とはこれであって、島人の恐るるところであった。(佐喜眞興英『シマの話』1925年)

旅先の死者の彷徨う霊魂を恐れたため、遺骨を運ぶときは慎重だった。

異郷で死んだ者の遺骨を運ぶ時には、出来るだけどこも憩わず歩き続けた。霊魂が憩うた場所に落ちることを憂えたからである。やむを得ず途中で憩う時には、納骨器を置いた場所から土塊をとってこれに入れ、霊魂の脱漏を防いだ。途中で橋を渡り谷や川を越す時には、ウドゥルチミショーンナ(驚き召さるな)と言いつつ、持っている洗米を振りまいた。(佐喜眞、前掲書)

辻に売られるということは、前借金返済の問題にとどまるものではなかった。死後の自己の霊魂を、シマにとっての恐るべきものとして受け入れることでもあったのだ。そのような深い諦念を強いることに対して、マツは怒りの歌を歌ったのだと思う。

そしてもう一つマツの怒ったのが「義理」というモラルの浸透だ。シマ社会に義理というモラルは必要なかった。人と人とを結びつけるモラルは、分かち合うこと、与えることだった。「義理」などのように人と人とを縛りつけるモラルは無縁なものだったのである。

ぴゃくみやぬしちに じりりちんあたが
 ぬがよくぬしちに じりでぃあたが

【百歳を見ることもない節(命)に、義理というものがあるのか。どうしてこの節に、義理があるのか】

人の一生は短い。その短い一生が義理で縛りつけられることに、怒りをぶつけている。義理というモラルは、貨幣経済の代名詞であった。貨幣経済は義理というモラルで、人間を縛っていった。その貨幣の持つ呪縛に、マツはストレートな怒りをぶつけているのである。

【語釈】「ピャークー」は「百歳の人」。「ミャーヌ」は「見えない」。「シチー」は「節」。(「今帰仁方言音声データベース」より)

大和と沖縄

土地整理事業によって市場経済に組み入れられて以降、出稼ぎ・移民によって、沖縄の人々は県外への離散を開始していく。県内で現金収入を得ることがむつかしかったからである。

渡名喜マツが生涯をすごした今帰仁村は、1935年時点での人口は12,689人だった(「国勢調査」)。その母村の人口に対して、同年の出郷者の人口は母村人口の26.2%を占める3,319人だった。内訳は、海外移住者は1,253人、旧植民地在住者281人、本土在住者1,785人となっている(『名護市史資料編1 近代歴史統計資料集』より)。

今帰仁村の人口のうち、四人に一人は県外に出ていたということになる。これ自体が大きな数字であるが、留意しなければならないのは、出稼ぎ・移民に出た人たちの多くは、未婚の青年男女だったということだ。そこからすると、26.2%という出郷者の人口は、単純に母村の四分の一を占めるというだけにはとどまらない数字であることがわかる。未婚の若年者人口からすると、おそらく過半数を超えていた可能性がある。つまり若者仲間のうち、二人に一人は県外に出ていたかもしれないということだ。

1935年現在での今帰仁村人口に占める本土在住者の割合は14.1%だった。この数字は県平均の5.5%の3倍近くに達するものだ。母村の今帰仁村民と本土在住者との精神的な紐帯は、県内の他市町村に比べると、相当に強いものだったに違いない(本土在住者率のもっとも高かったのは大宜味村の15.4%であり、以下、本部町15.0%、今帰仁村14.1%、旧羽地村13.2%と続く)。

マツは大和(ヤマトゥ)から沖縄(ウチナー)に七つの橋を架けようと歌う。それだけ大和が身近な存在としてあったのだ。

大和からウチナ ななちばしかきてぃ
 うち渡い渡い うりが上から

【大和から沖縄に、七つ橋を架けて。軽やかに渡っていきましょう、その上から】

「七つ橋」とはどういうことを比喩しているのであろうか。

久高島の神女就任儀礼である「イザイホー」では、神女候補者たちは、拝殿の前にもうけられた「七つ橋」という木製の七段梯子を7回往復して、神女に就任する。つまり、「七つ橋」はリアルな橋ではなく、俗なる存在から聖なる存在へと変身するための幻想の橋だった。その橋を渡って、シマの女性たちは神女に就任するのである。

今帰仁ミャークニーには、マツの歌った歌詞以外に、「七つ橋」を詠んだ次のような歌詞がある。

くいぬめぬくるしゅ 渡ららん黒潮
 七つ橋かけてぃ 渡ちたぼり

【関洋訳】古宇利島の前の黒潮(大海の黒い潮)は船で渡ることができない黒潮だ だからたくさんの橋(船橋のことだろう)をかけて渡らせてください(「今帰仁ミャークニー ⑷」『たるーの島唄まじめな研究』より)

