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「人生の意味」を見出そうとしないこと:『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』

ふと「人生の意味」を考えるときがあるかもしれない。私の人生は何の意味があるのだろうか?私という人間がこの世の中からいなくなったとしても、世界は回り続ける。そしてそれはどんなに素晴らしい人だとしても、その人が亡くなったからといって、ともに世界が終わるわけではない。ならば、なぜ生まれてくるのだろうか。「生きる意味」とは一体なんなのだろうか。

歴史を通してその問いを考えることで、今、私の頭で考えるのとはまた違った角度で物事が見え始める。

▼ 「奇跡の人」はいったい誰なのか

「奇跡の人」はいったい誰なのか
 日本では「奇跡の人」と呼ばれるヘレンですが、実はこの言葉はヘレンを指したものではありません。
ヘレンとサリヴァンを描いた戯曲『The Miracle Worker』が元になっているのですが、「ミラクル・ワーカー」すなわち「奇跡の人」とは、サリヴァンのことなんです。
(中略)
でも、よくよく考えると、実は「奇跡の人」は、サリヴァンだけでもないんです。
サリヴァンが家庭教師を始めるきっかけになったグラハム・ベルだってそうですし、ベルがろうあ者教育に関心を持ったのは耳が聞こえないお母さんがいたからですから、ベルのお母さんも巡り巡っててヘレンの功績につながっています。もし彼女が健常者だったら、サリヴァンはヘレンと出会えなかったでしょう。
それだけではありません。
ヘレンの母に希望を与えた、ヘレンと同じハンディキャップを抱えていたローラ・ブリッジマン(中略)はヘレンより半世紀も前の人ですが、先行事例として彼女の存在があったからこそ、ヘレンは教育を受けることができたのです。
先駆者ともいえるブリッジマンは(中略)障がい者教育という発想すらない時代でしたから、家族に疎まれていたんです。
しかし一人だけ、そんな彼女に優しく接する男性がいました。彼女の家で雇われていた知的障がいのある男性です。名前がエイサ・テニーであるということ以外はほとんど記録が残っていないこの男性が、ブリッジマンに簡単な手話を教え、ブリッジマンは外界とコミニケーションをとれることを知ったのです。
一説では、テニーはネイティブアメリカンから彼ら独自の手話を教わり、それをブリッジマンに伝えたともいわれています。もしその通りなら、テニーに手話を教えた無名のネイティブアメリカンも、奇跡を起こした一人と言えるでしょう。
(中略)
テニーやテニーに手話を教えたネイティブアメリカンにも、偉業を成し遂げた自覚はなかったでしょう。彼らはただ生きていただけです。
しかし、そういう人々の「存在」が複雑な連鎖反応を生み、ヘレン・ケラーという奇跡につながったんです。

『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』131ページ

偉人として名の残るような功績を挙げた人だけでなく、周りの人にも焦点を当て、一見ささやかな人生の人だって、その存在があったからこそ後世まで伝えられる何かが発生している可能性を見つめている。私一人の人生と、周りの人と関わり合っての私の人生という視野が広がる。

▼ 「奇跡」は、誰にもたらすのか?誰にとっての「奇跡の人」なのか?

そこではたと気づく。「人生の意味」や「奇跡」をどれだけ多くの他人に直接もたらすことができるのか、その尺度だけで考えていないだろうか?テニーや名前が全く知られていないネイティブアメリカンは、直接的に影響を与えたのは一人と見えるかもしれない。でもその影響を与えたその人が、後世に多大なる影響を与えた。ということは、テニーたちもまた私達に間接的に影響を与えている。奇跡をつくる一因となったことは間違いないだろう。

そして「直接」という尺度と同時に「誰に、どれだけ」という思い込みもあるだろう。こちらが相手のことを知らないような人たちにも、より多くの人たちに影響を与えることが素晴らしいのか?それとも、「たった一人の人」にとって「あなたは私にとって“奇跡の人”だ」と言ってもらえること、どちらが素晴らしいのだろうか?

比べること自体がナンセンスだと思うかもしれないし、そりゃ多くの人でしょ、と思うかもしれない。多くの人のほうがいいと思うならそれを実現すべく行動したらいいだろうし、私にはそれは無理だと思うから、身近な人にとっての、奇跡とまではいかなくても、大切な人、あなたがいてくれてよかったと言ってもらえる人になるくらいで十分なのだと思う。

▼ 名前が残ることが「奇跡」なのか?

ちょうど最近『エジソンズ・ゲーム』という映画を観た。

アメリカ初の電力送電システムを巡る歴史的なビジネスバトルが映画化!
〈頭脳で世界のトップに立つ世紀の発明王〉トーマス・エジソンと、〈戦略で支配を広げるカリスマ実業家〉ウェスティングハウスが繰り広げる〈電流戦争〉!
"直流"か“交流”か。今の電気の原点を決めることになったこの壮絶な闘いがあったからこそ、現代の私たちは日常の照明や電化製品、コンピューターや人工知能の恩恵を受けた、豊かな暮らしを送ることが出来るのだ。
莫大な金が動く特許の争奪戦に、名誉をかけた裁判。その影で横行するスキャンダラスなネガティブキャンペーンと裏取引──超一流の天才たちによる、息もつかせぬ本気の闘いの全貌が今、明かされる!

https://edisons-game.jp/

エジソンも、子ども向けの伝記にピックアップされるような偉人だ。エジソンの名前はさすがに知っているけれど、ライバルとして台頭しているウェスティングハウスのことは知らなかった。でも、大人になった今、この映画で知れてよかった!

