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「正義」なんて、あるのか?:『歪んだ正義』

最近「正義」という言葉に疑問を抱くというか、「正義」ってなんだろう…と思っている。

3つのきっかけ

ひとつは世界情勢の変化がきっかけだ。ロシアとウクライナの現状において、正直、歴史に、そして世界情勢に疎い私としては、何がどうなって今があるのかよく分かっていない。1点、ロシアが侵攻したという点においては、戦争は即刻やめてほしいと思うし、そこはロシアが選択を間違っているように思う。だけれど、前々から小さな火種はウクライナから仕掛けられていたとも聞いたりもするし、何が正しくて、何がフェイクなのか分からない。ただ、ロシアの側にも、ウクライナの側にも、それぞれに信じている正義があることは確信する。

そして2つ目に、いわゆる「炎上」を垣間見たことだ。不祥事を起こした芸能人を起用しているスポンサーのもとに関係ない一般人からの苦情が届くということを聞く。たまたまFacebookで流れてきた広告記事に、普通に本名と顔写真を晒し、日常使いをしているアカウントの書き込みで「スポンサーに苦情の電話をかけましょう」と書き込んでいるのを見かけた。誰彼構わず流している広告記事に、平然とこういったことを書き込む姿勢に、この人はきっと自分が正しいことをしている、何も間違ったことは言っていないと信じているのだろうと驚いた。この人の中にも、この人が信じる正義があるのだろう、と。

さらに3つ目に、親戚から親子喧嘩の話を聞いた。親子喧嘩と言うと可愛らしく感じるけれど、どうやら深刻な状態のようで、絶縁一歩手前か…ほぼ絶縁状態だと言う。私ごときが首を突っ込んだところで、という気持ちもあるので深く聞いてはいないが、それぞれに少しずつ話を聞くと、もちろんそれぞれに言い分がある。端的に言ってしまえば「自分は正しい、相手がおかしい」という主張だ。それぞれの立場に立つと、それぞれの主張が正しいと思えるものであり、どちらかを一方的に非難する気にはなれない。ここにも、それぞれの正義がある。

そんなときにずっと前に購入したまま本棚にあったこの本を手にとった。

それぞれの「正義」に感じること

著者は毎日新聞の人であり、海外特派員生活で過激化した人たちが怒りをむき出しにして衝突する現場を何度も目の当たりにし、取材をする中で「その過激化するプロセスはどこから生まれ、どのように育つのか」という疑問を持ち、この本を書いた。現場に追われていては、勉強不足になったり多角的な視点を補う余裕がなかったりで、目の前の点と点を、専門的で統計的な知識を持たないまま、自分の限られた経験だけを根拠につないで「現実」であるかのようにしてしまったこともあり、毎日新聞を休職し、海外の大学院に進学し、この研究を進めたという。

なので、主な事例としてはイスラム過激化やテロリズムだったりで、日本の事例にも触れられていたりするのは少しではある。ただ、上記の本を読んだとき、私には2種類の感情が湧き上がるのを感じた。一つは恐れ、そしてもう一つはむなしさだ。

恐れとは、「私もいつ、そっち側、つまり自分の正義を盲信する側に立つか分からない。いやむしろ、すでにそうなのかもしれない」というものだ。

「あなたは、自分や自分の家族が無差別殺人を犯す可能性があると思いますか」
そう聞かれて、「はい」と即答する人はほとんどいないだろう。
「そんな凶暴な人は、そもそも自分たちとは無縁の世界の住人だから」
もしあなたが咄嗟[とっさ]にそう感じたのなら、本書は一読する価値がある。

『歪んだ正義』はじめに

これはつまり、いつでもあなたはそちら側へ転じる可能性がありますよ、ということだ。

先日、アカデミー賞の授賞式で、俳優のウィル・スミスが、妻を侮辱した司会者を平手打ちにしたというニュースがあった。侮辱は許されたものではないが、暴力自体もまた称賛されるものではない。もちろん、妻の気持ちを守るためという姿勢は賛同する。でも、妻を守るために、本当に暴力以外に司会者を戒める方法はなかったのかとは思う。その一方で、ウィル・スミスを強く批判できない自分もいる。体格のいい男性に掴みかかる度胸は全然ないけれど、いついかなるときもいかなる人にも暴力は振るわないと言える、そんな冷静な判断があるかというと、どうかわからないという気持ちがあるからだ。

また、ある人の意見では「司会者を止めずに周りで笑っているのもおかしい、いじめと同じ構造じゃないか」というものもあった。確かに。それもまた、私がその場にいたとして、周りと一緒に笑う選択をしてしまうのではないか?違和感にきちんと気づいて、毅然と司会者にその指摘ができるだろうか?

そしてむなしさとは、信じるものの不確定さ、人間の愚かさ、盲目的になってしまうことだ。そりゃ、テロリズムを、日本の安心安全の温々した場所から眺めていたら、不確定さは一目瞭然だ。だけれど、藁にもすがる思いで掴んだものが、不確定なものだと見抜くことが本当に可能なのだろうか?盲目的に信じたほうが楽になるのであれば、楽な方を絶対に選ぶ。その確信が私にはある。愚かさとは、その人達が愚かだというのではなく、私自身の中に確実に愚かさが存在しているという意味だ。

鍵は、どんな世界観で生きるのか

彼女はそう言って1冊の本を私に貸してくれた。マサチューセッツ大学アマースト校のロニー・ヤノフ・ブルマン名誉教授(心理学)が書いた世界的な名著『砕け散った前提-—トラウマの新しい心理学へ』だ。
この本は戦争、犯罪、虐待といったトラウマを引き起こすような出来事、特に自然がもたらす天災ではなく人間がもたらす人災がいかに人の世界観を破壊し、人間不信などをもたらすかについて記している。それによると、私たちは主に親との愛着関係を通じ「世界は意義深いもので、善意にあふれている」といった平和で受容的な世界観を育む。こうした世界観があるからこそ、人はやがて外界へと巣立ち、さまざまな挑戦をしたり他者を信じたりして新たな人間関係を築くことができる。しかしこうしたに世界観が形成される幼少期に強いトラウマに長期間さらされると、そもそもそうした世界観を育むことが難しくなる。また、いったん世界観を形成した人も、大人になってトラウマを受けるとそれが傷つけられたり壊されたりするという。

『歪んだ正義』328ページ

例えば、同じ紛争地帯に生まれ育ったとしても、テロリストになる人とならない人がいる。その分かれ道をつくるのが「世界観」だと著者は言う。どんな世界観に生きているのか、生きてきたのかがポイントなのだと。

世界観とはつまり、どんな信念(ビリーフ)や価値観を持っているか、ということだ。そして「正義」についても考える。正義を、こんなふうに捉えていることが間違いなのではないか。

・正義とは、唯一絶対である
・正義とは、100%であり、白黒はっきりするものである
・誰が見ても、誰から見ても正義だというものが存在する
・世論や大多数=正論であり、正義である
・正義か否か、ジャッジが可能である

この本を読んで、思う。正義とは、

・不安定である
・不確定である
・人それぞれに存在する
・時代にもよる

そういう世界観に生きることが、自分自身を「歪んだ正義」から守る一歩なのだ。そういえば『正義とは何か』という本もあるけれど、まだ読んでいない。これから読んでみたいと思う。


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