【語釈】「クルスー」は「黒潮。海底が深く青黒くなっている潮。青黒い潮」の意。(「今帰仁方言音声データベース」より)

今帰仁村運天と古宇利島のあいだには、大河のような黒潮(クルスー)が流れている。この歌はおそらく運天側から歌った歌なのだろう。この黒潮を越えて古宇利島に渡るには「七つ橋」が必要とされている。「七つ橋」がイザイホーにおける幻想の橋であり、聖なるものが渡る橋であるならば、運天から渡る者たちも聖なるものでなければならなかった。

聖なるものとはモーアシビの青年男女のことを指していた。モーアシビで重要な点は、モーアシビが来訪神祭祀の一環をなしていたということだ。

琉球古典音楽の《安波節(あはぶし)》では、モーアシビの情景が歌われている。

あふぁぬマハンタや ちむすがりどぅくる
 うくぬまつぃしたや になしどぅくる

【安波の〔ムラの山頂にある〕絶壁は、清々しい気持ちになる所。奥の松の下は、〔恋人どうしが〕寝る所】

安波の集落は、古くは港に面した山の斜面にあった。その山の中腹にノロ屋敷や神アシャギがあり、さらにその上の頂上近くに、モーアシビの場所であるマハンタ(絶壁)があった。

空間的な構造からいうならば、未婚の青年男女の歌垣であるモーアシビの場が頂点にあり、その頂点から少し下ったところに、ノロ屋敷や神アシャギなどの神を祀る場所がある。

つまり、モーアシビの場所であるマハンタ(絶壁)の広場は、神々が来臨する聖域であったことになる。モーアシビと来訪神祭祀は、密接な関連をもつものといえる。

モーアシビの青年男女は、聖なるものとして、「七つ橋」という幻想の橋から古宇利島に渡らなければならなかったのである。

幻想の「七つ橋」は、モーアシビをしたいという願望を表わすとともに、離れ島を異界=他界とみなす思考法をも表しているといえる。離れ島が異界=他界であるならば、そこに渡るためには「七つ橋」が必要とされる。「七つ橋」を渡ることによって、生きながらにして異界=他界と往来できるのである。

「大和からウチナ ななちばしかきてぃ」とマツの歌う「七つ橋」は、イザイホーにおける神女就任儀礼としての「七つ橋」、そして、モーアシビにおける幻想としての「七つ橋」を前提として詠まれたものだろう。ただし、拝殿前の「七つ橋」、目前の島にかかる幻想の「七つ橋」ではなく、視えない「大和」に架かる橋として歌われているのだ。

やまとたびすしや みちゅなりばいめさ
 いちいめがさとめ かじりしちゅか
[ぐそぬ旅すしや ちゃ入りくまい]

【大和旅をする人は、三年たてば帰ってくる。いついらっしゃるの恋人よ、〔紡績の就労契約のように〕期限を決めておきましょうよ[あの世へ旅する人は、いつも行ったきり]】

【語釈】
「ヤマートゥタビー」は「日本本土への旅」。
「ミチュー」は「三年」。
「メンセン」は「いらっしゃる」、首里・那覇方言では「イメーン」になる。
「サトゥー」は「女が恋人を親しんでいう語」、「サトゥメー」は「背の君。わが君。恋人」。
「カヂリー」は「期限」。
「グソータビ」は「あの世への旅。死出の旅」。
「チャー」は「いつも」。
「イリクミー」は「入り浸る」こと。
(「今帰仁方言音声データベース」より)

「今帰仁方言音声データベース」では、「ヤマートゥタビー」は「日本本土への旅」となっている。これは直訳であり、「大和旅」というのは日本(ヤマトゥ)への旅行を意味するだけの言葉ではなかった。紡績への就職などが「旅(タビ)」だったである。

紡績女工の契約年数は3年が基本であった。だから大和旅(紡績への就労)をすれば3年で帰ってくるのである。「いついらっしゃるの恋人よ」というのは、通い婚での夫婦の会話である。通い婚では夫が夜だけ妻のもとに通ってくる。しかし妻がじりじり待つのに夫はなかなか通って来てくれない。紡績女工の契約のように、あなたが訪問する日の期限を決めておきましょうと、夫に皮肉を言っているのである。

[]内の歌詞は、下の句を入れ替えたもの。上の句の「大和旅」を受けるのは「後生(ぐそ)ぬ旅」となっている。「大和旅」と歌うと、それから連想されて、下の句には「後生(ぐそ)ぬ旅」(死出の旅路)という言葉が付けられるのである。つまり、大和旅と死出の旅路は同じ位相にあったものといえる。