この映画では、実話をもとにしたものであり完全な実話ではないにしても、私にとっては新しい歴史の側面を知ることができた。ちなみに、エジソンと対比するように描かれたウェスティングハウスも、もしかしたら綺麗に描かれすぎているかもしれない。だけれど、私が、ウェスティングハウスという名前を知らなかったことすら、彼の思惑通りだということにはグッと来た。

映画の中でエジソンは自分の名前が残ることにこだわっていた。「自分が」発明したものが広がることにこだわっていた。一方、ウェスティングハウスは自分の名前が残ることにはこだわらなかった。それよりも、自分の発明で世界が住みやすくなる、生活しやすくなることに重きをおいていた。それは彼が自らの死の前に、自分の名前が残らないようにとった行動にも現れている。(映画の最後の、事実として字幕で紹介されている。)ウェスティングハウスの行動からは「どう未来を見据えるのか?」という問いをもらった気がする。

▼ どれくらい自分が「奇跡の人」だと信じられるか

駆り立てられるように「多くの人に影響を与えねば」と行動をし、必死になって「私の人生には意味があるんだ」と思い込むのはむしろ著名人に多いのかもしれない…なんて思う。だからそれだけの名前を広げることに成功しているのだろう。

その次元、その尺度とはまた別に、自分がどれだけ自分のことを「奇跡の人、奇跡の人のサポートをしているかもしれない」という可能性を認めることができるのか。駆り立てられるように、ではなく、安心から沸き起こるような、その感覚を手に入れることはできるのか。

本の引用部分から考えることとのひとつとしては、もしベルのお母さんが健常者だったら…もしローラ・ブリッジマンが存在しなかったら…もしネイティブアメリカンがテニーに手話を教えなかったら…全部がダメになっていたか、ヘレンが偉業を成し遂げられなかっただろうか、というと「それもまた、誰にもわからない」という点がヒントになるのではないだろうか。

▼ 「無限の可能性領域」の可能性

仏教の中で「空(くう)」という概念がある。冥想なども、空(くう)に至ることを目的、目標として…というかんじだけれど、じゃあ空(くう)とは何か、というと、私が教わったひとつの解釈として「無限の可能性領域」という説明があった。私はこの「無限の可能性領域」という言葉が非常に気に入っている。

無と空(くう)は違うと言われる。無とは、なにもないこと。一方で「無限の可能性領域」とは、一見なにもないように見えるかもしれないけれど、そこには「何かが生まれる可能性は常に潜んでいる」という考えだと認識している。可能性は常にそこにある。その可能性が現実化するかどうか置いておいて。現れたほかにもあらゆる可能性は常に存在しているというのだ。

ヘレンの話に戻ると、もしベルのお母さんが健常者だったら…もしローラ・ブリッジマンが存在しなかったら…もしネイティブアメリカンがテニーに手話を教えなかったら…それでも、別の可能性が生まれたかもしれない。何かが生まれなかったら、次の別の可能性が生まれるに過ぎないのかもしれない。ベルのお母さんが健常者でも、ベルは身近にろうあ者と出会い、やっぱりろうあ者の教育に力を注ぎ、結局今の現実と同じように電話を発明したかもしれない。ネイティブアメリカンがテニーに手話を教えなかったら、テニーは別の方法でブリッジマンとコミュニケーションをとったかもしれないし、ブリッジマンじゃない別の人がヘレンの先行事例になったかもしれない。

それはひとつがダメになったからといって、すべての可能性が消えてしまうわけではないということでもあるだろう。そして、ヘレンが先駆者にならなければ、他の人が先駆者となっただけ、という可能性も表しているだろう。

そんな、「無限の可能性領域」の可能性をどれくらい信じられるだろうか。これを信じられるかどうかで、人生を面白く生きたり、希望を持って生きるのに役に立つのではないだろうか。

▼ 「無限の可能性領域」を信じるために必要な2つのチカラ

そして、「無限の可能性領域」の可能性を信じられるかどうかは、2つのチカラが必要だと思う。ひとつは、「すべてがつながっている」ことを認識できるチカラ。そしてもうひとつが、「ifのチカラ」つまり、「もし〜だったら」という仮定の話を繰り広げられること、思考実験を楽しめることだ。

すべてがつながっているからこそ、ひとつの可能性が潰れたとしても次の可能性が舞い込んでくることがあり得る。つながっておらず孤立しているならば、ひとつの可能性が潰えた時点で成り立たなくなってしまう。ささやかなつながりを機敏に感じ取れるかどうか、そこに目を凝らし、耳を澄ますことができるかどうか。

そして、ありえないことや現段階で信じられないことでも事実を一旦脇に置き「もし本当だとしたら…もし○○があった(なかった)としたら…」などという仮定の中で、どんな世界が繰り広げられるかを想像してみられるかどうか。SF映画やSF小説などの作者は、「無限の可能性領域」を信じられているひとつの例だ。

▼ まとめ:「存在すること」自体をみとめられる

僕がこの章の冒頭で、「存在すること」が何よりも大事だと言ったのはそういう意味です。
生きることに意味があるのであって、その人生がどういう意味を持つかなんて、分かりっこありません。ましてや、その人が偉いか偉くないかなんて、判断のしようがありません。歴史は複雑なのです。

あなただって、「奇跡の人」の一人かもしれません。あなたが何気なくサポートしたり、手助けした人が、巡り巡って奇跡を起こしているのかもしれないわけですから。そうだとするなら、自分の価値を信じて生きたほうが、毎日が楽しくなるのではないでしょうか。

『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』

価値を生み出さなければならない、人生の意味があったほうがいい。それらもまた、現代の価値観のひとつだし、もっというと、価値観のひとつに過ぎない。価値観というのは、正解不正解ということではない。私達は、価値観を選ぶことができる。

「奇跡の人」かもしれない、そうじゃないかもしれない。だけれど、生きていい、存在していい、という社会の方が、誰しも生きやすい。私はその価値観を選択したいと思う。


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