なぜ大和旅が死出の旅路という他界を連想させるのだろうか。大和は異界を連想させる名称だった。

大和が異界であることを連想させる歌の一つに、八重山古謡の《鷲(バシィ)ユンタ》がある。深山に生える大アコウの枝から巣立った鷲の子たちが、元日の朝に大大和(ウフヤマトゥ)の島に飛んでいくという歌である。叙事詩の歌謡で10番まである。10番目の歌詞は次のようなものだ。

ウフヤマトゥヌシィマン 舞イチィケ
ヤスラリヌフン 飛ビチィケ

【大日本の島に舞って行け。安らかな国へ飛んでゆけ】(喜舎場永珣『八重山古謡 上巻』)

喜舎場永珣(1885-1972)は、「ヤスラリヌフン」を「浦安の国」と訳している。理想郷を意味する言葉なのだろう。「大大和ヌ島」はその対語なので、理想郷としての異界を意味する言葉として用いられているのだといえる。

渡名喜マツの歌う「大和旅」の「大和」も、半ば異界の意味を含む言葉であったのだろう。だから「大和旅」は「後生(ぐそ)ぬ旅」を連想させる言葉となったのである。異界と他界の差異は、戻れるのかどうかだけの差異であった。異界のイメージと他界のイメージは、たやすく変換されたのである。

ミャークニーとタブー

うたすんでぃゆそぬ 笑わりらはじやしが
 うたやはる道ぬ さかいでむぬ

【歌っているよとよその人から、笑われるかもしれないけど。歌によって畑の道は、栄えるのだから】

【語釈】「パルー」は「畑。原野」。「サケールン」は「栄える。繁栄する。繁盛する」。(「今帰仁方言音声データベース」より)

渡名喜マツがミャークニーを歌いながら畑に向かうと、道行く人たちから笑われたようだ。なぜなのだろう。

それは歌う場が日常生活から失われていく過程にあったからであろう。歌う場とはモーアシビの場である。モーアシビは明治時代後半の風俗改良運動の標的となり、戦前の軍国主義の風潮が高まる中で、社会の表面から姿を消していった。

地域により異なるが、明治後半あるいは昭和10年代にかけて警察や教育界側から風紀上問題があるということで圧力が強化されたことなどもあって、〔モーアシビは〕しだいに消滅していった。(崎原恒新「毛遊び」『沖縄大百科事典』)

歌う機会の失われていく民衆層は、他者が歌うことに対しても批判的になっていく。その時代風潮が「ゆそぬ 笑わりらはじやしが」(よその人が笑うかもしれないが)という表現につながっていくような気がする。

1926年に石垣島を訪れた奥野彦六郎は、「常に歌声をいたるところで」聴いている。『今帰仁村史』によると、モーアシビは「大正年間にはどこのシマでも廃止されてしまった」ということである。モーアシビが禁圧される前の今帰仁村では、石垣島のように、いたるところに歌声が流れていたのかもしれない。

大正15年の秋、筆者は石垣島に滞在したが、その折、常に歌声をいたるところで聞いた。馬にまたがって野良仕事から帰る乙女、舟に乗って漁猟に出る若者、そこらで桑の木を伐っている老人までが実にのんびりとしたよい声で心ゆくまで歌っている。石垣島を出発する際、はしけに一人の老婆が乗り合わせていたが、やがて赤々と沈む夕日に向かって歌い出したのは、「与那国(ゆのん)ションカネー」であった。高く低く長くひいて、とだえ、またつきぬ思いを声を限りと叫ぶのを周囲のものはただシンミリと聞いていた。(奥野、前掲書)

道行く人から笑われたもう一つの理由は、ミャークニーが男女の恋歌を中心とする歌だったせいもあるだろう。沖縄の歌に労働歌は少ない。多くは恋愛の歌だ。農作業の場で恋愛歌の歌われることが、忌避されたのかもしれない。

そのような忌避に対して、マツが「うたやはる道ぬ さかいでむぬ」(歌によって畑の道は、栄えるのだから)と切り返したのは、ミャークニーこそが豊穣を招き寄せるという自負によるものだろう。

モーアシビにおけるミャークニーは、来訪神祭祀におけるウシデーク(沖縄諸島の農村でシヌグ、ウンジャミなどの祭りののちに女性のみで行う祭祀舞踊)と同じ位相を持つ。だからミャークニーを歌うことで、豊穣を招き寄せることができるのだ。

来訪神祭祀は神と神女との恋愛という形態を踏む。神女というのは一家の主婦のことだ。一家の主婦というのは、実は人間の妻になることを意味するのではなく、神の妻になることを意味したのである。神はヒヌカン(火の神)を通して家庭やシマ社会に来訪する。ヒヌカンを祀るのは一家の主婦だった。

主婦は来訪神祭祀の場では、人間の妻であることをやめ、神の妻に変身を遂げる。そのことによって神に等しい威力を身に付けるのである。

神が神女の招きに応じてシマを訪れることによって、シマに豊穣が招き寄せられる。そのため来訪神祭祀には女性が恋人を招くための恋愛歌が多い。神の妻が神を招くのである。

たとえば、八重瀬町安里の女性円陣舞踊「ウフデーク」は来訪神祭祀にともなう芸能であるが、ウフデークの中心になるのは次の歌詞である。

ヒイヤー ウディマクラ ユナカ ハナムシル
 アカチチヌ ワカリ スディヌ ナミダ

【ヒイヤー腕枕、夜中花むしろ。あかつきの別れ、袖の涙】

これは一夜をともにした男女の暁に別れを歌う歌で、神とその妻との別れを歌っている。神の妻になるのは集落(シマ)の主婦たちである。

この来訪神祭祀の形態はモーアシビの形態と同型である。シマの女性全員は神の妻になる資格を持っており、神を招く力を持っているのだ。だからマツの歌うミャークニーは、畑に豊穣をもたらすのである。

1950年代の今帰仁村や本部町では、昼間にミャークニーを歌うことが忌避されていたようだ。次の新聞投稿でそのことがわかる。

「ピィル三線」喜屋武隆豊(59歳)
昔、私のむらでは「ピィル三線(昼間三線を弾く者)」は、「シニヌガー(怠け者)アシバー(遊び人)」などと呼ばれ嫌われた。ミチ三線(歩きながら三線を弾くこと)も禁じられていたし、宵の口からミャークニーを歌う者がいたら、古老は激怒した。理由は分からないが、民謡は昼間の労働の後に歌い聞くもの、恋歌は寝静まったころに歌うもの、との不文律があったのだろう。(沖縄タイムス[茶のみ話]1997年9月21日)

「ナークニー」のことを「ミャークニー」と発音するのは今帰仁村・本部町の特徴だ。投稿内容からすると、投稿者が十代だった1950年代のことだとみていい。

1950年代はマツの60歳代にあたる。投稿で言及された「古老」はマツたちの同世代か少し上の世代だということになるだろう。「古老は激怒した」というのは、マツの「うたすんでぃゆそぬ 笑わりらはじやしが」(歌っているよとよその人から、笑われるかもしれないけど)に対応するものだろう。

モーアシビの青年男女と来訪神祭祀における神婚とは、同じ位相をもつものだった。「古老」にはそのような洞察力が失われていたのだ。だからタブーにのみ執着したのだ。マツには自分が来訪神の妻になる資格を備えた女性であることが自覚されていた。

明るいうちにミャークニーを歌うことが、一方では「激怒」を招き、一方では「栄え」をもたらすのだという、相反する解釈になるのだろう。



【参考文献】
井谷泰彦「モーアシビ(毛遊び)と風俗改良運動に関する一考察」(2013年、早稲田大学大学院教育学研究科紀要20号−2)
太田良博「辻売り」『沖縄大百科事典 中巻』(1983年、沖縄タイムス社)
奥野彦六郎(宮良高弘編)『沖縄婚姻史』(1925-27=1978年、国書刊行会)
喜舎場永珣『八重山古謡 上巻』(1970年、沖縄タイムス社)
酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』(1987年、第一書房)
崎原恒新「毛遊び」『沖縄大百科事典 下巻』(1983年、沖縄タイムス社)
佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店)
田名真之『近世沖縄の素顔』(1998年、ひるぎ社)
名嘉真宜勝「特殊葬法」『沖縄大百科事典 中巻』(1983年、沖縄タイムス社)
野口武徳『沖縄池間島民俗誌』(1972年、未来社)
干刈あがた「島唄」(1980年)『樹下の家族』(2000年、朝日文庫)
外間米子「ジュリ」『沖縄大百科事典 中巻』(1983年、沖縄タイムス社)
外間米子「辻」『沖縄大百科事典 中巻』(1983年、沖縄タイムス社)
宮城真治『山原:その村と家と人と』(1987年、名護市役所)
宮本常一『女の民俗誌』(2001年、岩波現代文庫)
宮良当壮「沖縄の人形芝居」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』(1974年、角川書店)
山本弘文「地割制」『沖縄大百科事典 中巻』(1983年、沖縄タイムス社)
『今帰仁村史』(1975年、今帰仁村役場)
『名護市史資料編1 近代歴史統計資料集』(1981年、名護市役所)
『名護市史資料編2 戦前新聞集成1』(1984年、名護市役所)
『那覇市史資料篇第2巻中の7那覇の民俗』(1979年、那覇市企画部市史編集室)
「今帰仁方言音声データベース」「首里・那覇方言音声データベース」を含む琉球語音声データベースは2020年9月3日から閉鎖されている。

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